いっせーの!

田中葵

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第2章 既読の向こうで

既読の向こうで

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 午前中のフロアは、いつも通りの事務的で味気ない音に満ちていた。
 けれど、誰もが心の奥で尖った針のような違和感を感じている。
 真帆、池田、直子――それぞれの小さな決断が、いつもなら代わり映えのしなさ過ぎる空気に微細な波を立てていた。

 メールの受信音が鳴るたび、軽く指先が止まる。
 「昨日の件、どう思います?」
 その問いかけに、答えはすぐに返せない。
 思わず目線を逸らす人、メールを既読にするだけの人。
 それぞれの画面越しに、沈黙が漂う。

 昼休みのチャットグループでは、ノリがよく短いフレーズを飛ばし合っていた。
 しかし、あるメンバーが小さなスタンプひとつを送った瞬間、
 タイミングをずらして既読が増え、会話が途切れる。
 ――ごく小さな“見限り”の合図。

 廊下の一角では、佐藤がコピー機の前で立ち止まった。
 彼もまた、真帆の去り際の歩みを思い出していた。
 誰かに促されるでもなく、自分の判断で動く姿。
 その光景が、胸にひっそりと響く。

 「……こうするしかないのか」
 誰に言うでもなく、つぶやいた。
 コピー機の立て続けに発する金属音が、答えのように響いた。

 午後になると、さらに波紋は広がる。
 会議室では、資料の回覧がしばらく続いて、誰も手を止めない。
 けれど、目線の先には空席がある。
 名前だけが印刷された席札が、沈黙を伝える。

 SNSでは、昨日まで元気にコメントしていた同僚が、突然「既読のみ」で応答を止める。
 短いメッセージも送らない。
 画面の向こうで、個々の“自分の歩み”が静かに始まっている。

 夕方、直子はデスクで画面を見つめたまま、
 「フウッ……」と、小さなため息をついた。
 食べ終わったグミの小さな袋をまとめて不燃ごみを集めるほうのゴミ箱へ入れた。その足で甘い炭酸飲料を買って、自分のデスクへ戻った。
 誰も大声で宣言していないのに、
 この沈黙の波が、確かに自分の中に届いている。

 ――みんな、少しずつ、歩き出している。

 直子はカラーペンを取り、ノートの端に小さく走り書いた。
 “声に出さずに決める勇気”

 デスクライトのLEDが、紙の上で揺れる文字をそっと照らす。
 そして、フロアのざわめきの中に、誰もがまだ口にできない「せー」が、重なっていく。


(10分後更新予定の第三章へ続く)
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