イイ人やめました。うまく行ってたんだけどな

田中葵

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1 解き放つ

アイタタタ……

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 その日は、何の変哲もなく過ごせるはずだった。
 タバコ休憩を済ませ、カーペットの敷き詰められた通路で、
 女性の社員から言われる。

「おじさ~ん、ヤニ臭いですぅ💧」

 面と向かってそう言われて、私は思わずシャツの袖から
 腕周りが臭っているか確かめた。

「す、いませ……ん。
 気を、、、つけます」

        *

 最初に聞いたとき、私は冗談だと思った。

 「部長、ちょっと噂になってますよ」

 同年代の同僚が、給湯室でそう言った。声は低く、でも妙に慎重だった。仕事の相談にしては、目が合わない。

 噂、という言葉に、胸の奥がひやりとした。
 管理職になってから、噂はだいたい面倒ごとの前触れだ。

 「何の?」

 問い返すと、彼女は一瞬だけ迷ってから、スマホを差し出した。
 画面には、見覚えのある横顔が写っていた。

 夜の駅前。
 スーツ姿の私。
 隣に、知らない若い男。

 距離が近い。
 肩が触れている。
 それだけで、言い訳が難しい。

 「他部署の人だそうです。総務じゃなくて、企画の……」

 彼女は、それ以上言わなかった。
 言わなくても分かる。
 続きは、もう“現場”だ。


 否定しようとした。
 でも、言葉が出なかった。

 確かに、関係はあった。
 仕事の相談。飲み。愚痴。
 いつの間にか、終電を逃す距離。


 「別に、仕事に支障は出してない」

 自分でも驚くほど、即答だった。
 まるで、どこかで用意していた台詞みたいに。

 彼女は何も言わず、スマホをしまった。
 責めない。
 でも、軽蔑もしない。
 一番、居心地の悪い態度だ。

 その日の午後、私は部下の評価シートを書いていた。
 几帳面な字。
 曖昧な表現。
 公平さを装った言葉。

 ふと、思い出す。
 以前、ベテランの部下が見せていた、あの一拍の間。
 即答しなくなったあの感じ。

 私は、自分のことを「分別がある」と思っていた。
 仕事と私情は分けている、と。

 でも実際は、
 仕事ではルールを語り、
 私生活では境界を曖昧にしていただけだった。


 彼女――噂を持ってきた同僚は、その後、私と距離を取るようになった。
 露骨ではない。
 ただ、必要最低限。

 ベテランの部下が、かつてそうしたように。

 気づいたときには遅かった。
 信頼は、裏切られたときより、
 「だらしなさ」を見せた瞬間に、静かに剥がれる。

 私は、評価はしていた。
 ルールも語っていた。
 でも、自分には甘かった。

 そのことを、誰よりもよく知っているのは、
 たぶん――
 もう、何も言わなくなった部下たちだ。
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