銀の少女

栗須帳(くりす・とばり)

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005 動き出す世界 その2

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「ゆーずきー、一緒に食べよー」

 昼休み、弁当箱を手にした早苗が、柚希の席に来て言った。


「あ、小倉さん」

「さ・な・え。そんなに私を名前で呼ぶのは嫌なの?」

「いや、そう言う意味じゃなくて……学校では名前で呼ぶの、勘弁してって」

「なーに言ってるんだか。私の名前なんだからいいでしょ、別に違う名前で呼べって言ってるんじゃないんだから」

「いやだから……ほら、みんな見てるから」

「はいはい分かりました。藤崎君、一緒にお弁当食べませんか」

「だから……怒らないでって」

「ふふっ、ほら、柚希もお弁当出して」

 クラスメイトの視線を気にもせず、早苗が柚希の前に座った。

「はい、お茶」

「ありがと」

 柚希が入れたお茶を受け取り、早苗が飲もうとすると、かけていた眼鏡がくもった。

「ありゃりゃ、またやっちゃった。家ではかけてないから、つい忘れちゃうんだよね」

 そう言って早苗は、舌を出して笑った。


 早苗の視力は、眼鏡をかけるほど悪くない。
 家にいる時は眼鏡なしで、生活に全く支障はない。
 しかし早苗は学校に行く時、必ず眼鏡をしていた。

 そのことを柚希が聞いた時、早苗は「モードチェンジ」なんだと答えた。
 家ではリラックスモード、学校では委員長モード。
 その切り替えにはこれが一番なんだと。
 自分自身の気持ちを切り替える為に、高校に入った時に編み出した方法だと言った。

 いつも柚希と登校する時、彼の前で眼鏡を取り出し、
「装着!」
 そう言って眼鏡をかける。
 それは彼女の生真面目な性格からきているものなんだ、そう柚希は理解していた。


 机に並べられた二人の弁当。
 中身は同じだった。
 この学校に転校してから、柚希の弁当を毎日早苗は作っていた。

 柚希の父、誠治から聞かされていた。
 一人で食事をする習慣が長かった柚希はかなりの偏食家だと。
 疾患のこともあり、誠治は柚希の食生活をかなり気にしていた。
 そう聞かされた時、早苗の料理研究部部長としての血が騒いだ。
 何としても柚希を健康にしてみせる、まずは食生活から徹底的に管理してやる、と。

 そういう思いが込められた早苗の弁当はおいしかった。
 今までに食べたことのないような凝った料理が並べられている。
 そのことに柚希は、素直に感謝していた。

 しかしそのおかげで、クラスの中での注目度もあがっていた。

 女子たちは、最初の頃こそ冷やかしたりもしていたが、それが世話好きの血が騒いでいるいつもの早苗だと分かると、時間と共に気にしなくなっていた。

 しかし男子は違った。
 特に早苗に対して、少なからず好意を持っている男子たちからは、まともに嫉妬心をあおることになった。
 そのことに気付いた柚希は、早苗に世話を焼くのを控えて欲しいと頼んだが、早苗はそんな事おかまいなしで、毎日こうして柚希と昼食を共にしていたのだった。


「どう?今日の卵焼き」

「うん、おいしいよ」

「むふふふっ」

「え?何その笑い。また何か仕込んでる?」

「人聞きが悪いわね。でもまあ……仕込んでるかな。今日の卵焼きにはね、柚希の大好きな大好きなアスパラが入ってるんだよ」

「え!嘘!」

「はい、これで柚希くんのアスパラ嫌いもクリアされました。早苗はまた、レベルがあがりました」

「な、何てこと……またやられたよ……」

「あはははっ……でも大丈夫だったでしょ。柚希の好き嫌いの激しいのってさ、料理に工夫してないからなんだよ。それでいて、一度口にして受け付けられなかった物を全部、苦手リストに入れて食べなくなっていく。だからどんどん偏ってく。こうして料理に一工夫入れていけば、どんな素材でもおいしく食べられるんだよ」

