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2 前日譚
「ある人」の、その前
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1|家庭
「やさしい子でいなさい」
家の中では、静かにしているのが一番だった。
父は帰りが遅く、母はいつも疲れていた。
疲れている、というのは怒っているのと似ている。
ちょっとした物音で、空気が張りつめる。
だから私は、音を立てないように動いた。
ドアを閉めるときも、足音も、声も。
「いい子だね」
そう言われるたびに、胸の奥が少しだけ軽くなる。
褒められるというより、許された感じがした。
困ったことがあっても、言わなかった。
言えば、母の顔がさらに曇るのが分かっていたから。
学校で嫌なことがあった日も、
「大丈夫?」と聞かれれば、「うん」と答えた。
大丈夫な子でいるほうが、
家が平和でいられる。
母は、悪い人ではなかった。
ただ、余裕がなかった。
「あなたは手がかからなくて助かるわ」
その言葉を、私は誇りみたいに受け取った。
手がかからない。
つまり、迷惑をかけない。
感情を抑えること。
我慢すること。
察すること。
それが“やさしさ”だと、思っていた。
ある夜、泣きたい気持ちを飲み込んで布団に入ったとき、
ふと思った。
もし私が、もっと困った顔をしていたら、
誰かは、気づいてくれただろうか。
でも、その考えはすぐに消した。
そんなことを考えるのは、わがままだ。
私は、やさしい子でいなければならない。
それが、最初に選んだ生き方だった。
2|中学「波風を立てない才能」
★
6│ 職場での「その人」は
「あぁ、そうなんだ……ふぅん」
それは、ワタシの口癖だった。
驚きもしない、怒りもしない、深く考えていないわけでもない。ただ、その場で何かを決めるほどの確信がなかっただけだ。世界はいつも、ワタシより少しだけ速く動いていて、判断を迫る声は、だいたい唐突だった。
だから相槌を打った。 それ以上でも以下でもない。
賛成でも反対でもない。 味方でも敵でもない。 ただ「聞いていますよ」という合図として、便利だった。
それで済むと思っていた。 少なくとも、わたし自身は。
ワタシは、よくも悪くも目立たなかった。 声が大きいわけでもないし、極端な意見を言うこともない。誰かと揉めるくらいなら、黙って距離を取るほうが楽だった。争いは疲れる。説明は消耗する。納得させる責任まで背負うほど、強くもなかった。
職場でも、友人関係でも、わたしは「無難な人」だったと思う。 話は聞く。 否定しない。 でも、深入りもしない。
それが大人だと思っていた。 少なくとも、賢い生き方だと。
誰かが愚痴をこぼせば、「あぁ、そうなんだ……ふぅん」。 誰かが自慢をすれば、「へぇ、すごいね」と同じ調子で。 誰かが危うい話をしていても、判断は胸の内にしまっておく。
だって、ワタシは当事者じゃない。 そう、ずっと思っていた。
いつからだろう。 ワタシのその口癖が、「理解」や「同意」にすり替わっていったのは。
「君は分かってくれてると思ってた」 そう言われたとき、最初は意味が分からなかった。
分かっていない。 理解もしていない。 ただ、聞いていただけだ。
でも、相手は違った。 ワタシが否定しなかったことを、受け入れた証拠として数えていた。 ワタシが沈黙した時間を、同じ側に立っていた時間として記憶していた。
気づいたときには、もう遅かった。
ワタシの「ふぅん」は、空白じゃなかった。 誰かが、勝手に文字を書き込める余白だった。
目立たない人間は、無害だと思われる。 無害な人間は、安全だと思われる。 そして安全な人間は、都合よく使われる。
ワタシは、そういう位置にいた。
何も言っていないのに、語ったことにされる。 何も選んでいないのに、選んだ側に入れられる。 気づけば、知らない物語の登場人物になっていた。
人生を失うほどのことになるなんて、思いもしなかった。
ただ、相槌を打っていただけなのに。 ただ、波風を立てなかっただけなのに。
あぁ、そうなんだ……ふぅん。
