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第一部 はじまりの物語

第三十四章 星月夜

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 ソロモンが天幕の中でひとり、レイヴァンの帰りを待っていると外からギルの声が聞こえてきた。

「入っても良いか」

「ああ」

 返事で答えるとギルが中へ入ってくる。それからソロモンに促されるままに腰を下ろすと、口を開いた。

「少し考えたのだが、“あの集団”を覚えているか」

 “あの集団”が何であるかソロモンは、とっさにはわからなかったために考え込んだ。けれど、すぐに行き着くと小さく頷いた。

「あの宗教集団か」

 こくりと頷いてギルは口を開いた。

「幼い少女を誘拐しては妙なクスリを投与していた宗教だ。確かあいつらは、初代女王の再来を望んでいたんだよな」

「そうだ。けれど、彼らは断罪されたはずだ」

「でも、もしかしたら断罪されていない仲間が居た可能性もあるんじゃないのか。それに姫様がもし『我らが王』だと知られれば」

「あいつらからすれば姫様は、いい隠れ蓑になるかも知れんな。姫様を我らが待ち望んだ主だと拝めたて、裏では」

 犯罪を繰り返す、とソロモンは言葉を紡いだ。ギルはどこかいたたまれない表情でじっと虚空を見つめていた。そんなギルにソロモンは、“あの宗教団体”は表向きは初代女王を神と崇め処女を神聖なものとしていた。けれど、裏では洗礼と偽って女性を宗教に引き入れては強姦していたのだ。今はその宗教団体はなくなっているはずではあるが、もしかするとまだ残っているかも知れないと言葉を紡いだ。

「いくら罪を重くしようとも犯罪者には関係ない。犯罪者は自分がどんな罪に問われるかどうかではなく、見つかるかどうかに関心があるのだから」

 重々しい口調でソロモンが告げた。黙っていたギルは悲しげに目を伏せると表情を硬くする。

「もしそいつらが姫様を探していたら」

「いや、もし姫様を探すとしたら別の組織だ」

 思わずギルはオウム返しに呟く。それを聞いてソロモンは小さく頷いて見せた。

「初代女王陛下の再来を望んでいて、オーガスト陛下から断罪された組織」

 呟いていたギルがハッとしてソロモンの顔を見上げた。

「まさか、“ティマイオス”」

 こくり、とソロモンは頷いた。ティマイオス、それはある哲学者が著した書の名であるがそこからとってティマイオスと名乗った組織があったのだ。 その組織はティマイオスの中で語られている伝説の大陸、“アトランティス”を研究していた組織であった。けれど、それだけでなくアトランティスをおさめていた王、アトラス王の恋人とされたベスビアナイト国の初代女王についても研究していた。

「初代女王がいったい、何者であるか現在でも分からないことが多い。けれど、守人たちの話を信ずるならば初代女王はまた現れる。そこでティマイオスの連中はこう考えた。初代女王がまた現れたとき、その人間を研究する」

 つまりは“人体実験を行う”ということだろう。それを聞けばギルは、瞳の奥に怒りを宿していた。

「もしかすると、国王陛下が姫様に甘かったのはそれがあったからかもしれない。それに姫様を男として育てることにしたのもそれが理由かも知れない」

 本当のところはわからないが、とソロモンは言葉を紡いだ。ギルは、ただ悩ましげにしているだけでそれ以上は何も言えなかった。そのとき、テントの出入り口が開いてレイヴァンが入ってきた。

「珍しいな。ギルがここにいるなんて」

 不思議そうなレイヴァンの視線を受けてギルはいつも通りのおどけた調子で「何でもないよ」と答えるとおやすみだけを告げて天幕(テント)を出た。それから、少し歩いて空を見上げると月夜のように明るく星々が地上を照らしていた。

(今夜は星月夜か)

 ギルがそう思ってじっと夜空を眺めていると、こちらの様子に気づいたクレアが駆け寄ってきた。

「ギル、何してるの」

「ああ、クレア。すこぉし、ソロモンに話したいことがあってね」

 ふうんとだけ答えるとクレアは、小首を傾げたものの詳しい事情を聞こうとはせずにただギルが寒くないようにと毛布(ブランケット)を掛けてやった。するとギルはくすりと笑ってみせる。

「そこまで気を遣わなくてもいいのに」

「何言ってんの。風邪でもひいたらどうするの」

 まるで母親のようなことを言うクレアがどこか愛おしく思い、ギルはクレアの髪を優しく撫でる。刹那にクレアはギルから視線を外して頬を真っ赤に染めた。拗ねたようにクレアは、唇の先を尖らしてギルと視線を合わせない。それを見て小さく笑うと空へ視線を戻した。

