刺繍に願いをこめて

蒼井 蛍

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刺繍に願いをこめて

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 先生は母親だった。勉強を教えてくれたのも、結衣ゆいにとって大切なものである刺繍を教えてくれたのも。その母親が姿を消した。
 昨日までは普通だったのに、今日になって突然だ。
 目が覚めると、家に母親はいなかった。
 お風呂場もトイレも寝室も部屋の至る所を探したが見つからなかった。
 一体どこにいってしまったのだろう。
 仕方がない。帰ってくるまで、刺繍をしよう。
 私には刺繍しかないのだから。


 幼い頃から、不器用で何をしても上手くいかなかった。
 ピアニカをひいてもメロディにならず、塗り絵をしても、線から大きくはみ出してしまう。
 そんな結衣が唯一上手く出来たのが刺繍だった。
 母親は得意ではない刺繍を手に針を刺しながら一生懸命教えてくれた。
 教わったその日から何故か上手く出来た刺繍に結衣は嬉しくなって、寝る間も惜しんで刺繍を続けた。
 結衣が小学校に上がる頃、母親は学校には行かなくて良いと言った。
 だから結衣は学校には行かず、家で刺繍をしていた。
 それほど結衣は刺繍にのめり込んでいて、勉強に全く興味を持てなかった。
 結衣は自分の中の世界を表現したくて、たくさん刺繍をした。
 家には結衣の刺繍が溢れていた。
 そういえば、あれはどこだろう。
 茶色い糸で刺繍した鹿と、その隣に凛と立っている少女の刺繍。
 結衣は今始めようとしていた刺繍の道具を置いて家の中を探し始めた。
 あれは特に気に入っている刺繍だ。
 私の憧れを詰め込んだ、特別な刺繍。
 結衣はタンスの中を探した。
 見つけた。
 タンスの中できちんと折り畳まれた刺繍が。
 しかし、黒かった。
 どこを見ても、布は真っ黒で刺繍も、ほとんどわからなかった。
 どうして真っ黒なんだろう。
 ふと、顔を上げると、部屋の中にあるもの全てが真っ黒だった。
 さっきまで全く気づかなかった。
 心の中がざわつく。
 恐怖と寂しさが押し寄せてきて涙が瞳から溢れた。
「ママぁ、どこいっちゃったのぉママぁ」
 結衣は泣きながら、真っ黒な刺繍を抱きしめた。
 ひとしきり泣いても母親は帰って来なかった。
 涙を拭い、嗚咽を漏らしながら結衣は刺繍をする時にいつも座っている定位置に座り込んだ。
 刺繍をしよう。
 結衣は刺繍枠に真っ黒な布を張って、玉結びをした。
 外部の情報をシャットアウトした。
 黒い部屋も母親がいないことも、全てを頭の中から追いやる。
 今の願いを刺繍にしていく。


 あとひと針で終わる。
 結衣は刺繍に願いを込めた。
 ママに会わせて。
 刺繍が完成した。
 小さな少女と、その母親が手を繋いで笑っている刺繍だ。
 糸も黒いから模様はよくわからないけど、触るとわかる。
 完成した途端、刺繍がキラキラと輝いて、炭のように黒かった布や糸から黒が抜けていく。
 思った通りの色に変わっていた。
 あっ、と思った瞬間結衣は気絶した。


 見慣れない真っ白な天井が見える。
 目が覚めると、知らない空間があった。
「結衣? 結衣!」
 聞き慣れた声が聞こえた。
 声の方に顔を向けると、そこには母親がいた。
「ママ?」
 呼びかけた途端、母親が涙を流して、結衣に飛びついてきた。
「結衣~」
 母親の温もりを感じる。
 その途端、涙が溢れてきた。
 やっと、やっと会えた。
「ママ~」


 結衣は火事を起こしたのだそうだ。母親はその時出かけていて、帰ってきたら家が燃えていた。中に取り残された結衣は、病院に運ばれたが一週間目が覚めなかった。
 母親から聞いた話に少しずつ記憶が追いついてくる。
 そうだ、あの時私は怖くてどうしたら良いか分からなくて、ただ泣きながらママの帰りを待ってたんだ。
 そして、気がついたらあの真っ黒な部屋にいた。
 もしかしたらあの部屋で私が諦めていたら、ママに会いたいと願っていなかったら、帰って来れなかったのかもしれない。
 この世界に。
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