その言葉が、こんなふうに自分を縛る日が来るなんて。 あの頃のワタシは、想像すらしていなかった。
「やさしい子でいなさい」
家の中では、静かにしているのが一番だった。
父は帰りが遅く、母はいつも疲れていた。
疲れている、というのは怒っているのと似ている。
ちょっとした物音で、空気が張りつめる。
だから私は、音を立てないように動いた。
ドアを閉めるときも、足音も、声も。
「いい子だね」
そう言われるたびに、胸の奥が少しだけ軽くなる。
褒められるというより、許された感じがした。
困ったことがあっても、言わなかった。
言えば、母の顔がさらに曇るのが分かっていたから。
学校で嫌なことがあった日も、
「大丈夫?」と聞かれれば、「うん」と答えた。
大丈夫な子でいるほうが、
家が平和でいられる。
母は、悪い人ではなかった。
ただ、余裕がなかった。
「あなたは手がかからなくて助かるわ」
その言葉を、私は誇りみたいに受け取った。
手がかからない。
つまり、迷惑をかけない。
感情を抑えること。
我慢すること。
察すること。
それが“やさしさ”だと、思っていた。
ある夜、泣きたい気持ちを飲み込んで布団に入ったとき、
ふと思った。
もし私が、もっと困った顔をしていたら、
誰かは、気づいてくれただろうか。
でも、その考えはすぐに消した。
そんなことを考えるのは、わがままだ。
私は、やさしい子でいなければならない。
それが、最初に選んだ生き方だった。
2|中学「波風を立てない才能」
★
6│ 職場での「その人」は
「あぁ、そうなんだ……ふぅん」
それは、ワタシの口癖だった。
驚きもしない、怒りもしない、深く考えていないわけでもない。ただ、その場で何かを決めるほどの確信がなかっただけだ。世界はいつも、ワタシより少しだけ速く動いていて、判断を迫る声は、だいたい唐突だった。
だから相槌を打った。 それ以上でも以下でもない。
賛成でも反対でもない。 味方でも敵でもない。 ただ「聞いていますよ」という合図として、便利だった。
それで済むと思っていた。 少なくとも、わたし自身は。
ワタシは、よくも悪くも目立たなかった。 声が大きいわけでもないし、極端な意見を言うこともない。誰かと揉めるくらいなら、黙って距離を取るほうが楽だった。争いは疲れる。説明は消耗する。納得させる責任まで背負うほど、強くもなかった。
職場でも、友人関係でも、わたしは「無難な人」だったと思う。 話は聞く。 否定しない。 でも、深入りもしない。
それが大人だと思っていた。 少なくとも、賢い生き方だと。
誰かが愚痴をこぼせば、「あぁ、そうなんだ……ふぅん」。 誰かが自慢をすれば、「へぇ、すごいね」と同じ調子で。 誰かが危うい話をしていても、判断は胸の内にしまっておく。
だって、ワタシは当事者じゃない。 そう、ずっと思っていた。
いつからだろう。 ワタシのその口癖が、「理解」や「同意」にすり替わっていったのは。
「君は分かってくれてると思ってた」 そう言われたとき、最初は意味が分からなかった。
分かっていない。 理解もしていない。 ただ、聞いていただけだ。
でも、相手は違った。 ワタシが否定しなかったことを、受け入れた証拠として数えていた。 ワタシが沈黙した時間を、同じ側に立っていた時間として記憶していた。
気づいたときには、もう遅かった。
ワタシの「ふぅん」は、空白じゃなかった。 誰かが、勝手に文字を書き込める余白だった。
目立たない人間は、無害だと思われる。 無害な人間は、安全だと思われる。 そして安全な人間は、都合よく使われる。
ワタシは、そういう位置にいた。
何も言っていないのに、語ったことにされる。 何も選んでいないのに、選んだ側に入れられる。 気づけば、知らない物語の登場人物になっていた。
人生を失うほどのことになるなんて、思いもしなかった。
ただ、相槌を打っていただけなのに。 ただ、波風を立てなかっただけなのに。
あぁ、そうなんだ……ふぅん。
その言葉が、こんなふうに自分を縛る日が来るなんて。 あの頃のワタシは、想像すらしていなかった。
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