イイ人やめました。うまく行ってたんだけどな

田中葵

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1 解き放つ

ランチ、行く?

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 そう聞かれて、私は一瞬だけ考えてから、うなずいた。
 行ってもいいし、行かなくてもいい。
 その選択肢が、最初からある誘い方だった。

 社屋を出て、すぐ近くの小さな路地へ入る。
 辺りはひんやりしていて、猫が来ない限りは、しんとしている。

 ある程度の距離を歩くと、右の並びに古いのれんが出ている定食屋の前に着く。
 少しひなびていて、温かみのある店内。
 いつもの席に、いつも座っているおじいさんがいる。
 特別おいしいわけでも、流行っているわけでもない。
 でも、昼時でも騒がしくならない。

 ちょうど空いている真ん中の席。
 向かいに座った彼女――あの人は、メニューを見ながら言った。

 「今日は、どうする?」

 “一緒に”ではなく、“今日は”。
 それだけで、空気が軽くなる。
 気づくと、もっとお腹が空いてきた……

 注文を済ませてから、しばらく仕事の話をした。
 進捗。引き継ぎ。ちょっとした愚痴。
 必要な分だけ。

 前みたいに、誰かのフォローをどうするかとか、
 場の空気をどう丸めるかとか、
 そういう話は出てこない。

 沈黙があっても、気まずくならない。
 スマホを見るでもなく、無理に話題を探すでもなく、
 ただ、箸を動かす。

 「最近、楽そうだよね」

 不意に言われて、少し驚いた。
 褒め言葉なのかどうか、判断がつかない。

 「そう見える?」

 「うん。前より」

 理由は聞かれなかった。
 説明もしなかった。

 以前の彼女なら、
 「何かあった?」と聞いたかもしれない。
 でも、今は聞かない。

 それが、ありがたかった。

 食後、店を出るとき、彼女が言った。

 「午後、忙しい?」

 「ううん」

 「じゃあ、戻ろうか」

 それだけだ。
 一緒に戻るけど、同じ速度で歩く必要もない。

 職場の入口で、自然に別れる。
 午後は午後。
 昼は昼で終わる。

 その背中を見ながら、私は思う。
 この人は、私がイイ人をやめたことに、
 たぶん気づいている。

 でも、評価もしないし、理由も求めない。
 ただ、同僚として、隣にいる。

 それが、こんなに静かで、続けやすい関係だとは、
 前は知らなかった。
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