いっせーの!

田中葵

文字の大きさ
6 / 6
第3章 歩みの先で

歩みの先で

しおりを挟む
 翌朝。フロアは、いつもと同じ光と音に満ちていた。
 しかし、昨日までの微かで細やかな波紋は、少しずつ落ち着きを取り戻している。

 真帆は、自分の席に座りながら、資料に目を落とす。
 デスクには、通勤途中にある自販機で購入したクラフトコーヒーの容器が置かれている。これは香り立ちが良すぎるため、今まで買うことをためらっていたものだった。
 誰も何も言わなくても、歩みは止めなくていい。
 その感覚が、彼女の肩の力をそっと解く。

 直子は隣のデスクでノートのスケジュール欄を開き、小さな四角の上に黒く細いペンを走らせ、所々、薄い色味のふせんを貼っていく。
 書き終えて別のページを開き、その隅に走り書いた昨日のメモ
 「声に出さずに決める勇気」――
を見返しながら、自分の歩幅で進む決意を改めて感じる。
 視線の先には、空席の椅子がある。
 でも、その空席はもう“喪失”ではなく、
 それぞれが自分の歩みを選んだ証として、静かに存在していた。

 廊下の向こうでは、池田が小さなカフェに座っている。
 パソコンを開き、メールやチャットを手早く確認する。
 既読だけが残る画面の向こう側に、かつての仲間の足音がわずかに感じられる。
 でも、もう自分は振り返らない。
 自分の歩みを信じて、静かに前に進むだけだ。
 一通り読み終わると、Windows office businessのデスクトップからそれらを消した。

 昼休み。給湯室で直子がふと笑う。
 「なんだか、少し空気が軽い」
 誰に向けるでもなく、つぶやくその声に、ほんのわずか池田の影を重ねる。

 午後。フロアに小さすぎず大きすぎない声量のざわめきが戻る。
 けれど、以前とは違う。
 沈黙の波を経て、誰もが自分のリズムで呼吸している。
 それぞれの歩みが、少しすれ違いながらも、調和を作り出しているようだった。

 夕方、真帆は立ち上がり、窓の外の光を見つめる。
 胸の奥で、静かに繰り返す。

 ――いっせーの。

 声に出さずとも、確かに届く。
 それぞれの歩みが、静かに、でも確実に重なっていく。

 そして、誰もが自分のペースで進むこの職場は、
 前よりも少しだけ、柔らかく、温かく感じられた。


(了)
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

『人間嫌いの狐王に、契約妻として嫁いだら溺愛が止まりません』

由香
ファンタジー
人間嫌いで知られる狐族の王・玄耀に、“契約上の妻”として嫁いだ少女・紗夜。 「感情は不要。契約が終われば離縁だ」 そう告げられたはずなのに、共に暮らすうち、冷酷な王は彼女だけに甘さを隠さなくなっていく。 やがて結ばれる“番”の契約、そして王妃宣言――。 契約結婚から始まる、人外王の溺愛が止まらない和風あやかし恋愛譚。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました

美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!

『お前を愛する事はない』なんて言ってないでしょうね?

あんど もあ
ファンタジー
政略結婚で妻を娶った息子に、母親は穏やかに、だが厳しく訊ねる。 「『お前を愛する事は無い』なんて言ってないでしょうね?」

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

処理中です...