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第1章 声を合わせずにそろう瞬間
ソレゾレニ
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橋本
夜、デスクの蛍光灯がひとつだけ点いたままになる。
帰宅ラッシュをやり過ごすように、橋本は最後のメールを打っていた。
件名には「フォローのお願い」。本文には「明朝までに確認をお願いします」。
言い回しは丁寧だが、文末の「お願いします」に少しだけ力がこもる。
それは、他人に対する懇願ではなく、自分への命令のようだった。
「頼れる上司でいたい」という意識が、いつの間にか「頼られ続けなければ」という呪いに変わっていた。
家の時計はもう深夜を回る。
小学生の息子が描いた家族の絵が、リビングの壁に貼られている。
その中で自分だけ、輪郭が少し薄い。
「仕事でいない時間が多い」と妻が言ったとき、橋本は苦笑した。
その笑いが、今も胸の奥で冷たく響く。
彼は知っている。
この組織の「いっせーの」は、部下を守る合図ではない。
“立ち止まる者”を見つけ出すための、足並み確認の儀式だということを。
直子
「やります」と言ってから、息を吸う。
それがもう、身体の癖になっている。
「できません」と言うより先に、喉が反射的に「やります」と形を作る。
失敗が怖いのではない。
“感じの悪い人”になることのほうが怖いのだ。
夜、帰り道のコンビニ。
棚の前で、買うものを決められない。
疲れた体に糖分が欲しいのに、どの甘さも似ていて、どれも決め手にならない。
仕事もそうだ。
選んでいるようで、選ばされている。
誰かの期待に合わせた「いい人」になっているうちに、
自分が何を欲しているのか、だんだん思い出せなくなる。
レジに向かう足取りが重い。
「やります」と言いながら、内心で別の声が囁く。
――もう、やめたい。
池田
派遣の契約更新は、来月。
誰もその話題を口にしない。
「続けますか?」と聞かれたら、たぶん「はい」と言う。
でも、聞かれなければ、静かに消えるつもりでいる。
彼女は、他人の声がうるさくない時間を大切にしている。
家に帰ると、イヤホンを外し、部屋の隅に置く。
無音の中で湯を沸かす。湯気が立ちのぼる瞬間だけ、
自分の存在がゆるやかに溶け出していくように思える。
会社では「無口で助かる人」と言われる。
でも、その“助かる”が誰のための言葉なのか、池田は知っている。
黙っている人は、都合のいい壁になる。
ぶつかっても反応しないから。
だからこそ、彼女は決めていた。
契約更新の紙が来たら、サインしない。
誰にも告げずに、静かに去る。
その沈黙が、彼女なりの「いっせーの」だ。
真帆、再び
翌朝。
職場に着くと、エントランスの照明がいつもより明るく感じた。
昨日までの空気が、少しだけ変わっている。
橋本はまだ出社しておらず、直子は少し遅れて来るらしい。
池田さんは黙々とPCを立ち上げ、カーディガンの袖を整えている。
真帆は席に座ると、昨日の夜書いたメモのことを思い出した。
「自分の歩みを、少しずつ取り戻す」。
その一行を思い出すたびに、胸の奥がほんの少し熱を帯びる。
その日、チーム宛てに新しい依頼メールが届いた。
件名は「至急対応願います」。
差出人は上層部のマネージャー。
本文の最初の一文にはこうあった。
> 本日中に方針案を共有いただければ幸いです。
「幸いです」。
この言葉を読んだ瞬間、真帆はふと、マウスを止めた。
“お願い”のようでいて、実質的には“命令”だ。
この会社では、柔らかい言葉ほど重たい。
時計を見る。午前十時十五分。
いつもならすぐ返信を打つところだ。
でも今日は、ほんの少しだけ、待ってみようと思った。
数分。
さらに十分。
まわりのキーボード音が小さく鳴り続ける。
その中で、真帆だけが指を止めていた。
なぜだろう、心臓の鼓動がはっきり聞こえる。
返さないことで、世界が少しずつ違う方向へ動いていくような、
そんな奇妙な感覚。
やがて橋本が席に着き、周囲の空気が動く。
「真帆さん、例のメール、対応お願いね」
その声に、真帆はゆっくり顔を上げた。
笑顔でうなずくかわりに、短く言った。
「少し、考えてからにします」
橋本の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
それは驚きというより、「あれ?」と空気の乱れを感じ取る反応。
真帆はその視線を受け止めながら、心の中で小さく呟いた。
――いっせーの。
