ムーンラビット:月なき夜のスラム街にて

美風慶伍

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6:竈の日 ―子どもたちと旧正月―

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 そして――旧正月の日が訪れた。

 暦で言う太陰暦――月の満ち欠けを基準にした暦であり、アジア圏において広く使われている暦である。
 西洋による太陽暦が世界の標準になった今日でも、宗教行事や日常行事には太陰暦を重用する人々は少なくない。それが中華系の民族の人々であればなおさらである。
 この洋上スラムの街の東京アバディーンでも、中華系の人種の人々が住まう場所では太陰暦による旧暦は今なお用いられていた。当然、旧暦の正月――すなわち旧正月は中華系の彼らにとって大切な行事だったのだ。
 旧正月は別名を春節とも呼ぶ。
 太陽暦の正月よりも重要視され、華やかに催し物が開かれる事も少なくない。鮮やかな正月飾りが飾られ、爆竹が鳴らされ、家族や同胞で集まり和やかに時を過ごすのだ。
 
 その年の春節の時も台湾系の人々はハイヘイズの子らを招いていた。例年なら春節の最後の日にハイヘイズの子らを招いてささやかに食事をもてなすのが通例だったのだが、その年は様相が違っていた。
 春節の始まりの日である祭竈の日の大掃除に始まり、9日間を通じてハイヘイズの子らを招いて町中のとある空き家にて寝起きさせたのだ。今までにない厚遇であった。
 
 本来ならハイヘイズの子供らに積極的に関わろうとする者たちは少ない。混血であること、無戸籍であること、その出自にまつわり厄介な事情を抱えている事、障害やハンデキャップを持っているケースがある事などから、面倒を避けて忌避される傾向にあったのだ。
 だが、ハイヘイズの子らの所に現れた一人の女性がその暗い雰囲気と習慣を打ち払ってしまう。
 一人のアイルランド系の容貌の若い女性が、ハイヘイズの子らと一緒に寝起きして世話を始めたのである。
 当然、周囲の人々は警戒した。その素性を勘ぐる者も居た。
 
――なにか意図があるのでは?――
――どこからか逃亡してきたのでは?――

 いわばハイヘイズの子らを隠れ蓑にしているのでは? と人々は疑ったのだ。
 だが、それもすぐに否定される。
 
 夜明け前から起きて廃ビルの周囲を掃除し子供の世話の準備を行い――
 日中は幼子たちの子守――
 乏しい物資や蓄えから食事をまかない――
 夜は夜で外で働いている年長の男たちの帰りを迎える――
 ぐずる子供らを寝かせると――
 夜更けには毎夜のように、不安を訴える子をなだめたり、幻影痛に苦しむ子をいたわったり――
 夜を徹して赤子を抱いて子守をしている姿も見られた。 
 彼女は、昼も夜もなく身を粉にして子どもたちの世話をしていたのだ。
 
 そうした彼女の存在は噂にのってまたたく間に人々の間へと広まってゆく。
 
 縋るべき胸すら無い孤児たちの前に現れた異邦人――
 人並み外れた美しさもさることながら、彼女たちが子どもたちに向ける眼差しに町の人々は口さがなく噂しあった。
 
――あれは〝母親〟の眼だ――

 慈しみ守る者の眼――、なぜそのような人物がハイヘイズの子らのところへと現れたのか? 多くの人々が疑問を抱いた。
 訝しげな視線が投げられていたが、それとは裏腹に彼女へとアプローチを試みる者も居た。
 警戒心から、好奇心から、興味から、そして、善意から――
 視線は言葉となり、言葉はコミュニケーションとなる。
 そして人々は知る。彼女の名が〝ローラ〟と言う事に――
 
 ハイヘイズの子どもたちはローラをこう呼んでいた。
 
――ローラママ――

 名実ともに子供らにとって、その正体不明のローラと言う年長の少女は〝母親〟だったのである。
 
 子を守り育てようとする者を敵視する奴はまず居ない。
 ましてや一人だけで多くの子らに救いの手を差し伸べようとしているのならなおさらである。
 少しづつ人々が歩み寄ってきた。
 声をかけてきた、
 食を施す者が居た、
 病に苦しむ子が居たら薬をもたらす者も居た、
 暮らしが少しでも楽になるようにと、不要となった家財道具や物資や古着を持ち寄る者も現れた。
 
 決してハイヘイズの子らの存在が認められたわけではない。生き残る事が楽になったわけではない。
 ただ、救いの手が差し伸べられる様になったのだ。
 そのローラと言う少女の存在をきっかけとして――
 
 今や、近隣に住む者たちの誰もがローラの存在を知っていたのである。
 台湾人街の人々の善意の変化も、そうしたローラの存在に触発されて起こった事だったのだ。 
 
 彼女の名は『ローラママ』
 ハイヘイズの子らの、誰もが認める養母である。
  
 
 @     @     @
 
 
 そもそもの発端はこうだった――
 旧正月の数日間の初日に〝竈の日〟と呼ばれる日がある。日本で言う大晦日前の大掃除である。その手伝いとしてハイヘイズの子らをまねこうと台湾人街の長老格の人々が言い出したのだ。当然、手伝いを終えたら旧正月が終わるまで長逗留させてもいいとなった。当然、反対するものは誰も居ない。
 ローラが現れて以降、台湾人街の人々とハイヘイズの子らとの交流はより深いものになっていた。それ故の出来事だったのだ。
 それは、子供らにとっても生まれて初めての体験だった。
 単に施しを受けるだけでなく、自ら体を動かし働き、町の人々に混じって何らかの役目を果たす――
 そして、その見返りとして報酬として多くのものを得る。人が人として集団の中で生きていく上でとても大切な価値観だった。
 この旧正月の数日間で子供らはそれを学んだのだ。

