城下町にて

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王族の褒賞

第2話 赤髪

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私には力がある。筋力という意味ではない。ただ、生物にとっては絶対的である。そしてこれは驕りなどではなく、揺るぎない事実だった。使い方に一癖も二癖もある力。私はこの力があって良かったと思う事はあれど、自分がいて良かったと思えた事は無かった。

店を畳み始めた市場を抜けて、コツコツと石畳に踵を鳴らし歩く。そのうち見えてきた古めかしい骨董屋。その軋む扉をそっと開き、するりと体を中へ滑り込ませた。ランタンの赤に染まる薄暗い店の奥をじっと見つめる。

「遅かったじゃないか」

ニコニコと笑う骨董屋の店主。人の良さそうなその顔が胡散臭い。と、言うのも、私が彼の正体を知ってしまったからだった。

こちらから一歩踏み出して真っ直ぐに目を合わせた。風もないのにランタンが揺れる。

「待たせたのなら謝るべきかもしれない。でも、それより話があるんじゃないかしら?」

ランタンの赤が眩しくなる。柘榴のような、魔術の象徴でもある魅惑の赤。てらてらと顔を照らされながら「それもそうだ」と店主は違った笑みを浮かべた。三日月を描いた口元に見覚えがある。

それからは一瞬の事だった。散らかった商品の間で狭苦しそうにしていた男の体が消え、代わりに先程襲ってきたあの女の姿がそこにあった。ほんの瞬きをする間のことだ。女は癖のある赤髪に指を通してくつくつと笑う。

「何がそんなに可笑しいのかしら」

「いやぁ、驚いてくれないから寂しいなァと思ってねェ」

「それは嘘なんじゃないかしら。話を進めて頂戴。貴女を逃がしてあげた対価を私に支払うべきだと思うわ」

私の言葉を無視して女は近くにあった家具の上に腰を下ろした。足の間から本を取り出して投げ寄越す。それを受け取りながら本棚だったのだとぼんやり思った。

「まァ、そう焦っちゃ何も出来ないっすよ。話を進めるんだか対価を支払うんだか、どっちから進めるかはアタシが決める事。で、話から進めることにするっす。アタシはエマ。よろしく妖精サン」

エマと名乗った女は、そばかすの散る頬を持ち上げてまた笑って見せた。胡散臭く不敵な笑みだ。小柄で質素な身なりではあるがまだ若く、かと言って子供というには歳をとっていた。

「アンタのことは知ってるっすよ、エラ・エレルト。老婆と二人暮らしの大妖精で、本当の名前がエラじゃないってことくらい簡単に分かったっす。ほら、その本にあるんすよね?」

相も変わらないニヤニヤ笑いで私の手の中にある本を指す。表紙は擦れて読めないが、随分と古い見覚えのある本だった。人間の本としては妖精についての数少ないまともなもの。かなりの希少価値があるだろう。

私が確認もしないでエマを見ているからか、何を勘違いしたのか彼女は話し続けた。最初は私の話だった。妖精としての能力やおよその年齢なんかを言い当てたのは、ただ本の知識なのだと思っていたが、どうも違うらしい。そのうち話は個人的なものになっていき、最後には今の住所や二人で暮らす彼女の名前、病の症状にまで及んだ。

