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第1章 絶望に飽きた男
003 残酷な契約
しおりを挟む「……さあ、何でもいいから願い、言いなさいよ」
もはや素の自分を隠そうともせず、女が投げやりに聞いてくる。
「だから別にないって。そんなのいいから、勝手に持っていけよ。最後にここまで楽しませてくれたんだ、それで十分だ」
「そんなんじゃ契約にならないの! 私にだって、プライドがあるんだから! お情けで譲ってもらうだなんて、認めないんだから!」
「あはははははははっ」
ついに男が、声を上げて笑った。
「そ……そんなに笑わなくてもいいじゃない……」
「悪い悪い。こんな愉快な気持ち、久しぶりなんでね」
「もう……最悪だよ」
女が涙目でつぶやく。
「そうだな。差し当たって今、あんたとの長話で喉が渇いた。缶コーヒー、奢ってくれないか? 喉を潤したら契約完了。どうだ?」
「……からかって楽しいのかしら」
「いやいや、真面目に言ったつもりなんだが。駄目なのか?」
「駄目に決まってるでしょ! どこの世界に、缶コーヒーで悪魔と契約する馬鹿がいるのよ!」
「ここに」
「馬鹿っ!」
女の叫びが、屋上に響き渡る。
「缶コーヒーじゃ駄目なのか。しかし……困ったな、他に思い付かないんだ」
「考えなさい。真面目にね」
「分かった分かった。ここまで来たら俺としても、あんたにくれてやりたいからな。でもな、本当にないんだよ。それがないからこそ、こうして死のうとしてる訳で」
「……本当、変わってるわね、あなた」
「悪いって思ってるよ」
「他人事みたいに言わないで」
「だな」
「……ひとつ聞きたいんだけど」
「何だ?」
「最初の頃より間違いなく、今のあなたは楽しそうにしてる。もし私が今、この場からいなくなっても、やっぱりあなたは死ぬの?」
その言葉に、男は真顔で女を見据えた。
「ああ、間違いなく俺は死ぬ。何の躊躇もなくね」
その目に女はぞっとした。
男の言葉に嘘はない。
この男は本当に、何も望んでいない。人生を好転させようという気概も持ってない。
絶望と諦め。
男の瞳には、それしか宿っていなかった。
先程までの軽口は、全て幻なんじゃないか。そう思い、身を震わせた。
この男は一体、何を見てきたのだろう。
「……それで? 何か思いついた?」
男への畏怖、恐怖、好奇心。
それらを胸の奥に封じ込み、女が口を開いた。
再び砕けた様子で考えていた男だったが、しばらくして何かを思いついたように目を開けた。
「ひとつ……あったかもしれない」
「本当! 何かな、言って頂戴!」
「何でも叶えてくれるんだよな」
「勿論よ。私にはその力がある。どんな願いだって叶えてあげる。あなたがそれを望むなら」
「俺の願いは」
「ええ」
「あんたが俺を愛してくれることだ」
「……」
「あんたが俺に惚れる。それが俺の願いだ」
「……」
頭が真っ白になった。
何を言われたのか、理解出来なかった。
「おーい、聞こえてるかー」
その言葉に我に帰る。
「……き、聞こえたわよ、ちゃんとね……間違いのないようにしたいから、確認させて頂戴。もう一度言ってもらえるかしら」
「あんたが俺に惚れる。心からね」
「私があなたに……」
「勿論、その気持ちに嘘はなしだ。契約の為じゃなく、心から俺のことを愛してくれる。そうすれば契約完了だ」
「……」
「俺はこれまで、誰からも愛されたことがない。愛されるってのがどんなものなのか、ずっと興味があったんだ」
「……親には」
「愛された記憶はないな。実感もない」
「……」
「女と付き合ったことはある。でも多分、愛してくれてはいなかった」
「愛してないのに付き合うなんてこと、あるんだ」
「今考えたら、俺も愛してなかったと思う。まあでも、仕方ないか。愛するってどういうことなのか、分かってないんだからな」
「それで私に、愛してくれと」
「ああ。折角生まれてきたんだ。誰かに愛されてから死ぬのも、悪くないと思ってな」
「……」
「嫌なら別にいいぞ。缶コーヒーで構わない」
その言葉に嘘はない。女は確信していた。
恐らく今の願いも、軽い思い付き程度のものなんだろう。
でも。それでも。
男の口から唯一出た願いだ。
それはきっと、魂の叫びに違いない。そう思った。
「……分かったわ」
「いいのか? 俺は別にどっちでも」
「見くびらないでもらえるかな。これでも私、それなりに名前の通った悪魔なの。契約者の願い、これまで全部叶えて来たんだから」
「そうか。でもまあ、無理しないようにな」
「何よそれ、自分で言っておいて」
「いや、でもな……ははっ。俺のことを愛してみろだなんて、自分で言っておいて難易度高すぎだからな」
「もう一度言うわよ、見くびらないで。どんな願いだって叶えてみせる、それが私、ノゾミなんだから」
「ノゾミ……それがあんたの名前か。いいな」
「ありがとう。あなたは?」
「俺は雅司だ、雪城雅司」
「雅司ね、よろしく」
そう言うと、ノゾミが手を差し出した。
雅司がその手を握る。
すると二人を中心に、地面に青白い魔法陣が現れた。
「これで契約は成立。あなたの魂は、一時的に私の預かりとなった」
「ああ」
「契約完了までよろしくね、雅司」
「ああ、こちらこそよろしく。ノゾミ」
雑居ビルの屋上に、青白い光の粒が舞っていた。
契約を交わした二人。
しかし二人はまだ、待ち受ける未来を理解していなかった。
ノゾミに愛されると死ぬ雅司。
雅司を愛した瞬間、魂を奪わなければいけないノゾミ。
二人の未来には、残酷な結末しか待っていないということを。
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