 宿として使わせてもらった空き家の中を片付け、簡単に掃除を済ませるとラフマニやローラやオジーと言った年長格は町の人々や長老格の老人たちに挨拶を済ませる。ジーナとアンジェリカは子どもたちを引率する役割だ。ラフマニたちが挨拶をしている間、世話になった街の婦人たちにもお礼の挨拶をしている。
 
「またおいで」
「はい!」

 小柄な老婆とベトナム系の混血の子が言葉をかわしていると思えば、

「元気でね」
「うん、阿姨アーイもね」

 アフリカ系と中華系の混血の子と、でっぷりと太った老婦人が握手を交わしている。老婦人が教えたのだろう。台湾語で『おばさん、おばさま』の意味の〝阿姨〟と言う呼び方が使われていた。
 そこかしこでこうした光景が見られる中、街の長老格の代表である李大夫が姿を表した。その傍らにはラフマニたちが佇んでいたのだ。
 
「李さん、本当にありがとうございました」
「子どもたちもいい思い出になったと思います」

 ラフマニとオジーがそう礼を述べれば、李大夫も相好を崩して笑みを浮かべながら満足気に答えていた。
 
「いやいや、礼には及ばんよ。我々も今までが冷淡すぎたのだ。これからはあの子らに何がしてやれるのか、一緒に考えて行こうではないか。のう? ラフマニ、ローラさんや、」

 李大夫がそう答えながら、ラフマニの傍らに立つローラにも声を投げかけた。白い木綿の長袖のワンピースドレスと灰色のロングショールを肩にかけたローラは、その胸に1歳程度の赤子を抱えていた。ぐずりがちで疳の虫が強いために目が離せない子なのだが、ローラはその子を手慣れた手付きで両手で抱きかかえると巧みにあやしている。

「はい、私もできる限りのことをしていきたいと思います」

 赤子はローラをすっかり信頼しきっているのか寝息を立てている。不安を感じて身を捩るような素振りもない。そんなローラの姿に感心するかのように声をかけてきたのが、飲食店を営む美形の中年女性の楊夫人である。この界隈の女性たちのまとめ役である。
 
「でも、無理しすぎないようにね。手数が足りなければいつでも言っておいで」
「はい、苦戦しそうなときはぜひお願いします」

 楊夫人の言葉にローラははにかみながら冗談めかして答えていた。楊夫人も笑い声で返していてすっかり和んだ雰囲気である。だが楊夫人はかすかにため息を付きながら不安げにもう一つの思いを吐露していた。

「それにしても――」

 そう漏らす彼女の視線はハイヘイズの子らに向けられている。
 
「――まさかこんなに手のかかる子たちがこれほど居たなんて思わなかったよ。これを全部アンタが面倒見てたんだねぇ」

 それは同情というよりも、労苦の全てを一身に一人で背負っているローラへの贖罪の気持ちもにじみ出ていた。そして楊夫人自身も妙齢の女性であるが故に、この沢山の子らの相手をするということがどう言うことなのか、我が事のようにわかるのだ。
 
「あの子だね? 幻影痛の発作持ちって」

 楊夫人の視線の先には一人の幼女が佇んでいた。スラブ系とブラジル系の混血でエリカと言う。不幸な事故で右足を膝の少し上のあたりから失っている。普段は小児用の簡易義足を付けて何気なく暮らしているが唐突に幻影痛発作を起こす。この数日間でも2度ほど発作を起こした。そのたびにローラはその子を抱き寄せなだめると、発作が止み、痛みが引くまでの1時間から数時間の間、ずっと抱きかかえ続けるのだ。
 手慣れたように苦もなく振る舞うローラだったが、2~3歳の子供を片腕で抱いて、そのまま他の子の世話を続けるのだ。タフネスと言うよりも何が彼女をそこまでさせるのか? その姿を目の当たりにした人々は一様に驚く以外にない。
 楊夫人の言葉にローラは頷きながら答える。
 
「はい――、なんとか痛みの発作だけでも止めてあげたいんですけど」
「痛み止めの薬すら効果がないんだってね」
「えぇ、今のところはなだめて落ち着かせる以外に方法がないんです。シェンさんの話だともう少し分別のつく歳になれば、痛みを緩和する方法を本人に学ばせられるそうですが――」

 シェン――神雷シェン レイの事だ。『神の雷』の異名を持つ東アジア最強の電脳犯罪者である。そして、ハイヘイズの子らの実質的な後見人でもある。

「それまではあなたが面倒を見るしか無いわけだね」
「そうですね。でも、それが私の役目だと思っていますから苦にもなりません」
「そうかい。でもね――」

 そう告げながら、楊はローラの両手をそっと握りしめがならこう告げたのだ。
 
「――絶対に無理はしないようにね? アンタの代わりは誰も居ないんだからさ」

 それはある意味真実だった。決して、突き放した意味の言葉ではない。ローラがハイヘイズの子らの母親として担っているものがあまりに大きすぎるがゆえに、誰も肩代わりできないのだ。ローラに万が一の事があれば、子供らの安寧と平穏はまた危うくなってしまうのである。
 その言葉の意味を噛み締めながら、ローラは楊夫人の言葉にはっきりとうなずく。
 
「はい、ありがとうございます」
「何かあったらいつでも言っとくれ。これもなにかの縁だからさ」

 子どもたちとローラの事を労る様に楊夫人は告げる。ローラもそれに感謝するかのように頷いていたのである。
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