イイ人やめました。うまく行ってたんだけどな

田中葵

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2 前日譚

「ある人」の、その前

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1|家庭

「やさしい子でいなさい」

 家の中では、静かにしているのが一番だった。

 父は帰りが遅く、母はいつも疲れていた。
 疲れている、というのは怒っているのと似ている。
 ちょっとした物音で、空気が張りつめる。

 だから私は、音を立てないように動いた。
 ドアを閉めるときも、足音も、声も。

 「いい子だね」

 そう言われるたびに、胸の奥が少しだけ軽くなる。
 褒められるというより、許された感じがした。

 困ったことがあっても、言わなかった。
 言えば、母の顔がさらに曇るのが分かっていたから。

 学校で嫌なことがあった日も、
 「大丈夫?」と聞かれれば、「うん」と答えた。

 大丈夫な子でいるほうが、
 家が平和でいられる。

 母は、悪い人ではなかった。
 ただ、余裕がなかった。

 「あなたは手がかからなくて助かるわ」

 その言葉を、私は誇りみたいに受け取った。

 手がかからない。
 つまり、迷惑をかけない。

 感情を抑えること。
 我慢すること。
 察すること。

 それが“やさしさ”だと、思っていた。

 ある夜、泣きたい気持ちを飲み込んで布団に入ったとき、
 ふと思った。

 もし私が、もっと困った顔をしていたら、
 誰かは、気づいてくれただろうか。

 でも、その考えはすぐに消した。
 そんなことを考えるのは、わがままだ。

 私は、やさしい子でいなければならない。

 それが、最初に選んだ生き方だった。



2|中学「波風を立てない才能」




6│ 職場での「その人」は

 「あぁ、そうなんだ……ふぅん」

 それは、ワタシの口癖だった。

 驚きもしない、怒りもしない、深く考えていないわけでもない。ただ、その場で何かを決めるほどの確信がなかっただけだ。世界はいつも、ワタシより少しだけ速く動いていて、判断を迫る声は、だいたい唐突だった。

 だから相槌を打った。 それ以上でも以下でもない。

 賛成でも反対でもない。 味方でも敵でもない。 ただ「聞いていますよ」という合図として、便利だった。

 それで済むと思っていた。 少なくとも、わたし自身は。

 ワタシは、よくも悪くも目立たなかった。 声が大きいわけでもないし、極端な意見を言うこともない。誰かと揉めるくらいなら、黙って距離を取るほうが楽だった。争いは疲れる。説明は消耗する。納得させる責任まで背負うほど、強くもなかった。

 職場でも、友人関係でも、わたしは「無難な人」だったと思う。 話は聞く。 否定しない。 でも、深入りもしない。

 それが大人だと思っていた。 少なくとも、賢い生き方だと。

 誰かが愚痴をこぼせば、「あぁ、そうなんだ……ふぅん」。 誰かが自慢をすれば、「へぇ、すごいね」と同じ調子で。 誰かが危うい話をしていても、判断は胸の内にしまっておく。

 だって、ワタシは当事者じゃない。 そう、ずっと思っていた。

 いつからだろう。 ワタシのその口癖が、「理解」や「同意」にすり替わっていったのは。

 「君は分かってくれてると思ってた」 そう言われたとき、最初は意味が分からなかった。

 分かっていない。 理解もしていない。 ただ、聞いていただけだ。

 でも、相手は違った。 ワタシが否定しなかったことを、受け入れた証拠として数えていた。 ワタシが沈黙した時間を、同じ側に立っていた時間として記憶していた。

 気づいたときには、もう遅かった。

 ワタシの「ふぅん」は、空白じゃなかった。 誰かが、勝手に文字を書き込める余白だった。

 目立たない人間は、無害だと思われる。 無害な人間は、安全だと思われる。 そして安全な人間は、都合よく使われる。

 ワタシは、そういう位置にいた。

 何も言っていないのに、語ったことにされる。 何も選んでいないのに、選んだ側に入れられる。 気づけば、知らない物語の登場人物になっていた。

 人生を失うほどのことになるなんて、思いもしなかった。

 ただ、相槌を打っていただけなのに。 ただ、波風を立てなかっただけなのに。

 あぁ、そうなんだ……ふぅん。

 その言葉が、こんなふうに自分を縛る日が来るなんて。 あの頃のワタシは、想像すらしていなかった。
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