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第2章エクスプレス サイドB①魔窟の洋上楼閣都市/洋上スラム編

Part8 母親/――絆――

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「ママ!」

 声がする。

「ローラママ!」

 たくさんの声がする。
 
「がんばれ!!」

 甲高いよく通る声が無数に響き渡っていた。
 
「負けるな!」

 子どもたちの姿が見える。あの廃ビルの屋根の下で、あの聖夜の日からともに暮らしてきた子どもたちの姿があった。恐れず、怖がらず、その顔を、姿を覗かせて、思い思いの言葉で叫んでいた。

「ママ! がんばれ!」

 それは好意である。思慕の念である。
 あのクリスマスの夜にやってきた不思議な人。戸惑い何度もつまづきながらも、自分たちに向き合ってくれた人。底なしの思いで、あらん限りの力を注いでくれる人。親との絆を無くした不運な子どもたちの前に現れて『ママ』の名を名乗った人。『母親』になってくれた人。『おかあさん』の意味を教えてくれた人。
 子どもたちは恐れていなかった、人ならざる力で戦う姿を見せたローラを拒絶せず、子どもたちはすべてを受け入れ、そして、お互いを求め、お互いを認める力は〝絆〟となる。
 
「あなたたち――?」

 ローラは背後からかけられた声に、背後から向けられた視線に、少し驚き、そして心から大きな感謝を抱かずには居られなかった。涙があふれる。心の底から涙があふれてくる。汲めども尽きぬのは歓びの涙。ローラは今、子どもたちとの間に結ばれた強固な絆の糸の存在を自覚せずには居られなかった。この絆の糸を断ち切らせてはならなかった。失ってはいけなかった。
 そのためには何をなせばいいのだろう? 何をしなければいけないのだろう?
 
「勝たなきゃ――」

 ポツリと言葉を漏らしながら唇を噛みしめる。そしてハイヘイズの子供らに向けて大きく力強く頷き返す。
 その頷きの仕草は何者よりも強いメッセージを携えて子どもたちへと伝わっていた。
 それは確信である。決意である。契約である。
 かならずこの狂える鋼の拳魔に打ち勝ち、子どもたちを、その子供らとともに暮らすこの場所を守るという何者よりも強い決意であった。その決意を秘めてローラが頷いて見せれば、子どもたちは安堵の表情で沈黙し始める。そして、ローラは愛する子どもたちに向けて大きく告げたのだ。
 
「みんな隠れていなさい! 危ないから出てきては駄目よ!! さぁ早く!!」

 その言葉は強い力を孕んで子どもたちへと伝わっていた。叱るような口調の中に込められた、子を思う母の思いは、たしかに子どもたちの耳と胸に伝わっていたのだ。母たるローラのからの言葉に頷くとハイヘイズの子らは廃ビルの中へと戻っていく。
 その子供らを守るようにして廃ビルの中へと、ジーナとアンジェリカが戻ろうとする。その二人にもローラはメッセージを送った。
 
「あなたたち――」

 ジーナとアンジェリカが振り向く。ローラは間を置かずに二人に告げる。
 
「子どもたちをお願いね」

 ローラの告げる言葉に二人ははっきりと頷き返していた。ローラが子供らから離れて戦わねばならない今、その子供らを一つにまとめて守るのはジーナたち二人の役目であるのだ。
 そしてジーナが大きな声でローラに告げた。

「御武運をお祈りします!」

 その言葉を残して彼らは安全な場所へと身を隠していく。あとに残されたのはローラとオジー、そしてラフマニである。
 ラフマニはベルトコーネが吹き飛ばされた隙をついてローラの下へと駆け寄ってきていた。ローラのすぐそばに立ち声をかけてくる。

「すまねぇ。遅れた」
「ラフマニ?」

 ラフマニは告げるのと同時に、ローラの胸に抱かれていたカチュアの身体に手を触れる。

「ラフマニ、カチュアが――」
「ああわかってる。ちょっと待ってろ」

 不安を隠さずに蒼白の表情で話すローラを窘めながら、ラフマニはカチュアの右手の手首を探すと脈をとるように指を触れる。その仕草の意味をローラはすぐに理解する。

「どう?」
「少し弱いけど――まだ心臓は動いてるみたいだ。まだ、死んじゃいねぇ」
「ほんとう?!」
「あぁ、安心しろ。まだ神様も見捨てちゃ居ないみたいだ」
「良かった――」

 思わぬ吉報にローラから涙とともに安堵の声が漏れた。だがラフマニから返ってきた言葉には安心感は無かった。

「安心するのはまだ早え。頭を強く打たれてるだろ? 前に兄貴から聞いたんだが、こういう時はやたらと動かしちゃだめなんだ。頭の中身がどうなってるかわからねぇ。迂闊に動かして状態を悪くすることもあるんだ」
「そんな――」
「それより急いで医者に見せねえと――、いやそれより応急処置しねえと」

 ラフマニはローラへと両手を差し出していた。ローラはその仕草の意味を察すると、自分の左手だけで抱えていたカチュアを、ラフマニの両腕にそっと静かにその小さな体を預けていく。
 