さすがに鳥肌が立った。下品な笑みと相まって、煙のように漂う気味の悪さが喉に絡みつく。

「……とても物知りなのかしらね」

「知識には貪欲なもんで。ああ、知りたい知りたい。ぜんぶ知りたい」

わざとらしい手振りで歌うように言い、ちらりとこちらに目を向ける。底無しの泉を思わせる深く暗い瞳だ。

「目は口ほどに物を言うものね。今のは嘘なんじゃないかしら?本当のことを教えて頂戴。私には時間が無いのだから」

久方ぶりに腹がふつふつと煮える感覚がした。それを知ってか知らずかエマはやたらとのんびり喋る。

「ヤだなぁ、至極マジメっすよ?でもぉ、話を進めるのに此処は向かないのも本当っすからねぇ」

「べつに、私はあの指輪を盗んだっていいのだけれど」

「ああ、それは困るっす。本気を出せばアンタに勝てる人間はいないんすから……本気を出せればの話っすけど」

私の脅しにも動じず、相も変わらないニヤニヤ笑い。正直、ここまで知られているとは思わなかった。私が本来の力をすべて出せば人間に勝ち目がない事は真実で、しかし、私の性格上、痛みを与える事を嫌っているのも事実だった。そしてそれは愛する彼女も同じ事。なにより盗品で生かされたくはないだろう。

エマは奥歯を噛み締めた私の様子にひどく満足げだった。本棚の上で足を組み替え、顎に手を当て、さも賢者のような仕草で私に提案する。

「さて。本題なんすけどね、アタシは何もその場しのぎでアンタを頼ったわけじゃあない。アタシは前からアンタに目を付けていたんすよ、エラ・エレルト。協力して欲しい事があるんっす」

「逃がしてあげた対価はその指輪なんでしょう?それ以上、何を望むというの」

フッと不敵な笑みが消える。ぐらぐらとエマの魔力が揺らめいて、ランタンが真っ赤に光を放つ。興奮しているのだろう。眩しいほどの光の中でエマは口の端を裂けそうなくらいに吊り上げた。

王女の暗殺っすよ

頭に響く嗄れた声は、地獄から這い上がる悪魔の囁き。私は動揺を押し殺して問い返そうとしたが、本棚を飛び降りたエマがそっと私の唇に指を立てる。軽く痛みが走った。

「続きは帰ってから。何より少しは聞く気になったッスよね?」

「……悪魔」

ローブの襟ぐりを手繰り寄せ、口元を隠す。店の奥へ消えようとするエマはたははと笑って、悪魔などいないと言い切った。




エマに脅されて私の家へ二人で向かい、着いた頃には日もすっかり落ちていた。暗く冷たいレンガ造りの長屋はどの部屋に住まう者も貧しく、良い部屋とは言い難い。

寒い家に入るなりエマは止める間もなく進んだ。まるで間取りを知っているかのようにベッドへ向かうと、寝たきりの彼女の手を取る。そして私には見せなかった優しい笑みを浮かべたのだ。

「はじめまして。近くに住むエマ・エメリヒっす。よろしくね」

嘘吐きエマの挨拶は、彼女には聞こえていなかった。苦しそうな息遣いだけが聞こえてくる。私は抱えていた荷物を置いてエマに近づいた。

「彼女、もうここ何日も寝たきりで起きないの。意識があってもハッキリとはしないみたいで、スープを飲むのがやっと。話なんて出来たものじゃないの。もう、次いつ話せるのか、二度と話せなくなるんじゃないかって思うと……たまらないの……」

「ええ知ってるっすよ。アタシ、見てたんすから。それより、ほら」

エマが彼女をさす。何事かと私が覗き込むと、驚いたことに横たわる彼女の寝息がだんだんとゆっくりしたものに変わっていき、やがて目を開いた。

「……エラ?」

随分と弱々しい、愛しい彼女の声。もう何日も聞くことができなくなっていた声に私は思わず泣き出した。ボロボロと大粒の涙が頬を伝う。

その涙を拭おうと彼女は必死に手を伸ばす。その手はあまりに弱々しく、服の上から握って布団の中へ戻した。皺だらけの指で指輪が一瞬きらりと光る。

「もういいの、疲れたでしょう。今日はもうおやすみ……愛してる」

震える声で言うと彼女は小さく頷いて目を閉じ、すぐに寝息が聞こえてきた。安らかな寝顔を見届けて涙をぐしぐし拭う。

「指輪、くれないんじゃないかと思っていたわ」

「ヤだなぁ、ヤだなぁ。そんな風に思われるのは心外っすぅ。アタシは約束を守る女なんすから」

黙って見ていたはずのエマが、いつの間にかベッドの隅に腰掛けて水を飲んでいた。ヤダと言う割にはご機嫌で、鼻歌交じりにヤだなぁヤだなぁと続ける。少し頭のネジは飛んでいるが、知識に間違いはないようだ。

