イイ人やめました。うまく行ってたんだけどな

田中葵

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2 前日譚

〈ある人〉像

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第四節 像

 最初は、噂だった。

 「聞いた? あの人」 「どの人?」 「ほら、例の件の」

 名前は、あってもなくても同じだった。 指示語だけで、ワタシは成立していた。

 「何も言わなかったんでしょ」 「一番信用できないタイプだよね」 「自分だけは安全地帯にいるつもりの人」

 ワタシの知らないわたしが、
 会話の中で、手際よく組み立てられていく。

 善悪は、すでに決まっていた。 残っているのは、性格づけだけだった。

 「計算高い」 「要領いい」 「責任取りたくない人」

 違う、と言えるほど、
 ワタシはもう現場にいなかった。

 ある人は、親切そうに言ったらしい。 「悪い人じゃないんだよ。ただ、ズルいだけ」

 ある人は、少し笑って。 「でもさ、ああいう人って必ずいるよね」

 “必ずいる”。

 個人だったはずのワタシは、
 いつのまにか、類型になっていた。

 ——黙ってやり過ごす人。 ——自分の立場だけ守る人。 ——正義が決まってから意見を言う人。

 どれも、証拠はいらなかった。 ワタシが否定しなかった、という一点だけで十分だった。

 その像は、完成していた。 修正の余地も、更新の予定もない。

 ワタシが何を考えていたかは、
 誰の興味にも入らなかった。

 家で、その話を聞いたわけじゃない。 直接、耳にしたわけでもない。

 でも、分かってしまう。

 連絡が来ない理由。 視線が逸らされた理由。 偶然を装った距離。

 完成した人物像は、
 現実よりも強く、人を動かす。

 ワタシは、もう説明する役ですらなかった。 説明は、不要になったのだ。

 数週間が経つ。 無音は、少しずつ形を変える。

 最初は、異常だった。 次に、不安になった。 そして、気づく。

 ——慣れている。

 通知がないことに、驚かなくなる。 予定が空白でも、落ち着いていられる。 曜日を、間違える。

 誰にも誤解されない代わりに、
 誰にも参照されない。

 それは、思っていたより楽だった。

 反論しなくていい。 誤解を解かなくていい。 「どう思う?」と聞かれない。

 沈黙は、今度こそ、
 本当にワタシのものになった。

 外側では、ワタシはもう完成している。 冷静で、狡猾で、責任を回避する人。

 内側では、
 ただ、音のない日常が続いているだけだ。

 どちらが本当かなんて、
 もう、どうでもよかった。

 朝は来るし、夜も来る。 食べて、眠って、起きる。

 それが続くなら、
 人生は、続いていると言えるのだろう。

 「あぁ、そうなんだ……ふぅん」

 声に出す必要はなくなった。 相手がいない言葉は、
 頭の中で、溶けるだけだ。

 この静けさが、正常になる。 この隔絶が、日常になる。

 完成した人物像だけが、
 外の世界で、ひとり歩きを続けている。

 ワタシ抜きで。
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