「兄貴に連絡は打ってある。こう言う時はすぐに来てくれるはずだ。それまで俺達がカチュアを預かる」
「お願い、必ず助けてあげて」
「あぁ、もちろんだ」 
 
 すると二人にオジーが声をかけてくる。
 
「ローラ! ラフマニ!」
「オジー?」
「取りあえず適当にかき集めてきた」

 彼の手には包帯を始めとして、タオルやバスタオル、救急用のサージカルテープなどが底の浅いダンボールの箱に詰められて持参されていた。
 
「何が必要なのかよくわかんねぇから本当に適当だ」
「それでもいい。なにより急いで頭の出血止めねえと。とりあえずタオルで頭を包もう。オジー、手伝ってくれ」
「わかった。静かに向こうに運ぼう」

 そんな会話をしながら二人は傷ついたカチュアをそっと静かに運び始めた。彼らの足にも及ばない小さな体の幼女が鋼の拳で殴打されたのだ。それがどんな結末をもたらすかは容易に想像できていた。そんなカチュアを助けようと懸命になる二人にローラが告げる。

「カチュアはお願いね」
「あぁ、まかせろ」

 ローラのその言葉にはある種の辛さが滲んでいた。この危険な状況下に在りながらも、まだ襲撃者たるベルトコーネは完全に沈黙したとの確証はない。再び奴が立ち上がった時、立ち向かえるのは現状ではローラただ一人しか居ない。その悲壮な現実を受け入れながらローラはラフマニに告げる。
 
「ここは引き受けたわ」

 その言葉を耳にしてラフマニは忸怩たる思いを抱かずには居られなかった。ラフマニは男である。そして、このハイヘイズの子らが暮らす家のリーダーである。家長である。その彼が自ら戦いの矢面に立てない。女性であるローラにすべてを委ねるしか無い。己の力の無さに対して屈辱を感じながらもそれを胸の奥に押し込みながらラフマニは答えていた。
 
「あぁ、まかせろ」

 ラフマニが頷き、ローラもそれに頷き返した。
 そして、ちょうどその時、事態は新たな段階へと動き始めていた。
 
「あっ!」

 オジーの声が漏れる。
 
「アイツ、まだ動けるのかよ!」

 ラフマニが焦りの声をだす。ローラは彼らに対して告げた。
 
「急いでここから離れて。ここは私が食い止めるわ」
「わかった。怪我すんなよ」

 それはラフマニがローラに対して残せる精一杯の気遣いだった。その言葉に秘められた優しさを受け止めながら、ローラは二人とカチュアを見送った。そして、ローラは再び立ち上がった異形の主に対して視線を向けると一瞬、自分の胸元を強く握りしめる。
 
「これが最後になるかもしれない」

 誰にも聞かれないようにして静かに呟く。
 
「アイツは誰にも倒せない」

 ローラは知っていた。ベルトコーネの非常識なまでの強さを。災厄と呼ばれるにふさわしいその恐ろしさを。かつては仲間として世界中をともに飛び回っていたのだ。どれだけの攻撃を持ってしても容易には止まらない厄介さは骨身にしみて知っているのだ。
 
「それでも――」

 ローラは静かに歩き始める。その左手にはもうカチュアは抱かれていない。フリーになった両手に残されているのは、愛する仲間と子どもたちを守るための最後の力であった。
 
「やるしかない」
 
 そして、ローラは自らの体内に意識を向ける。彼女に与えられた唯一の特別な力である『光』の残りを確かめていく。
 
【 オプティカルプレッシャーエフェクター  】
【 有効光子圧力・残存係数 15%     】

 それは決して満足の行くものではない。それに加えて気がかりなこともあった。

【 エラーメッセージ>           】
【 有効光子圧力・回復効率低下中      】
【 システムリカバリーシークエンス     】
【   自動ベリファイ実行中、同エラー発生 】

 〝光〟が回復しない。子どもたちを守り戦うために必要なレベルにまで戻ってくれない。今までの無理がたたっているのは明らかだ。昼夜を問わず命を削るようにして子どもたちを守ろうとしてきた事への皮肉過ぎる代償だった。
 ローラはそれらの不利過ぎる現状を誰にも明かさず飲み込みながら、悲壮なまでに自らの全てを挺してベルトコーネに立ちはだかるつもりであった。
 今、彼女の視界の中、あの悪魔が全身から白煙を立ち上らせながらゆっくりと起き上がってくる。そしてその表情には明確な敵意と怒りが浮かんでいるのが解った。敵わないかもしれない、打ち倒されるかもしれない。だがそれでも――
 
【 最重要プログラム封印解除        】
【 ――光子器官・暴走制御シークエンス―― 】
【                     】
【 光量子質量変換ロジックスタンバイ    】
【 モード種別《自爆モード》        】
【 トリガースタンバイ《スタート》     】

 己のすべてを懸けてでもローラは戦う覚悟だった。
 彼女の名はローラ。己の過去を悔い改め、見捨てられ打ち捨てられた子どもたちのために己の全てをかけて守ろうとする者。そして――
 
「大丈夫――〝ママ〟が必ず守るからね」

――子どもたちの母親である。
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