イイ人やめました。うまく行ってたんだけどな

田中葵

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2 前日譚

【主人公】こころの、なかは……言えなかった昔のこと

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 枕にしがみつきながら思い出した、
 前の職場のこと。
 あの頃、私は30代だった。

        *

 「いつも気を利かせてほしい」

 その一言で、私は人を嫌いになった。
 正確には、その言葉を平気で口にできる構造を、心底軽蔑するようになった。
 その言葉を、私はもう善意として受け取れなくなっている。
 それはお願いでも期待でもなく、当然の仕様として投げつけられる命令だった。

 いつも、だ。
 今日じゃない。今度でもない。
 失敗したら終わり、という意味の、いつも。

 もともと、いつも、って何だ。
 二十四時間か。
 一生か。
 失敗した瞬間に評価がゼロになる、便利な呪文か。


 気を利かせる側には、休憩も免責もない。
 おまけにその行為には、履歴が残らない。
 体調が悪くても、機嫌が沈んでいても、理由は関係ない。
 「前はできてたでしょ?」
 その一言で、すべてが無効化される。


 一度でも抜け落ちた瞬間、それまでのすべては帳消しになる。


 誰かが不機嫌になる前に、先回りしろ。
 飲み物が空く前に気づけ。
 場の温度が下がる前に動け。
 空気が重くなる前に話題を変えろ。
 誰かの声色が変わる前に、手を打て。
 言われる前にやれ。
 言葉にしなくても、察しろ。
 察したうえで、さりげなくやれ。
 そして、やったことは、忘れろ。

 それが「気が利く」という役割だ。
 人間じゃない。機能だ。
 ああ、思い出すだけで、こめかみの辺りが痛くなる……


 「前はできてたのに」
 「最近、冷たくない?」
 「変わったよね」

 違う。
 前から、限界だった。

 私が気を利かせていたのは、優しさや善意からじゃない。
 怒らせないため。
 場を壊さないため。
 面倒な顔をされないため。
 怠慢だと思われないため。
 感じが悪いと噂されないため。
 「空気読めない人」の烙印を押されないため。
 その場を、無事にやり過ごすためだった。

 つまり、保身だ。

 それでも、周りは言う。
 「よく気づくよね」
 「ほんと、助かる」
 「一緒にいると楽」


 その言葉の裏で、次の仕事が自動発行される。
 加えて、次の要求が仕込まれていることを、私はもう知っている。

 気がつく人=ずっと気がつける人
 助かる人=使っていい人
 楽=相手が我慢している

 感謝は報酬じゃない。
 前払いされた要求だ。

 一度でも外すと、空気が変わる。
 目線が冷える。
 ため息が混じる。
 「どうしたの?」という、確認を装った非難。

 その瞬間、役割がバレる。
 私は人じゃない。
 空気調整装置だ。

 壊れたら、私の責任。
 うまく回っている間は、誰の功績でもない。

 それでも文句を言えば、「被害者意識が強い」と言われる。
 やめれば、「冷たくなった」と言われる。
 説明すれば、「めんどくさい」と言われる。

 最悪なことに、
 誰も、確認しない。
 それを続けたいかどうか。
 それが負担になっていないか。
 そもそも、役割として引き受けた覚えがあるのか。

 気を利かせる側が黙っている限り、要求は増える。
 当たり前の基準は、勝手に引き上げられる。
 昨日できたことは、今日もできて当然になる。

 そして、できなかった日だけが、問題になる。
 つまり、出口がない。

        *

 だから一度、私はやめてみた。
 気づかないふりをした。
 先回りしなかった。
 空気を読まずに、黙っていた。

 すると、露骨に不機嫌な顔をされた。
 ため息をつかれた。
 「どうしたの?」と、責めるように聞かれた。


 その瞬間、はっきり分かった。
 私がやっていたのは、気遣いじゃない。
 無償のメンテナンスだ。

 壊れないように、怒らせないように、機嫌を保つための作業。
 壊れたら、私の責任。
 でも、壊れなくても、私の功績にはならない。

 そんな役目を、いつ引き受けた?
 誰が契約した?

 もう、うんざりだった。


 気を利かせない私を見て、離れていく人たちを、私は引き止めなかった。
 説明もしなかった。
 分かってほしいとも、思わなかった。

 その途端、人が減った。
 静かに、分かりやすく、いなくなった。


 代わりに残ったのは、気が利かない人たち。
 不器用で、言葉が遅くて、沈黙を怖がらない。


 彼らは、私に「いつも」を求めない。
 足りないなら言う。
 不満があれば言葉にする。
 察される前提で、何かを期待しない。

 彼らは言う。
 「それ、必要?」
 「足りないなら言うよ」
 「今は黙りたい」


 察してもらう前提で、生きていない。

 要らない同士で、生きている。

 誰かの機能になるより、ずっと人間だった。

 それは、驚くほど静かで、疲れない世界だった。



 つくづく思う。
 あの会社さえ、
 無くならなければ。
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