「きれいな星月夜だ。なあ、クレア。『我らが王』とは何だろうな」

 クレアがギルの方を向き直って答える。

「そんなの、決まっているわ。仕えるべき主よ」

 はっきりと言い切ったクレアにギルは、少しだけ悪戯心を覚えるとずいと顔を近づけた。クレアの体が思わず強ばる。

「本当に? 本当にそれだけ?」

「な、何が言いたいのよ」

 ギルは小さく息を吐き出すとクレアから距離を取った。

「俺たち守人は、確かに仕えるべき主である姫様に仕えている。けれど、姫様にはそれだけではない魅力がある」

 ギルの言葉にクレアも感じていたことなのか、小さく頷いて見せた。ギルを見つめ返すクレアの視線は真剣そのものであった。

「確かに、『我らが王』ということも抜きにして姫様に仕えたいと思う自分がいるわ」

 同じ事を感じていたと思えばギルは、少し嬉しそうに微笑んだ。それを見てクレアは思わず頬を赤く染めて慌ててギルから視線を外す。ギルは柔らかい表情を浮かべたまま星月夜の空をまた見上げた。

「正直言って、分からないことの方が多い。けれど、この目に映るあのお姫様は守らないといけないと思ってしまう。それは守人であるがゆえんなのか、それとも――」

 自分がそう思うからなのか、とギルが言葉を紡げばクレアは考えるように顔をうつむかせる。それを眺めつつギルは後者であれば良いと思ってしまう。強制されたものではなく、心から仕えたいと思う主。自分がマリアに仕えている理由の一番がそれであればいいと思った。

「姫様は私が仕えたいと思うから仕えている、それが答えではいけないの?」

 クレアも同じ答えに達したのを聞いてギルは、少し安堵した。それから、そっとクレアの肩を抱き寄せる。クレアは驚いたように目を瞬かせたけれど、何も言わずギルの体に少しだけ寄りかかった。



 マリアがレイヴァンと別れた後も寝付くことが出来ず、天幕(テント)の外へ出て空を見上げていれば、マリアにベルベッティーンの上着をエリスがかける。

「体が冷えてしまわれますよ」

「うん、ありがとう」

 マリアはエリスに答えた。すると、辺りは静寂に包まれる。どちらも何かをしゃべろうと考えを巡らせるものの結局、何を話せばいいのか分からなくて口を閉ざしていた。しかし、エリスがふと口を開いた。

『あの街に行くのかい?
 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム
 そこに住むあの人によろしく言っておくれ
 彼女はかつて恋人だったから』

 前にギルが歌ってくれた歌だった。

「その歌は――」

「守人であれば誰もが知っている歌です。いつも、この歌は聞こえてくるのです」

 そうなのか、とマリアは驚いたように目を見開く。エリスはこくりと頷いて言葉を紡ぎ出した。

「これは僕なりの解釈ですが聞いてもらえますか?」

 マリアがこくんと頷いて先を促せばエリスは、柔らかい表情を浮かべて紐解くように言葉を紡いだ。
 歌詞の中で何度も繰り返される「パセリ、セージ、ローズマリーにタイム」は、すべてハーブの名前。またそれにはそれぞれ意味がある。まずパセリは消化を助け苦みを消すと言われている。セージは何千年もの耐久力の象徴。ローズマリーは貞節・愛・思い出を指し、タイムは度胸の象徴である。

「ここからわかるのは、苦難を消し去ってほしいという願いと何千年と時が経っても変わらぬ思い……でしょうか」

「確かにそうもとれるな。でも、驚きだな。ハーブにそんな意味があったなんて」

「はい。この歌はそのまま聞いても意味の分からない歌詞なんです。けれど、その本質を見極めたとき、本当の意味が分かると僕は思うんです」

 マリアも頷いて見せて同意を示した。それから素敵な歌詞だなと呟けば、エリスは柔らかく微笑んで主の手を取り跪く。

「そして、タイム。これは昔、戦に行く戦士が身につけていたそうです。愛する人を守るため、戦場へと向かう戦士。僕はあなたの戦士でありたい」

 わずかにマリアが息を飲んでエリスを見つめた。

「あなたの騎士がレイヴァン様であるならば、僕はあなたの戦士でありたいのです」

 マリアは涙をぽたりぽたりと零す。零れた涙は冷たい地面に吸い込まれていく。

「ありがとう、エリス!」

 もうエリスの覚悟を誰にも覆すことが出来ないことをマリアは悟った。それと同時に何も出来ない自分を呪った。エリスがここまでしてくれるのに自分は何も返せない。今まで散々感じてきたことであるはずなのに、更に重くのしかかる。

