いっせーの!

田中葵

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第1章 声を合わせずにそろう瞬間

コトハジメ

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 朝、同じ時間に鳴るタイムカードの音は、もう合唱のようだった。
 誰も何も言わないのに、打刻のタイミングがそろっている。
「いっせーの!」なんて誰も言わないのに、体が覚えてしまっている。

 真帆は打刻を終え、ひと呼吸おいてから顔を上げた。
 ガラス越しに見える同僚たちは、まるで水槽の中で泳ぐ魚のようだ。
 音のない水流に合わせて、同じ方向を向き、同じ速さで進む。
 違うのは、みんながそれを自分の意思だと思い込んでいることだけだった。

「おはようございます」と口が動いた。
 声は出していない。
 代わりに、周囲の小さな会釈の連鎖が返ってくる。
 礼儀が呼吸のように定着した場所では、音がいらない。
 音を出すと、なぜか空気がざらつくのだ。

 午前十時。
 会議室では「今期もがんばっていきましょう」と部長が言った。
 言葉の響きは柔らかいのに、
 その裏にある“がんばらなければ終わり”の匂いを、誰もが嗅ぎ取っていた。

 真帆はメモを取るふりをして、視線を落とす。
 前列の課長がうなずくたび、ネクタイの柄がわずかに揺れる。
 それが指揮棒みたいに見えて、思わず小さく笑いそうになる。
 この会社の「いっせーの」は、
 掛け声ではなく、沈黙に合わせることで完成するらしい。

 午後、休憩室でコーヒーをいれる。
 紙コップの中でミルクが渦を巻きながら混ざっていく。
 白と黒がゆっくり混ざり合い、やがて見分けがつかなくなる。
 その様子を眺めながら、真帆はふと思う。
「この職場も、いつかこうやって、誰の色もわからなくなるんだろうな」と。

 その瞬間、ふいに浮かんだ。
 ――「いっせーの」って、次に声を出すための合図じゃないのかもしれない。
 次に黙るための、心の準備のようなものかもしれない。


     ***


 真帆の席は、窓際から二列目の手前──外が見える角の席ではないが、部屋全体の動きはよく見渡せた。
 午前中の淡い光が書類の隅を照らし、紙の角が小さく光る。
 視界にはいつも三つの顔が入る。課長の橋本、入社三年目で愛想のいい後輩・直子、そして派遣の池田さんだ。

 橋本課長は「できる人」の顔をしていた。
 彼の笑顔は丁寧だが、言葉の端にいつも数字の計算が隠れている。会議のときは、穏やかな顔で諭すように話すが、終わるとすぐに背筋を伸ばし、メールの未読を埋めるようにして席を立つ。
 彼の「がんばって」という言葉は励ましのようでいて、どこか回収を求めている。
 残業の頻度が増えたのはいつからか、橋本の机の上にある観葉植物の葉がしおれてきた頃と重なる。

 直子は、まだ社会人になって日が浅いのが手に取るようにわかった。
 昼休みには同僚のSNSに「今日もがんばります!」といいねを返し、上司の無理な頼みごとにも「いいですよ」とすぐ答えてしまう。彼女は「同調」を習慣にしていて、それが自分を守る盾になると信じている。だが、夕方になると眉間に小さな影が差す。
 彼女の顔は、本当は疲れているのに、それを隠すためにさらに明るくなる。

 池田さんは、穴の空いたカーディガンを着て来て、そっと昼ごはんの袋を開く。
 彼女は派遣として、言葉数が少ない。席に座るとまずイヤホンを取り出し、音楽を流しているふりをする。実際にはその音楽は聞いていなくて、代わりに耳の奥で今日の仕事をリストアップしている。
 彼女の働き方はルーティンに徹しており、その律動が崩れない限り、彼女は平気な顔をしていられる。

 真帆は、三人の違いを見ながら、自分の内部で小さな対話を続けていた。
 自分はどの位置にいるのか。橋本のように計算して、直子のように合わせて、池田のようにやり過ごすことが、自分にとっての「普通」なのか。それとも、どこかで歯車が外れて、別の動き方をしたいのか。


 昼休み。エレベーターでふと耳に入った話が、真帆の胸の中に小石を投げ入れる。
 男性社員同士が「プロジェクトの顔ぶれを変えないとね」と笑っていた。表情は他愛ない。だが、その「顔ぶれ」とは、人を交替させるのではなく、意見の出ない人を選ぶためのフィルターだと、真帆は気づく。議論をする人より「従う人」が都合がいい。
 都合のいい人は、いつの間にか負担の吸い取り口になっている。

 午後二時、急な依頼メールが飛んでくる。納期は明日の朝、内容は細切れで指示が矛盾している。
 直子は顔色を変えて「課長、これ…」と差し出した。橋本は一瞬だけ眉を寄せ、すぐに「やれる?」と聞く。直子が「やります」と言うのを待つように、真帆は書類から視線を上げた。誰もがその瞬間、直子の「やります」を当たり前のように受け取る。
 真帆は指先でペンのキャップをはじき、音を立てた。その小さな音だけが、その場で不協和音になった。

 真帆は考える。
 やります、と言うことは、何を引き受けることなのか。本当に自分の時間、思考、感情を差し出すことなのか。引き受けることの対価はいつ支払われるのか。
 ここで「やります」と重ねることが、自分の歩みを少しずつ薄くしていくのではないか。

 その日の夕方、会議が終わった。人々は習慣どおりに席を立ち、椅子の足音がフロアに散っていく。だれかが冷蔵庫からビールを取り出し、「今夜は飲みに行こうか」と軽く投げかける。返事はいつもどおりの笑い声だ。
 けれど直子の笑顔は一瞬遅れ、池田さんは首をすくめるだけで言葉を発しない。橋本は場を仕切るように足を早め、声のトーンを下げることで空気をまとめる。

 帰りのエスカレーター。
 真帆は一瞬だけ立ち止まり、胸の奥で何かが静かに動いたのを感じた。これまで自分が合わせてきたリズムに、違和感が積み重なって、やがて重石のようになっている。重石を抱えたまま歩くのは疲れる。だが、その重さを下ろすタイミングがいつなのか、真帆はまだ言葉にできない。

 家に帰って電源を入れる前、彼女は机の引き出しを開けてメモ帳を取り出した。メモ帳の一行目には、昨年の目標が小さな字で書かれている。「安定」「昇進」「チームのために」。その言葉を指でなぞると、インクが少しにじむ。真帆はペンを取り、新しい行に静かに書いた。

 ――自分の歩みを、少しずつ取り戻す。

 字は大きくかつぎこちない。けれど、その一行は、これまでの「いっせーの」に乗っかる合図とは違う。声を合わせるための掛け声ではなく、誰にも合わせないで踏み出すための、小さな呪文のようだった。

 その夜、眠りにつく前に真帆は決めるというより、確かめた。明日もまたいつものリズムで合図が鳴るだろう。しかし、その合図に従うかどうかは、今日書いた一行が少しずつ教えてくれるだろうと。
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