あの骨董屋でもそうだった。店の奥へエマに続いて入っていくと、大きな黒い檻の中に本物の店主がいた。鍵も無ければ扉も無い檻。エマがチョークで魔法陣を描くと檻はたちまち分解され、やがて、底だけを残してただの鉄板となった。店主は何をしたのか分かっていないようで、魔道具に説明書など存在しない。その扱いを知っているのは間違いなく彼女が勉強家だったからだろう。

「それで、私には一体どんなメリットがあるのかしら」

王女暗殺に協力をした場合、大罪を犯す事になる。私にとっては、愛する彼女さえいればほぼ何も不足はないため、並大抵の物では動かない。それも分かっているのかエマはにんまり笑った。

「国宝庫にある治癒の輝石」

「もう十分よ。彼女は病に苦しまなくていいのだから」

「いいや十分じゃないっすね。あれじゃあ、もっても二年なんすから」 

ズズズッと行儀悪く水を啜る。狩人が使うような革の水筒だ。顔を顰めた私に真面目そうな顔をしてエマは告げる。

「ちっぽけな輝石は、魔力を溜めるのに時間はかからない。同時に、魔力を使い切るまでの時間もあまりない。魔力を使いながら溜める事なんて出来やしないんすから、この指輪では二年も経てば魔力が底を尽き、また五年くらいかけて溜まっていくんでショーね。だけどそんなにもたないっしょ、このオバアサンは。むしろこの病状では二年よりもっと短いかもしれないっすね?」

愕然とする私に、コレだから妖精は、とエマは首を振った。足を組み替えて私を指す。非常に行儀悪いが、目を離せなくなるほど彼女の話には現実味があった。

「輝石がそこらじゅうにゴロゴロあった太古から、人間の誕生をキッカケにどんどん大気中の魔力は激減してるんす。いくら魔力に敏感な妖精族とて記憶はアテにならないもの。大事なのは記録っす。よって、アンタが輝石を使えたような時代とは勝手が違ってくる。仮に二年弱かけて病を治したところで、”普通”なら人間には老衰があるんすけどもね、」

言葉を切ってズズズと水を飲む。私は何も言えないまま眩む視界に体を揺らしていた。足元がぐらぐらする。頭を何かで殴られたようでもある。水筒の蓋を閉めたエマがぴょんと立ち上がり、私を見上げた。そばかすの散る平凡な顔がニヒルな笑みを浮かべる。楽しんでいるようにも、哀れんでいるようにも、何にでも見える顔。

「だからこその、提案。王女暗殺は一つの可能性を潰す一手に過ぎない。最終的な目的は国王の代替え。新たな王に席を用意すること」

「そんな事を一体誰が……。王女様が見つかって以来、混乱は落ち着いたんじゃ……?」

「そう見えるだけっすよ。次期王位継承者の座を狙う連中が、正統な王位継承である王女様が現れたせいで物を言えなくなっただけ」

フフンと鼻を鳴らしてまた座る、余裕綽々な様子のエマ。彼女の言葉はとても重く鋭い。嘘をついていない保証も、彼女を信じていい確証もない。それでもすべてが真実だった時を思えば、従う他ないようにも思えた。エマはそれすらも計算済みのようだ。冷たいニヤニヤ笑いに期待の色を混ぜて私を見る。

「だからこそ痛みを与える妖精の力が必要なんすよ。生き物に対しては非常に有効、まさか王族も魔力を操る封魔の妖精は連れちゃいないデショーからね」

要らぬ考えが頭をよぎる。それを振り払って私は決意した。

「手伝うわ、エマ。王女暗殺から王様を退け、新たな王に玉座を用意する、その日まで」

ちらりとベッドに目をやった。心地よさそうに寝息を立てる彼女には、なにひとつ聞こえてはいないだろう。何より聞かれては困るのだ。盗品はもちろん人の命と引き換えに得た物で生かされたくはないような、真っ直ぐな子なのだから。秘密にしなくては。