だれも声を合わせなかった。
でも、彼女の中で何かが確かに、動き出した。
夜、デスクの蛍光灯がひとつだけ点いたままになる。
帰宅ラッシュをやり過ごすように、橋本は最後のメールを打っていた。
件名には「フォローのお願い」。本文には「明朝までに確認をお願いします」。
言い回しは丁寧だが、文末の「お願いします」に少しだけ力がこもる。
それは、他人に対する懇願ではなく、自分への命令のようだった。
「頼れる上司でいたい」という意識が、いつの間にか「頼られ続けなければ」という呪いに変わっていた。
家の時計はもう深夜を回る。
小学生の息子が描いた家族の絵が、リビングの壁に貼られている。
その中で自分だけ、輪郭が少し薄い。
「仕事でいない時間が多い」と妻が言ったとき、橋本は苦笑した。
その笑いが、今も胸の奥で冷たく響く。
彼は知っている。
この組織の「いっせーの」は、部下を守る合図ではない。
“立ち止まる者”を見つけ出すための、足並み確認の儀式だということを。
直子
「やります」と言ってから、息を吸う。
それがもう、身体の癖になっている。
「できません」と言うより先に、喉が反射的に「やります」と形を作る。
失敗が怖いのではない。
“感じの悪い人”になることのほうが怖いのだ。
夜、帰り道のコンビニ。
棚の前で、買うものを決められない。
疲れた体に糖分が欲しいのに、どの甘さも似ていて、どれも決め手にならない。
仕事もそうだ。
選んでいるようで、選ばされている。
誰かの期待に合わせた「いい人」になっているうちに、
自分が何を欲しているのか、だんだん思い出せなくなる。
レジに向かう足取りが重い。
「やります」と言いながら、内心で別の声が囁く。
――もう、やめたい。
池田
派遣の契約更新は、来月。
誰もその話題を口にしない。
「続けますか?」と聞かれたら、たぶん「はい」と言う。
でも、聞かれなければ、静かに消えるつもりでいる。
彼女は、他人の声がうるさくない時間を大切にしている。
家に帰ると、イヤホンを外し、部屋の隅に置く。
無音の中で湯を沸かす。湯気が立ちのぼる瞬間だけ、
自分の存在がゆるやかに溶け出していくように思える。
会社では「無口で助かる人」と言われる。
でも、その“助かる”が誰のための言葉なのか、池田は知っている。
黙っている人は、都合のいい壁になる。
ぶつかっても反応しないから。
だからこそ、彼女は決めていた。
契約更新の紙が来たら、サインしない。
誰にも告げずに、静かに去る。
その沈黙が、彼女なりの「いっせーの」だ。
真帆、再び
翌朝。
職場に着くと、エントランスの照明がいつもより明るく感じた。
昨日までの空気が、少しだけ変わっている。
橋本はまだ出社しておらず、直子は少し遅れて来るらしい。
池田さんは黙々とPCを立ち上げ、カーディガンの袖を整えている。
真帆は席に座ると、昨日の夜書いたメモのことを思い出した。
「自分の歩みを、少しずつ取り戻す」。
その一行を思い出すたびに、胸の奥がほんの少し熱を帯びる。
その日、チーム宛てに新しい依頼メールが届いた。
件名は「至急対応願います」。
差出人は上層部のマネージャー。
本文の最初の一文にはこうあった。
> 本日中に方針案を共有いただければ幸いです。
「幸いです」。
この言葉を読んだ瞬間、真帆はふと、マウスを止めた。
“お願い”のようでいて、実質的には“命令”だ。
この会社では、柔らかい言葉ほど重たい。
時計を見る。午前十時十五分。
いつもならすぐ返信を打つところだ。
でも今日は、ほんの少しだけ、待ってみようと思った。
数分。
さらに十分。
まわりのキーボード音が小さく鳴り続ける。
その中で、真帆だけが指を止めていた。
なぜだろう、心臓の鼓動がはっきり聞こえる。
返さないことで、世界が少しずつ違う方向へ動いていくような、
そんな奇妙な感覚。
やがて橋本が席に着き、周囲の空気が動く。
「真帆さん、例のメール、対応お願いね」
その声に、真帆はゆっくり顔を上げた。
笑顔でうなずくかわりに、短く言った。
「少し、考えてからにします」
橋本の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
それは驚きというより、「あれ?」と空気の乱れを感じ取る反応。
真帆はその視線を受け止めながら、心の中で小さく呟いた。
――いっせーの。
だれも声を合わせなかった。
でも、彼女の中で何かが確かに、動き出した。
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