「……何か言いくるめられてる感がいっぱいなんだけど……でもこの卵焼き、おいしいよ」

「それはよかった。お母さん満足です」

 早苗が陽気に笑ってそう言った。



「でさ、柚希。今日のその荷物、それってカメラバッグだよね。どこか行くつもりなの?」

「え?う、うん……」

「なになに、またいい場所発見?私の知ってる所?」

「……どこって決めてる訳じゃないんだ。ただちょっと、たまにはカメラを持ってぶらぶらしたいなって」

「そうなんだ。てっきり、昨日言ってた川にでも行くのかなって思ったんだけど」
「うん……川はまた、今度行くつもり……」

 柚希は思わず嘘をついた。

 昨日紅音と会ったことも、まだ言えていない。
 そして今日の放課後、今早苗が言った川で紅音と会う約束をしていることを、自分でもよく分からないが隠してしまった。

「そっかぁ……また今度私も連れてってよね。今日は部活だから駄目なんだけど」

「そ、そうなんだ……うん、分かったよ」

 そう言って柚希は、なぜかほっとしている自分を感じた。

 そして同時に、隠し事をしていることへの後ろめたい気持ちに胸を痛めた。


「ところで今日は大丈夫?山崎たちから何かされてない?」

「うん、大丈夫だよ。最近はそんなにからかわれたりもしてないから……」

 この嘘には、柚希は胸を痛めることはなかった。

 今日は朝から隠された上履きを探すのに大変だった。
 結局教室のゴミ箱で発見したのだが、幸い早苗には気付かれなかった。
 上履きに履き替え、借りていたスリッパを戻しに行くところで山崎たちに捕まった。

「何勝手にスリッパなんか使ってるんだよ、このゴミっ!」

 そのまま校舎裏で何発か腹を殴られた。

 まだ少し痛むが、今日は紅音との約束が支えになっているためか、いつもより苦しくなかった。

「そっか……ならいいんだけどね。でも柚希、何かあったらすぐ私に言うんだよ。約束だからね」

「分かってるよ、早苗ちゃん……」



 柚希のいじめられ体質は、子供の頃からずっと続いていた。
 幼稚園、小学、中学と環境を変えていってもそれはあった。
 どこに行ってもそこには必ず、彼の天敵となる者たちがいた。

 クラスが変わるたびに、これで自分をいじめてきた者たちと離れられる、解放されると胸を撫で下ろしていた。
 しかし新しい環境で必ず、新たな敵は現れた。

 そして高校二年の夏、事件は起こった。

 高校受験の時、柚希は新たな環境の中でもう一度やり直したいと、自分の中学校から誰も受験しない私立高校を選んだ。

 学力も高く、評判もいい高校だった。

 しかし入学して間もなく、柚希は一部の生徒たちから目をつけられた。
 初めのうちは嫌がらせ程度だったが、それは徐々にエスカレートしていき、気がつけば毎日のように殴られ、金銭を巻き上げられるようになっていった。

 どこにいても同じ結果しか自分には与えられない。
 相談できる友達もいない。
 彼にとってそれは、これからの人生を歩むことを否定されたことに等しかった。
 絶望した彼は部屋で手首を切り、自らの人生に幕を下ろすことを選んだ。

 偶然早く帰ってきた父、誠治に発見され一命をとりとめたが、意識を取り戻した柚希の精神は極度に不安定になっていった。
 人と会うことを恐れ、電気を消して部屋にこもり、見えない何かに怯えるようになっていった。
 憔悴していく息子に苦悩する父は、一時的に彼を入院させることを決断した。


 隔離病棟の保護室と言われる個室で治療を受けていく中で、幻覚や幻聴に苦しむ状態が三ヶ月ほど続いた。

 誠治は仕事から離れ、息子の病室を見舞う日々が続いた。
 病院でのカウンセリング、そして初めてと言っていい父親との深い交流が、少しずつ柚希の病状を改善していった。


 退院後、復学することを望まず部屋に閉じこもっている息子を案じ、誠治は大学時代の親友、小倉孝司に相談した。
 そして孝司の勧めもあり、柚希は今年の春から、早苗の通う高校に転校したのだった。

 早苗が自分の過去のことを、父からどの程度聞いているのかは分からない。

 しかし柚希は、自分に親身になってくれ、世話を焼いてくれる早苗に今以上の心配はかけたくなかった。
 何よりこの場所に来たのは、確かに父の勧めではあったが、自分自身、もう一度人生をやり直したい、挑戦したいと言った思いが強くあったからだった。


 早苗が陽気に柚希に話しかける。
 柚希も遠慮がちに笑顔でそれに答える。

 そんな二人を山崎が、舌打ちしながら遠目で見ていた。
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