エマは満足げに頷くと水筒の水を飲み干した。ごくりと下がる喉。

「さぁてさて、それじゃあ早速、行くとするっすかね」

「いまから?」

「そりゃ、舞台は華やかな方がイイっすからね」

奇抜に奇妙なサーカスこそ墓場には相応しい。エマはそう続けるとブーツの靴紐を結び直し、それが済むとドアへ向かった。そんな彼女を引き留めるのは私。

「まだ聞きたいことがあるわ。外では話しづらいこと」

「何すか、アタシは先生じゃあない」

「いいえ。貴女の事だもの、答えるべきよ」

エマは面倒くさそうにドアノブへ掛けた手を下ろした。私は息を深く吸って問う。まずは最も疑問だったこと、エマの変身とも思われる魔術について。それから昼間どうしてグリフォンに扮して王女を襲ったのか、どうしてサーカスで王女を殺害しなければならないのか。疑問のすべてを並べてエマに突きつける。すると彼女はニッコリ笑って、

「変身術は魔術書にあったんすよ」

さも事実のように答えるが、しかし私は知っている。毅然とした態度で対抗した。

「それは嘘ね。変身術は禁忌だもの、載っている筈がないわ」

「あれま、そんな事は知ってるんすね。実はアタシのオリジナルなんす。術式を編み出したんすよ」

「それもきっと嘘かしら。エマのそれは魔術の大前提、質量保存の原則にすら沿っていないわ」

私の珍しくハッキリとした物言いにもエマは動じない。むしろ清々しいほどの笑みを浮かべていて、自分が間違っているのだろうかと不安になる。が、案外エマは簡単に折れた。

「変なところは知ってるんすね。そうすね、本当のこと教えてあげるっす。誰にも教えたこと無いんすけどね?」

楽しそうに悔しそうに歪んだ口に指を立てたエマは、その目は、微塵も笑っていなかった。

それからのエマは疑わしくなるほど丁寧に、絡まった無数の糸を解くように答えた。彼女の術は変身術などではなく、言うならば召喚術の下位互換のようなもので、且つ、彼女は同時に精神支配の魔術も使っていた。簡単に言えば肉体は瞬間移動、精神は入れ替わる事となる。その結果、変身したように見えるのだ。身体を借りるともいう。

ま、だからと言って召喚術そのものは使えないんすけどね。原理としては、ってとこっす。人間が魔術を扱う場合の多くは呪文や術式、魔導具を必要とするんすけど、この変身モドキは呪文も式もなく、ほぼ感覚で使ってるんす。アタシの魔力の使い方は妖精族の魔法に近くて、他の魔術もてんでダメ。変身モドキと、あと唯一、意思疎通魔術は使えるっすよ。

頭に響く声。気がつけば、エマの口は三日月を描いたまま微動だにしていなかった。今しがた言った意思疎通魔術というものだろう。サーカスで姿を消したエマの声が私にだけ聞こえた事を思い出した。

「なるほど、理解したわ。それでどうしてグリフォンに化けてまで王女を襲ったのかしら?本来、今晩のサーカスでやるつもりだったのなら、むしろ警戒されるだけだもの」

「正直、気まぐれっすよ」

ケロリとエマは言う。肩透かしを食らった気分だ。私の気持ちも知らないでエマは言葉を続けた。

「夕方やれればラッキー、やり損ねても王女の前に何人か襲っておいたから"召喚術師"による無差別傷害事件と扱われている筈っす。警備が増えるのはどうせテントの周辺。観覧席の王女様についている護衛の数は、広さからして増えないと思うっす」

だから市場でグリフォンが追われていたのか。納得すると同時に、危うくその無差別傷害事件の被害者となるところだったと思うとゾッとする。改めてエマは悪魔のような女だ。カラカラに乾いた口内の、無い唾を呑み込んだ。

