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花暦(男0:女2)???
花暦――紫陽花《アジサイ》
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綾乃:
拝復
梅雨明け間近の空に、早くも盛夏を思わせる日差しが差し込む頃となりました。その後も変わらずお過ごしのことと存じます。
この時期になると二人で描いた紫陽花や朝顔、百日草などと、あの安らかなる時間を思い出します。
二人で初めに描いた紫陽花は今も額にいれ、嫁ぎ先の自室に飾っております。主人にも誠にありがたきお褒めの言葉をいただきました。
いただいたお手紙、大切に何度も読み返しておりましたのに、ようやく落ち着いて筆を執る時間ができました。返事が遅れまして、どうかお許しくださいませ。
ご懐妊のこと、そしてお子さま方のご成長、心よりお喜び申し上げます。とはいえ、続けてのご懐妊は、さぞやごお身体に堪えられるかと存じます。お忙しい日々の中、どうかご無理をなさいませんよう。
わたくしは嫁ぎ先の家にも恵まれ、ありがたいことに忙しくも、穏やかな日々を過ごしております。結婚してからは、近所の子供たちの声や笑顔に、ふと心を和まされることが増えました。これまではただ通り過ぎるだけだったのに、不思議なものです。
千里のように、家を守り、子を慈しむ妻であり母であれるよう、わたくしも励んでまいりたく存じます。
なお、この度の結婚により「香月」と姓が変わりましたことを、あらためてお伝え申し上げます。
これから暑さが増してまいります。どうぞご自愛くださいませ。
かしこ
香月綾乃
※※※
綾乃:
千里が実家から届いた画材を恍惚とした顔で見ていたかと思えば、何かを手際よく準備をし始めた。
「千里?何を始めるの?」
千里:
「手彩色にございます」
綾乃:
「…手彩色?」
封筒から紙を取り出し、板に置いて留め具で四方を止めた。机の上に置き直すと、灰色の桜が目に入る。
「その写真は…、中庭の」
千里:
「はい。この桜に色を乗せていくのです」
綾乃:
細筆に、薄く淡紅色をとり、桜の花弁一枚一枚に丁寧に色を置いていく。その後花びらの重なりや、影に、少し濃く色を置く。千里が色を置く度に、桜は柔らかく咲いていき、まるで命を吹き込む魔法のようだった。
「綺麗…」
千里:
「お姉様もやってみますか?」
綾乃:
「…いえ」
「その様な美しいものに手を加える技術は持っておりませんから」
千里:
「では、手彩色ではなく、絵にしましょう。少々お待ちください」
綾乃:
そう言うと千里は写真を脇に移し、卓上に真っ白の画用紙を取り出して、窓の外の紫陽花を指差しながらわたくしに渡すように筆を硝子皿に置いた。
「いえ…、やっぱりやめておきます」
千里:
「どうしてですか?」
綾乃:
「だって、絵の描き方なんて、とんとわからないのです」
「どのように描き始めればよいのかさえ…」
千里:
「絵は想像の世界です。正しいも間違いもありません。お姉様が感じたままに描けばよいのです」
「…こんなふうに」
綾乃:
そう言うと、千里は筆に緑を取り、紫陽花の葉を半分描いて見せて、私に筆を渡す。
千里:
「次はお姉様の番です」
綾乃:
「ええっと…」
筆を受け取ったものの、腕は固まり、頭も真っ白になる。紙の白さが、余白の広さが、まるでわたくしを試すようにこちらを見つめ返す。
失敗したらどうしよう――。幼いころから何をするにも型や手順ばかりを気にしてきたわたくしには、「間違いはない」という千里の言葉が、むしろ重く響いた。
それでも、促す千里の瞳に背中を押されるように、ためらいがちに筆先を落とす。紙を滑る感触が、意外にも柔らかく心地よい。
最初に描いた線は心許なく、今にも崩れてしまいそうに頼りない。千里がさらに筆を出し、茎を描き足した。その線はわたくしのものとは違い、迷いなく、美しい。その頼もしさに支えられて、わたくしの筆もまた、少しずつ迷いを振り払っていった。
交互に線を重ねるうち、紫や水色、淡紅の花弁、葉の緑が画用紙いっぱいに広がっていく。いつの間にか画用紙の紫陽花は、外の庭に咲く紫陽花よりも大ぶりで、どこか華やかな花が咲き誇っていた。
わたくしの線からも迷いは消えており、その色鮮やかな紫陽花は、まるで千里と出会ってからのわたくしのようであった。
千里:
「とても綺麗です」
綾乃:
「…ええ、そうね」
千里:
「この絵はお姉様に差し上げますね」
綾乃:
「…ありがとう」
千里:
「描き終えた水彩画は、留め具で押さえて伸ばしておきます。この時期は特に、そのまま放っておくと紙が丸まってしまいますから」
綾乃:
