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第1章 声を合わせずにそろう瞬間
微かな反応
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「少し、考えてからにします」
その言葉が落ちた瞬間、
空調の音がやけに大きく聞こえた。
フロア全体のリズムが、ほんの一拍、遅れる。
その“間”を埋めようとして、誰かのボールペンがカチリと鳴った。
橋本は「そう」とだけ言い、視線をモニターに戻す。
しかし、目の焦点は合っていなかった。
画面に映る文字列の中に、先ほどの一言がまだ残響しているようだった。
「考えてから」──その当たり前の言葉が、
この職場では異物のように浮き上がる。
斜め前の直子は、手を止めずに資料をまとめながら、
気づかれない程度に横目で真帆を見た。
彼女の中で何かが、ほんの少し震える。
“あ、言っていいんだ”という驚きと、
“でも自分にはまだ言えない”というためらいが、同時に灯る。
指先がわずかに震え、クリップを落としそうになる。
池田さんは、キーボードを打つふりをしながら耳を澄ませていた。
無意識にマウスを握り直す。
彼女は音に敏感だ。
空気が変わった瞬間の“音の質”を聴き分ける。
そのわずかなノイズの中に、
「これは自分の順番が来る予感だ」と感じた。
何かが静かに始まった、という確信。
声を出さずに合図を交わすように、彼女の視線が真帆の背中に触れる。
午前の時間は、それでも普通に過ぎていった。
メールの送受信音、電話の着信、紙の擦れる音。
けれど一度崩れたテンポは、もう元には戻らない。
誰も言葉にしないまま、
それぞれの心の中で「いっせーの」が鳴り始めていた。
昼休み。
給湯室で直子が紙コップを手にしながら、
ぽつりと口にする。
「真帆さん、さっきの……ちょっと、いいなって思いました」
真帆は、ふと笑った。
「なにが?」
「うーん、ちゃんと考えるって、言葉にしたの。なんか、スッとしました」
その一言に、池田さんが静かにうなずいた。
彼女の指先がカップの縁をなぞる。
「“少し考える”って言える職場、いいですよね」
直子が笑い、真帆も笑う。
その笑いは、声を合わせたわけではないのに、不思議と揃っていた。
午後、橋本が廊下で誰かと話している。
「まあ、判断を急がせないってのも、大事かもな」
その声は軽い冗談のように聞こえたが、
どこか、安心したような響きが混じっていた。
彼もまた、気づいている。
“合わせる”だけでは、もう回らないことを。
その日の帰り道、
真帆は信号が青に変わるのを待ちながら、
胸の中で何度か小さく繰り返した。
――いっせーの。
今度は、誰の声もいらなかった。
歩き出すタイミングを決めるのは、
自分の歩みだけでいい。
(続く)
その言葉が落ちた瞬間、
空調の音がやけに大きく聞こえた。
フロア全体のリズムが、ほんの一拍、遅れる。
その“間”を埋めようとして、誰かのボールペンがカチリと鳴った。
橋本は「そう」とだけ言い、視線をモニターに戻す。
しかし、目の焦点は合っていなかった。
画面に映る文字列の中に、先ほどの一言がまだ残響しているようだった。
「考えてから」──その当たり前の言葉が、
この職場では異物のように浮き上がる。
斜め前の直子は、手を止めずに資料をまとめながら、
気づかれない程度に横目で真帆を見た。
彼女の中で何かが、ほんの少し震える。
“あ、言っていいんだ”という驚きと、
“でも自分にはまだ言えない”というためらいが、同時に灯る。
指先がわずかに震え、クリップを落としそうになる。
池田さんは、キーボードを打つふりをしながら耳を澄ませていた。
無意識にマウスを握り直す。
彼女は音に敏感だ。
空気が変わった瞬間の“音の質”を聴き分ける。
そのわずかなノイズの中に、
「これは自分の順番が来る予感だ」と感じた。
何かが静かに始まった、という確信。
声を出さずに合図を交わすように、彼女の視線が真帆の背中に触れる。
午前の時間は、それでも普通に過ぎていった。
メールの送受信音、電話の着信、紙の擦れる音。
けれど一度崩れたテンポは、もう元には戻らない。
誰も言葉にしないまま、
それぞれの心の中で「いっせーの」が鳴り始めていた。
昼休み。
給湯室で直子が紙コップを手にしながら、
ぽつりと口にする。
「真帆さん、さっきの……ちょっと、いいなって思いました」
真帆は、ふと笑った。
「なにが?」
「うーん、ちゃんと考えるって、言葉にしたの。なんか、スッとしました」
その一言に、池田さんが静かにうなずいた。
彼女の指先がカップの縁をなぞる。
「“少し考える”って言える職場、いいですよね」
直子が笑い、真帆も笑う。
その笑いは、声を合わせたわけではないのに、不思議と揃っていた。
午後、橋本が廊下で誰かと話している。
「まあ、判断を急がせないってのも、大事かもな」
その声は軽い冗談のように聞こえたが、
どこか、安心したような響きが混じっていた。
彼もまた、気づいている。
“合わせる”だけでは、もう回らないことを。
その日の帰り道、
真帆は信号が青に変わるのを待ちながら、
胸の中で何度か小さく繰り返した。
――いっせーの。
今度は、誰の声もいらなかった。
歩き出すタイミングを決めるのは、
自分の歩みだけでいい。
(続く)
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