私が黙り込むと、エマも口を閉じて物を言わなくなる。冷たい静寂の訪れた部屋を満たすのは安らかな寝息だけだった。





街はすっかり夜だった。冷えた空気にぶるりと体を震わせると、隣に立つエマが上着を脱いで寄越してくれた。それを羽織って
また前を向く。

愉快な音楽に笑い声。光に満ちた幻想的な場所だ。すこし、太古の妖精の森に似ている。サーカスとはこうも楽しげなものだったか。私の記憶ではそこまで楽しいというものでも無かったような気もする。

「良いっすか、"聞こえたら"動くんすよ」

ニンマリ笑って言う。背の低い小柄なエマは、隣に立っているとどうしても、背の高い私を見上げて話すことになる。エマは赤い髪を隠すように頭巾を被り、念入りなメイクをして、服装も丈の長いスカートを穿いているせいか随分と印象が違った。対して私はエマが買い与えてくれた薄い生地の服で、髪も耳を隠すように結い上げてもらっている。二人ともどこか上品な町娘たちといった出で立ちだ。

やがて並んでいた列が進み、山のように大きなテントに飲み込まれていく。入口でチケットを渡してエマと私は隣同士の席に座った。少し横側にずれて舞台からも遠い安価な席だ。それでも花のように色とりどりの照明や、外とは少し違った雰囲気の音楽を聞いていると胸が高鳴った。本来の目的を忘れそうになる。

エマが頭に囁く。見ろ、後ろの一番高い席を。あそこは王族の為に用意された特等席。今夜だけ国営サーカスとして相応しいか見定めるべく王女が現れる席。そして、

言葉の続きを遮るようにブザーが鳴り、エマもそれきり何も言わなくなった。照明が落とされ、一瞬の闇の後に舞台の上が照らされる。そこには太った男ーーーー団長がひとり立って、優雅な一礼を見せた。それから軽快に挨拶をしてまた一礼。顔をあげて景気の良い笑みを客席へ向けると、突然喧しいほどの音楽が流れ出し、光がくるくると会場を駆け回った。

私は不思議に感じて会場の天井を見上げる。照明器具がひとりでに動いていて、張り巡らされた柱の再奥に人の気配がした。そして、膨大な魔力も感じる。妖精族は魔力に敏感で魔法を使いはするが、あそこで照明と音楽を操っているのは妖精族ではない。魔術を扱うのは人間だけだからだ。

エマの言葉を思い出す。サーカスへ向かう道中、要注意人物について言っていた。その一人。サーカス団が魔術師、クラウス。彼は本来スタッフが数人がかりで行う音楽や照明といった演出を、一手に引き受ける国内屈指の力を持った若くも有能な魔術師だ。構成員のほとんどがキャストであるこのサーカスは彼無しには成り立たない。とはいえ、彼自身は唯一の裏方の人間であり、その存在を知る客は多くはない。
それから、他にも数人、注意すべき人物がいるそうだ。

舞台へ目を戻すと、おどけた様子のピエロがそっくりな格好をした四人の子供ピエロたちと芸を始めていた。最初は観客を笑わせ、次に拍手喝采の大道芸。そして最後にまた笑わせて、場を盛り上げたまま舞台を下りた。それと入れ違いに火を吹く厳つい男が登場し、続いて十七人姉妹だという顔のそっくりな少女達が組体操だの綱渡りだのと、あちこちで身一つの芸を披露する。

やがて視線が上へと誘導されると五人のキャストにスポットライトが当たった。サーカスの花形、空中ブランコだ。無駄のない衣装を着た男女が高台から観客席へ手を振り、勢いよくブランコを宙へ漕ぎ出した。ブランコからブランコへと渡り、宙に放り出された体は弧を描き。とんでもなく高いというのに誰も怖がってはいない。そんな美しさに目を奪われる。

