いっせーの!

田中葵

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第3章 歩みの先で

歩みの先で

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 翌朝。フロアは、いつもと同じ光と音に満ちていた。
 しかし、昨日までの微かで細やかな波紋は、少しずつ落ち着きを取り戻している。

 真帆は、自分の席に座りながら、資料に目を落とす。
 デスクには、通勤途中にある自販機で購入したクラフトコーヒーの容器が置かれている。これは香り立ちが良すぎるため、今まで買うことをためらっていたものだった。
 誰も何も言わなくても、歩みは止めなくていい。
 その感覚が、彼女の肩の力をそっと解く。

 直子は隣のデスクでノートのスケジュール欄を開き、小さな四角の上に黒く細いペンを走らせ、所々、薄い色味のふせんを貼っていく。
 書き終えて別のページを開き、その隅に走り書いた昨日のメモ
 「声に出さずに決める勇気」――
を見返しながら、自分の歩幅で進む決意を改めて感じる。
 視線の先には、空席の椅子がある。
 でも、その空席はもう“喪失”ではなく、
 それぞれが自分の歩みを選んだ証として、静かに存在していた。

 廊下の向こうでは、池田が小さなカフェに座っている。
 パソコンを開き、メールやチャットを手早く確認する。
 既読だけが残る画面の向こう側に、かつての仲間の足音がわずかに感じられる。
 でも、もう自分は振り返らない。
 自分の歩みを信じて、静かに前に進むだけだ。
 一通り読み終わると、Windows office businessのデスクトップからそれらを消した。

 昼休み。給湯室で直子がふと笑う。
 「なんだか、少し空気が軽い」
 誰に向けるでもなく、つぶやくその声に、ほんのわずか池田の影を重ねる。

 午後。フロアに小さすぎず大きすぎない声量のざわめきが戻る。
 けれど、以前とは違う。
 沈黙の波を経て、誰もが自分のリズムで呼吸している。
 それぞれの歩みが、少しすれ違いながらも、調和を作り出しているようだった。

 夕方、真帆は立ち上がり、窓の外の光を見つめる。
 胸の奥で、静かに繰り返す。

 ――いっせーの。

 声に出さずとも、確かに届く。
 それぞれの歩みが、静かに、でも確実に重なっていく。

 そして、誰もが自分のペースで進むこの職場は、
 前よりも少しだけ、柔らかく、温かく感じられた。


(了)
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