「エリスだって、わたしの騎士だよ。いや、正騎士だ」

 マリアは笑顔で告げた。今度はエリスが目を見開いて「はい」と力強く頷いて見せた。うっすらのその瞳には涙が浮かんでいる。強い覚悟がエリスの中で産まれた。
 少し遠くから、レジーが二人の様子を眺めている。 ただ何も言わずじっとしているその様はどこか不気味であったがレジー自身は、マリアの様子が気になっていたから伺っているだけに過ぎなかった。けれど、マリアを見つめるその目は憂いを帯びており、もの悲しそうな雰囲気である。そんなレジーにドミニクは近寄ると問いかけた。

「お前はなぜ王子に仕えることにしたのだ。やはり、王族だからか」

 ドミニクの言葉にレジーは、不愉快そうに眉根を寄せる。

「違う。王族かどうかなんて関係ない。オレは王子自身に仕えている」

 レジーの答えが意外であったのか、ドミニクは目を見開いて言葉を失っていた。その表情を引き締めると何かを考えるように眉を潜めた。

「どうして、そこまで」

 尽くすのだ、と紡がれるはずの言葉は口からは出なかった。レジーの纏う空気がドミニクの口を塞いだのだ。
 息を飲んだドミニクは、なにも言えなくなりその場を去った。レジーは横目で眺めつつ主君に視線を戻せば、こちらに笑顔を向けているのが見えた。それに思わず笑みを浮かべてマリアに駆け寄った。


 翌日、生間として王都へ行っていたクライドが戻ってきた。それから、ソロモンとレイヴァンがいるであろうテントへ向かい報告する。

「ソロモン殿が申したとおり、向こうは守りを固めじっとしております」

 それを聞けばレイヴァンとソロモンは顔を見合わせて頷き会う。その後、三人はマリアのいるテントへ向かいマリアに報告した。

「向こうは守りを固めているようです。やはり、“あの策”を講じましょう」

 ソロモンの言葉にマリアは重く頷いて応えた。どこか険しい表情のマリアにソロモンはふっと笑顔を浮かべる。

「それでは、決行は今夜でよろしいですね?」

「ああ」

 マリアは頷いて答え、ぎゅと拳を握りしめる。それからエリスとクライドがいる方を見て言葉を紡いだ。

「くれぐれも、無茶だけはしないでくれ」

 エリスとクライドは共に頷いて「はい」と答えるとテントを出ていった。マリアは二人の消えた方をじっと眺めて悲しげな表情を浮かべていたが、ソロモンの言葉で我に返る。

「無茶はしないようわたくしからも言いつけておりますから、きっと大丈夫でしょう。それでは、わたくしはこれにて去ります。レイヴァン、お前は王子の専属護衛だから側に居るんだぞ」

 まるで深い意味でもあるようにソロモンが言うものだから、マリアは思わず不思議そうにソロモンを見つめてしまう。けれど、ソロモンは気づいていない風を装ってテントを出ていった。
 レイヴァンは、なおも不思議そうなマリアにそっと近寄ればすっと跪いた。

「いかがなさいましたか」

「いや、わざわざあんなことを言って出て行くものだからどうかしたのかと思って」

 マリアの答えを聞いてレイヴァンは小さく笑うと、今日ぐらいはそばにいろと言っているんだろうと告げる。といっても、大体の時間は一緒に居ることが多いのだからマリアからすれば不思議なのだろう。けれど、合点がいったらしく「ああ」と感嘆にも似た言葉を漏らした。