と、突然、四人のブランコ乗りが高台から動かなくなった。一人でブランコを漕いでいた女は気づいていないのか宙へと飛ぶ。観客席から悲鳴が上がる。くるりくるりと反らせた体が三日月のような影を見せる。音楽が、一際大きくなって。受け取る手もない女は掴まる宛もなく、くるくる回りながら落下していく。

あ、もうだめだ。地面にぶつかってしまう。誰もがそう思ったその時、女の体はふわっと動きを宙に止め、そしてゆったり地面に足をつけた。それはまるで人間の思うような天使の姿そのもので私は思わず感嘆の溜息をついた。観客席からワッと歓声が上がる。本当に良い仕事をする魔術師だ。

ブランコ乗りは目を閉じて歓声をその身に浴び、少し経ってから胸に手を当てて目を開いた。その顔に見覚えがある。あれは歌姫だ。昼間に会った、派手なメイクが印象的な美少女。確か腕が折れていたはずだが……。それはエマも思ったようだった。

「あの魔術師、治癒術も使うみたいっすね。ああっ、ヤだヤだ」

隣で随分と楽しそうに言う。そんなに強力な治癒術ならば病も治せるのでは、と一瞬考えたが、あくまで可能性の話なので忘れるようにした。

歌姫は静かになった観客席を一周ぐるりと見渡して、息を深く吸い込んだ。その歌声は例えるのなら天使の声。絹のようになめらかな女神の歌。聞く者を水底へいざなうセイレーン。どれにしても、人のものとは思えぬ美しさだった。

まだ聞いていたい、ずっと聞いていたい。そんな観客たちの願いを裏切って、無粋な銃声が美声を撃ち抜いた。馬に乗って舞台に上がるのは、二人の少年。片方は赤茶けた髪に端正な顔をした、もう片方は黒髪に細身の……エナ・エンゲルだった。馬から飛び降りたエナは慣れた手つきで歌姫を壁にはりつけ、少年が馬から降りると二人は舞台の真ん中で向かい合って立った。

「今日という今日は決着をつけようか!」

エナが声を張り上げる。どこか芝居がかっていて、それでいてセリフが彼女らしい。突然の事に驚いた観客たちは呆けた様子で舞台の上を見ていた。今度は少年が言う。

「ああ、いいとも!どちらの腕が本当に良いか、確かめてやろうじゃないか!」

「お集まりの紳士淑女の皆様!ぜひその目でこの勝負、どちらの勝ちか見届けて頂きたい!それでも私が勝つけどね、そうでしょう!?」

エナの問いにあちこちから声が上がる。そのほとんどが女性で、応援するようなものだった。それに負けじと少年が問うと、また別の女性達から声が上がる。見た目の華々しいあの二人は、どうも女性人気があるらしい。そういえば演目には歌姫の登場は空中ブランコの後ではなく、ショーの一番最後とあった。次の演目は確か、射的。

遠い舞台の上でエナが金銀の2丁の銃を構え、少年はナイフを摘んでチラチラ光らせる。そして互いに代わる代わる、張り付けられた歌姫に向かって投げたり、撃って見せた。その精密さはどちらもまさに神業。歌姫が壁ごと回転しても、頭上に乗せた林檎を狙っても、絶対に歌姫には当たらない。的確に正確に確実に。

徐々にエスカレートする芸に観客が沸く。ドッと溢れ出すような歓声は間違いなく少年少女に向けられ、やがて二人が舞台を去っても観客たちの興奮は冷めなかった。私も思わず手を叩いた。そしてその熱を帯びたまま、冷めないうちに、次の演者である猛獣使いが舞台に上がる。


魅入っていた私の頭に、ふと悪魔の声が響いた。


現実へと引き戻される。美しかった世界は色褪せて見え、隣の席に目をやった。赤髪の女はそこにいなかった。喉の詰まるような感覚を覚えて席を立つと通路を奥の方へ向かう。暗い、通路の奥の方へ。舞台から響く獣の咆哮が私の背を追いかけてくるようで、足を早めた。

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