看護師 美紀の夜の看護日記 【2】

永井愛

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最終章:『汚泥の果実、あるいは不協和音の終焉』

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最終章:『汚泥の果実、あるいは不協和音の終焉』
第一章:剥奪の朝、灰色の風

病院を去る日、空は泣き出しそうなほどに低く、灰色の雲が垂れ込めていた。
 美紀は、私物が入った小さな段ボール箱を抱え、正面玄関を避けて通用口から外へ出た。昨日まで「白衣の天使」として尊敬を集めていた場所は、今や彼女を汚物のように排斥した。
 懲戒解雇。その四文字は、彼女が十六歳のあの日から積み上げてきた「正しさ」への努力を、たった一晩の情事で無に帰した。

アパートに戻り、美紀は床に段ボールを置くと、そのまま力なく座り込んだ。
 部屋には、病院から持ち帰ったラベンダー色のナース服が、洗濯もされずに丸まっていた。それを手に取ると、微かに消毒液の匂いと、あの日、智也と和馬がぶちまけた精液の乾いた匂いが混ざり合って立ち昇る。
 美紀はその匂いに顔を埋め、深く息を吸った。
「……ああ、私はもう、あっち側には戻れない」
 それは絶望ではなく、呪縛から解き放たれた者だけが感じる、恐ろしいほどの自由だった。

その時、ドアが激しく叩かれた。呼び鈴を鳴らすことさえもどかしいといった、暴力的なリズム。
「開けろ、美紀! 入院費、踏み倒して出てきたぜ」
 智也だった。足を引きずりながらも、その瞳には獲物を追い詰めた獣のような、下卑た歓喜が宿っていた。

第二章:堕ちていくための逃避行

智也は、美紀の返事も待たずに部屋へ上がり込み、彼女の荷物を勝手にまとめ始めた。
「お前、もうここに居場所なんてないだろ? 一緒に来いよ。俺たちみたいなゴミ屑には、ゴミ屑にふさわしい場所があるんだ」
 智也が連れて行ったのは、かつて美紀がいた港町よりもさらに荒廃した、北九州の工業地帯にある古い公営住宅だった。

煤煙で空が常に霞み、夜になれば工場の火が不気味なオレンジ色に燃える街。
 智也は日雇いの解体作業で日銭を稼ぎ、美紀は場末のスナックで、紫煙に巻かれながら客の相手をした。かつての「美紀さん」という清潔な呼び名は消え、彼女は「ミキ」という、記号のような名で呼ばれるようになった。
 毎夜、智也は仕事から戻ると、泥にまみれた身体のまま美紀を求めた。
 狭い、換気扇の壊れた部屋。そこには一年前の港町と同じ、排泄物と汗と、救いのない快楽の匂いが充満していた。
 けれど、その二人の生活に、さらなる「歪み」が加わる。

第三章:和馬の執着、あるいは影の帰還

スナックの閉店間際。カウンターの隅で、一杯のウイスキーを何時間もかけて舐めるように飲んでいる男がいた。
 かつて病棟で「癒やし」を求めていた、あの和馬だった。
 彼はあの日以来、美紀への執着をこじらせ、社会的地位も、築き上げた家庭もすべて捨てて彼女を追ってきたのだ。その頬はこけ、目は異様な光を放っている。

「美紀さん、……やっと見つけた。君がいないと、私の世界は無菌すぎて死んでしまうんだ」
 和馬の声は、震えるほどに湿っていた。
 智也が美紀を「汚す」ことで生を実感させる男なら、和馬は美紀を「崇める」ことで自らの壊れた魂を繋ぎ止めようとする男だった。

美紀は、その二人の男を拒絶することはなかった。
 彼女は、智也が住むあの湿った部屋に、和馬を招き入れた。
「三人で、暮らせばいいじゃない。私たち、もうどこにも行けないんだから」

第四章:聴診器の三連律、至福の地獄

狭い公営住宅の一室。
 美紀は、大切に隠し持っていた、あの錆びついた聴診器を取り出した。
 智也は美紀の腰を掴んで背後から蹂躙し、和馬は美紀の足元に跪いて、彼女の指先を一つずつ愛おしむように舐める。
 美紀は、自分の耳に聴診器のイヤーピースを押し当てた。

右の耳に、智也の荒々しく、明日をもしれぬ絶望的な脈動。
 左の耳に、和馬の、繊細で、いまにも途切れてしまいそうな臆病な鼓動。
 二人の男の心音が、美紀の脳内で混ざり合い、複雑で汚らわしい不協和音を奏でる。
 それは、かつて病棟で聴いていたどの「正しい音」よりも、美紀を激しく、甘く震わせた。

「ああ……聴こえる。二人の音が、私の中で一つになってる……」
 美紀は、智也の暴力的な熱と、和馬の這いつくばるような熱を、同時にその身体に受け入れた。
 ナース服を破られ、黒いショーツもボロボロになった彼女の肉体は、今や二人の男の欲望を受け止めるための、ただの「器」へと成り下がっていた。
 けれど、その器こそが、美紀がずっと求めていた「本当の自分」だった。

第五章:不協和音の終焉、あるいは永遠の汚泥

三人の生活は、長くは続かなかった。
 あるいは、その果てに何が起きたのかを正確に語れる者はいない。
 ただ、冬の朝、その一室がもぬけの殻になっていたとき、そこには形容しがたい惨状が残されていたという。

床には、かつての自分との決別を告げるように、ズタズタに切り裂かれたラベンダー色のナース服。
 壁には、誰の血か、あるいは精液か、黒ずんだ汚れが聴診器のコードのような奇妙な模様を描いていた。
 そして、部屋の中央には、美紀が肌身離さず持っていた聴診器が、金属の光を失い、冷たく転がっていた。

美紀たちは、街を捨てた。
 かつての港町の、廃墟となった診療所に三人が住み着いているという噂がある。
 潮風にさらされ、建物のすべてが錆びついていく中で、三人は今も、互いの肉体を貪り、互いの鼓動を聴き合っている。
 そこには「正しい看護」も「清廉な白衣」も「社会のルール」も存在しない。
 あるのは、ただ、汚濁の中にしか見出せない、剥き出しの「生」の震えだけだ。

悲しい物語が描く、壊れた者たちだけが辿り着ける、暗く、熱い救済の地平。
 美紀は、その汚泥の底で、初めて本当の安らぎを得た。
 耳の奥には、今もあの聴診器が拾った、二人の男が奏でる「最悪で最高のメロディ」が響き続けている。
 彼女はもう、二度と、ラベンダー色の空を見上げることはない。
 ただ、暗い海の底のような、紺青の闇の中で、永遠に、その汚濁を愛し続けるのだ。
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