「…そうなのですね」
千里:
「しっかり乾いたら、改めてお姉様にお渡しさせていただきます」
綾乃:
自身の思うままに過ごす千里と出会ってから、確かに自分の中で何かが変わっているのを感じた。
まるで無彩色だったわたくしの世界に千里がその手で彩色してくれたように、少しずつ色がつき、まるで魔法のように新しい命が吹き込まれていく…。
わたくしは、自分のために生きてもよいのでしょうか。しきたりや慣習、しがらみの外で生きてもよいでしょうか。
でも、両親に報いたいという気持ちは、わたくしのなかから湧き出る本心だと思うのだけれど…。
※※※
千里:
「お姉様はご実家に帰省なさらないのですか?」
綾乃:
陽が陰り、夕闇涼しくなったころ。当番の掃き掃除の途中で千里は驚いたように声を出した。
「ええ、今年は先生からの頼まれ事があってね」
「実家に居られるのが長くてニ日だけになるの。それならいっそのこと、夏は帰らないことにしようかと」
千里:
「そう、ですか…」
綾乃:
「千里はいつまで帰省するの?」
千里:
「はい、八月末まで帰省しようと思っています」
綾乃:
「それはいいわね。ご両親にしっかり孝行してくるのよ」
「きっと成長した千里に驚かれる事でしょう」
千里:
「…はい!」
「あの、ところで、先生からの頼まれごととは」
綾乃:
「ええ。先日、台風に伴う大雨で大きな被害があったでしょう」
「幸い此処は大丈夫でしたが、生徒の何人かのご実家も被害を受けたそうです」
「なので学園としましても、義捐金をお送りするため、上級生を中心に復興バザーを開くことになりました」
千里:
「そうなのですか…」
綾乃:
「なので、私はしばらくバザーで売る品を作ったりすることになるわ」
千里:
「…!私もお手伝いさせてください」
綾乃:
「あら、よろしいの?」
「期末考査も近づいているけれど」
千里:
「あ…、ええと、…では、期末考査が終わってから、帰省するまで手伝わせていただきます」
綾乃:
「ふふ。ありがとう」
千里:
「どんなものを作られるのですか?」
綾乃:
「…絵を。花の絵を描こうと思います」
千里:
「…それは、とても素晴らしいですわ」
綾乃:
「千里のおかげです」
先日二人で紫陽花を描き進めてからというもの、わたくしはすっかりと絵を描くことが好きになってしまっていた。雨上がりの紫陽花、早朝の朝顔、夕闇に映える芙蓉。
日々の中に暇を作り、どちらともなく筆を取り出して絵を描く。そんな生活が気づけば早くも一月ほどになり、いつしか机には水彩の匂いが漂い、棚には紐を渡して画用紙が吊られ、部屋はすっかりアトリエのようになっている。
千里:
「今まで描いた絵もお売りになるのですか?」
綾乃:
「ええ、わたくしの描いた絵が復興の助けになるならと…」
「以前書店で、見た欧羅巴花暦の本のように、花言葉を添えて売ろうかと」
千里:
「…そうですか」
綾乃:
「…ふふ、心配しなくても、あの紫陽花は売りませんよ」
あれはわたくしを変えてくれた絵ですからね――
「さて、では千里。帰省できるようにしっかり課題を済ませて、期末考査を通過するのですよ」
「このところ絵に心を奪われて、課題が疎かになっているようですわね」
千里:
「はい…、精進いたします…」
※※※
綾乃:
拝啓
有馬義助様
有馬こはる様
梅雨も明け、青空に白い雲の映える季節となりました。貴地におかれましても、皆さまお健やかにお過ごしのことと存じます。
このたびは、貴家よりお預けいただいた画材を日々千里様とともに使わせていただき、心より感謝申し上げます。慣れぬ筆遣いではございますが、その一色一色に新しい喜びを感じております。
実は来月、学内で催される復興バザーにて、千里様と二人で描いた花の絵を出品させていただくこととなりました。感謝の気持ちを込めて、阿蘭陀撫子の絵を描きました。本日このお手紙に同封いたします。拙い出来ではございますが、受け取っていただけましたら幸いに存じます。
千里様は、この春お目にかかった頃よりも、ますます聡明で頼もしくなられました。新しい環境にもすっかり馴染み、日々を自分らしく過ごしておられるご様子を、間近に拝見し、わたくしもまた励まされております。
千里様とご一緒できることは、私にとって大きな喜びでございます。あのように明るく、真っ直ぐに心を傾けてくださる方と日々を共にできること、そして、そのようにお育てくださったご両親に、深くお礼申し上げます。
いつか直接お目にかかり、お話をさせていただける日を心待ちにしております。とは申せ、ご多用のことと存じますゆえ、叶う日を静かに楽しみにいたしております。
盛夏のみぎり、皆さまのご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