「そうか、戦になればずっと側に居ることも叶わなくなるからか」

 自身を気遣っての言葉だと知るとマリアは、苦笑いを浮かべた。ソロモンに気遣われると思わなかったようだ。

「はい、俺はできるだけクリス様の側にいるようにするつもりなのですが、そうも行かなくなる場合もございます」

 小さく頷いて見せるとマリアは稽古をしてくれとレイヴァンに頼んだ。レイヴァンは渋ったが、結局は折れて稽古をすることになった。
 外へ出てマリアとレイヴァンの剣がぶつかり合う音が響き渡る。兵達は見張りをするのも忘れたように二人に見入っていた。慣れた景色であるはずなのに兵達は、ぼんやりと二人を眺める。戦士と見間違おうほどにマリアの剣筋がよくなっていた。
 レイヴァンとしては、複雑なところではあったけれどずっと側で守ることが出来ない以上、これは必要のことのように思えていた。
 反対しながらもマリアが剣を持つことに賛成している部分もあったのだ。だからこうして、マリアに剣の稽古を頼まれれば、あまり否定せずに付き合っていたのだ。
 剣が重なり合う。けれど、レイヴァンの方がやはり腕はいい。マリアの持っていた剣は空へ投げ出され地面へ落ちてしまった。

「やはり、だめか」

 肩を落としてマリアは呟くと、剣を拾い鞘に収める。すると、レイヴァンは苦笑いを浮かべて見せた。

「これだけ返せるようになれば、もう大丈夫でしょう。自分の身どころか、仲間を助けに行くことも可能ですよ」

  もちろん、そんなことは俺が許しませんがとレイヴァンが言葉を紡げば、マリアは小さく笑って「だろうな」と呟いた。それから、ふとレイヴァンの瞳が真剣な眼差しへと変わりマリアに跪いた。

「明日には開戦となりましょう。必ずや勝利をおさめてご覧に入れます」

「ああ、必ず我々の国を取り戻そう」

 答えたマリアの声はどこか震えていた。レイヴァンがマリアを見上げれば、悲しげな表情を浮かべたマリアが黒曜石の瞳に映し出される。
 レイヴァンはそんなマリアを見つめて口角を上げれば優しく声をかけた。

「マリア様、自らが定められた道を信じてください。どうか迷わないでください。あなたの定めた道が茨の道であってもまっすぐ、その道を突き進んでください」

 レイヴァンの言葉が、心にすっと入ってゆく。マリアは固まっていた心がほぐれていく感覚に襲われた。

「もしあなた様が道の途中で躓いたときは、その手を取って差し上げます。涙が零れれば拭って差し上げます。道の途中で迷ってしまわれても、俺が側に居ます」

 嘆息にも似た息をマリアは零した。彼の言葉に何度救われただろう。数え切れないほど、彼には救われたのだ。言葉だけじゃない。彼は自分の為にどれほど自身を犠牲にしてここまで着いて来てくれたのだろうか。
 マリアには想像すらも出来なかったけれど、彼がどれほど自分の為に自らを犠牲にしてきたことは分かっているつもりであった。
 けれど、マリアには返せるものが何もなかった。レイヴァンは基本的に無欲でもあったのでマリアが恩返ししようにも、どうすればよいのか困っているのだった。

「ありがとう、レイヴァン。わたしは、お前に救われてばかりだな」

「俺もあなた様に救われているんですよ」

 マリアが驚いて目を丸くした。レイヴァンは柔らかく微笑んでマリアを見上げる。黒い瞳は、優しく細められた。

「あなたがいるだけで俺は戦えます。あなたのいるこの国を守りたいから、俺は武器を持とうと思うのです」

 てっきり、専属護衛だからと言われると思っていたマリアは、ますます驚いてしまってまじまじとレイヴァンを見つめ返す。レイヴァンは尚も柔らかく微笑んでいた。

「わたしは、お前に返せるものなんて何一つないのに」

「かまいませんとも。俺はただ信ずるあなたのためにこの剣を使いたい。それだけです」

「ありがとう、それから必ず戻ってきて」

「はい!」

 誇らしげに答えたレイヴァンの声が、マリアの中で木霊していた。


 夜、すべての生き物が寝静まる時間帯。けれどベスビアナイト国軍の兵は慌ただしく動いていた。野営の天幕(テント)やらたいまつやらを片付け始めていたである。
 マリアはというと、ソロモン達と一緒に居た。

「それでは、王子。一時、撤退いたしましょう」

 ソロモンの言葉に頷いて見せてマリアは馬にまたがる。それにならって、ソロモンやレイヴァン。レジーにギル、エイドリアン。ディルクにドミニクも馬にまたがった。それから、救護班に準備を終えた兵達も馬にまたがればマリアが馬に一むち打って駆け出す。その後ろからもマリアにならって駆け出せば、マリア達の野営があった場所には荷役車輛がひとつ取り残された。


 朝になってコーラル国の軍がベスビアナイト国軍が引き払ったとみて偵察へと来た。残された荷役車輛の中を見てみれば中には、彼らが見たことのない兵器や食料が大量に詰め込まれていた。

「なんだ、これは」

「例の“兵器”か」

「どうする、持って帰るべきなのか」

 困ったように考え込む兵達の元へ少し遠くへ行っていた軍が戻っていた。そのひとりは“少年”を一人、掴んでいた。

「その少年は?」

「わからん、ただ少し離れた森の中で彷徨っていた」

 捕まり縄で縛られた少年はあまりに平凡な顔つきをしていた。この国では珍しくもなんともない栗毛色の髪と瞳をしている。平たく言えば何も印象にすら残らない顔立ちであった。

「あの森にいたのか。では、ベスビアナイト国軍がなぜここから立ち去ったのか知らないか」

 少年はぎゅと奥歯を噛みしめていたが、兵のひとりに殴りつけられ吐き出すように言葉を紡いだ。

「勝てぬとわかって後退したと聞きました」

 兵は「ほう」と呟くと少年に顔をずいと近づけた。兵の口からは酒臭い匂いが漂う。

「では、この荷物は何だ」

「兵器や食糧だと思われますが」

「そんなことは知っている! この兵器はどうやって使うのだ」

「そんなの、僕が知るはずないでしょう」

 兵がまた少年に暴行を加えようとしたときだった。伝騎が一騎、やってきて荷役車輛とその少年を城へ入れるよう告げた。
 伝騎の伝えたとおり兵達は門をくぐると荷役車輛を城の庭へ置き少年を王の前へつき出した。

「陛下、妙な少年を連れて参りました」

 少年は顔を上げて赤いカーペットの先にある豪華な椅子に座っている男を眺めた。それがコーラル国国王バルドルであることを少年にはすぐにわかった。

「陛下、この少年はベスビアナイト国軍のことについて詳しいようなのです」

「たまたま、兵達が話しているのを聞いただけですよ。僕、関係ないです」

「お前っ」

 少年を縛っている縄の先を持っている兵が何やら苛立っていると兵をバルドルが制する。そして、少年に問いかけた。

「それでベスビアナイト国軍は撤退したと?」

「はい、そう話しておりました」

 バルドルが何やら考え込んでいるとそこへ、グレンがやってきた。刹那に兵達の雰囲気が変わる。それは、まるで目の上のたんこぶを見るような視線だった。

「陛下、この少年を一時、牢屋に入れておきませんか。もしかすれば新しい情報が手に入るやも知れません」

 グレンの言葉に兵達は驚いたように目を見開いた。てっきり、さっさと解放してしまうとでも思ったのだろう。少年はというと、いぶかしそうにグレンを見つめていた。それから少年は兵によって牢獄へと閉じこめられた。
 すっかり辺りは静かになって、少年も落ち着く余裕が出来たのか何やら考え込んでいた。すると、どこからかしわがれた声が聞こえてきた。

「おーい、今閉じこめられた人」

「何でしょう」

 少年はおそるおそるといった様子で問いかければ、しわがれた声がまた響いてきた。

「お前はなんで、閉じこめられたんだい」

「ベスビアナイト国軍の情報を知っていたからです。なにやら、また情報をもたらしてくれるのではないかとか言われて」

 少年の答えにしわがれた声の笑い声が聞こえてくれば、少年はどこか不愉快そうに目を細める。

「いや、すまんすまん。コーラル国の連中も焦っているのだろうよ」

「ベスビアナイト国軍が撤退したというのにですか」

 少年の言葉にしわがれた声が黙り込めばまたあたりは沈黙に満ちた。けれど、またしわがれた声が響いてきた。

「ああ。きっと、何か企んでると考えているんだろう」

「企むって、何で」

「そんな簡単にベスビアナイト国軍は撤退などしないよ。それはきっと、意味のある撤退だ」

 自信があるのですね、と少年が問いかければしわがれた笑い声が響いてきた。

「ああ! わしは自分の国が大好きだからな」

「そうですね。僕も、自分の国は大好きです」

「なら、信じなさい。自分たちの国を信じなさい」

 まるで父親が子に言うように言うものだから、少年は小さく笑って「父親のようだ」と呟いた。すると、しわがれた声の主が「子どもならいるよ」と言った。

「男の子と女の子、一人ずつ。といっても、どちらも血のつながりは無いがな」

「そうなのですか」

「ああ、でも血のつながりなど関係なくその子達を愛しているよ」

 少年は自らの両親を思い出して少しだけ感傷的になり、一筋だけ涙をこぼした。何も返事が無いことを不思議に思ったのか、しわがれた声が響いてくる。少年は慌てて涙を拭う。

「どうかしたかい?」

「いえ、父親というのはこんなにもあったかいんだなと思って。僕にはあまり父親の記憶がないものだから」

 しわがれた声の主は温かく少年に向けて言葉を発する。

「そうかそうか、きっとお主の父親もお前を愛していただろう。お前が父親に焦がれるようにお前の父親もお前に焦がれただろう」

 すると、少年の涙がぽろぽろとこぼれ落ちて地面を濡らした。

「……ひっく」

「泣いているのかい? 大丈夫、大丈夫だよ」

 しわがれた声の言葉が少年の心に希望という種をまいた。しわがれた声は何度も「大丈夫」と繰り返して少年をなだめる。やがて、少年のしゃっくりの声が響かなくなると「おさまったかい?」としわがれた声が響いてきた。

「はい、ありがとうございます」

 涙を拭って少年は答えた。すると、またしわがれた声が聞こえてきて少し話をしないかと問いかけてくる。少年は肯定の意を示して「はい」と答えた。

「さっきも言ったとおり、わしには息子と娘がおる。娘はなんでもおおざっぱであるが、息子はとても几帳面なのだ」

 黙って少年はしわがれた声を聞いていた。

「息子の方は父親に似たのだろうな。とても剣の腕が立つ、ああでも、几帳面なところは母親に似たのだろうか」

「息子さんのご両親にお会いになったことはあるのですか」

 しわがれた声が肯定する。さらにしわがれた声は、とても繊細でさみしがり屋だと言葉を紡いだ。そこも母親似だとも言葉を発した。

「そうなのですか」

「ああ、とてもさみしがり屋だ。いつも意地を張ってなんてことの無い顔をしていたけれど。だから、陛下に頼んだのだ。姫様の専属護衛にしてやってください、と」

 はっとなって少年が目を見開いた。もしや、と思いその名を口にすればしわがれた笑い声が暗い牢屋に響き渡った。

「そうだとも、よく知っていたな」

「ええ、まあ」

 少年はそれ以上は何も言えなくなり口を噤む。それからは、また牢獄の中に沈黙と寂寞が満ちた。
 それから、夜になったのだろうか。少年はすっかり眠ってしまっていて、小さな窓から柔らかい光が零れていた。太陽のように強くない光が夜であることを告げていた。けれど月ほど明るくも無い、弱々しいが確かな光。星月夜だろうかと少年は思った。

「なあ、少年」

 しわがれた声が聞こえてきて、少年は「はい」と答える。

「今日もきれいな空だなあ」

 空なんて牢獄からは見えるはずが無い。けれど、少年はしわがれた声に賛同して「そうですね」と返した。脳裏には、ここに来る前に見た最後の夜の空が映し出されていた。
 すると、少し遠くから何かが爆発するような音が響いてきた。

「おや、何かあったようだね。そういえば、少年。君の名前を聞くのを忘れていたよ。君はなんて名前なんだい?」

 少年は険しそうにしていた表情を一瞬だけ解いて、しわがれた声の主に小さく笑って言葉を紡いだ。

「このタイミングで聞きますか」

「忘れていたんだよ。今の音で思い出したのだ。さあ、教えてくれ」

 また少年は笑った。それから、少し考えていたけれど、すぐにこの人に偽るのは良くないと判断して素直に答えた。

「エリスと申します」

「エリスか、どこかの神話では不和と争いの神の名だったな」

「よくご存じなのですね」

「ああ、これでも各国を飛び回っていたからね。エリス、君は何かを成し遂げようとしているね?」

「わかりますか」

「ああ。伊達に長くは生きておらんよ」

 少年ことエリスは小さく笑うと、カバンから縄を取りだした。その縄の先には吸盤のようなものが取り付けられている。

「あなたの仰ったとおり、我らベスビアナイト国軍はこれくらいじゃ退散なんていたしませんよ」

 エリスはいって縄の先を天井へ取り付けた。しわがれた声の主は小さく笑う。

「そうか、そうか。良かった」

 エリスは天井まで到達するとナイフを取りだして天井に穴を開ける。前にソロモンから牢獄の天井の上が空洞になっている場所があると聞いていたのだ。しかも、そこは最近はもろくなり、崩れ安いとのことだった。

「またあとで、お助けいたします」

 エリスはしわがれた声の主にそれだけを告げて、その場を後にした。
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