敬具
古賀綾乃
※※※
千里:
「では、行ってまいります」
綾乃:
「ええ、ご両親によろしくお伝え下さい。あと、いただきましたフィナンシェ、とても美味しかったと」
千里:
「はい、そうお伝えします」
綾乃:
駅で千里を見送った。進み始めた汽車の窓を開け、千里が手を振っている。
黒い汽車は白い蒸気をたなびかせて、あっという間に遠ざかっていく。わたくしは窓から伸びたその細く白い腕が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
「では、寮に帰りましょうか…」
ひとりごつ。
いつもなら、隣で千里が返事をしてくれる。そう考えて、今別れたばかりなのにと、ひとり笑いが込み上げた。
…夏休みが始まった――。
※※※
(ノックの音)
綾乃:
「はい、起きております」
起床確認のノックの音に返事をする。
復興バザーまであと一週間を切り、作業は大詰めを迎えていた。わたくしは目が覚めたら絵を描き、休憩と称しては散歩を行い道の花を集め、寮に戻ると図書室へ向かい、花言葉を調べる。または、近くで見やることのできない花については植物図鑑をみながら模写をする。そんな日々を過ごしていた。
部屋には枯れないように一輪挿しや、花瓶、果てにはコップにまで水を張り、絵の元になる花を置いている。既に絵を描く場所以外の平らな場所はすべて花で埋まっていた。
お題目は復興バザーのための絵であったが、誰がどう見ても絵に心を奪われているのは千里ではなくわたくしの方だろう。
けれど、部屋は色とりどりの花で満ちているはずなのに、静けさばかりが際立ち、筆のかすかな音だけが時を刻んている。
千里が来る以前、こんなに部屋を広く感じたことがあっただろうか。お姉様が退寮されたあとは、ただ空虚で、物がなかったから広く見えた。けれど、今この部屋には花や画材、千里の小物で溢れているのに、なぜか空いた場所ばかりが気にかかる。
「今頃、何をしているのかしら…」
※※※
千里:
今頃、お姉様は何をしておられるのだろう。
有馬の家には、今日も朝から様々な人が出入りしている。先ほどまでは船を管理している人々、今度来るのは……たしか九條家の方々だったか。いや、九條はさっき帰られたのだったか。朝に一度、お父様とお母様、女中頭から客人の名前や家業を教わったものの、もうすっかり忘れてしまった。
こんなことで有馬の娘が務まるのかと、自分でも笑ってしまうが、どうにも覚えられる気にも、覚える気にもなれない。
両親は終始笑顔を保ち、客人に挨拶を繰り返している。明日は納涼祭りをすると言っていた。大きな氷を用意し、それを削って客人や地域の子どもたちに振る舞うのだという。
「お気遣いありがとうございます。いただきます」
決まりきった言葉と表情で頂き物を受け取り、裏へ下がる。有馬の娘としての務めは、嬉しそうな顔で頂き物を受け取り、箱の中身を確認し、頂き物の目録を作ること。それをもとに中元を贈り、関係をつないでいく。毎年同じことを繰り返し。
いずれ何も感じなくなるのだろうか――いや、もうすでに、何も感じていないのかもしれない。
「……つまりません」
誰にも聞こえぬよう、ぼそりひとりごつ。
※※※
(ノックの音)
綾乃:
「はい、どうぞ」
日暮れ時、部屋のドアが叩かれる。
復興バザーまであと三日。机の上には色とりどりの花の絵を並べ、その余白に小筆で花言葉を書き入れていた。
千里:
「お姉様、ただいま戻りました」
綾乃:
「…千里?どうして…」
千里:
「この時期の有馬のお家は落ち着かないのです。朝から暮れまで客が来て、みんな忙しなく動き回っていて。わたくしも有馬の娘として、客人たちに挨拶をしていました」
「もちろん、大切なお役目だと分かっております。でも……どうしても退屈で。それより、早くお姉様に会いたくなってしまって。役目が終わるや否や、汽車に飛び乗りました」
綾乃:
「…よかったのですか?」
千里:
「お母様には怒られてしまいましたが…、お父様は笑っておいででした」
「さ、バザーまであと数日ですよね。お手伝いさせてください。今は何を?」
綾乃:
「花言葉を書き入れて、何の花の絵がいくつあるのか、目録を作っていました」
千里:
「目録を作るのは得意です。家でたくさんやってきましたから」
お姉様が机の上へ視線を戻す。花の絵には、小筆で添えられた花言葉。流れるような筆致は、まるで書道の師の手によるもののようだった。
目録に目を通し、絵を数え始める。
阿蘭陀撫子──八枚。
天竺牡丹──十二枚。
千寿菊──七枚。
向日葵──十枚。
紫君子蘭──九枚。
紫陽花──十二枚。
一枚一枚が丁寧に描かれていて、紙の向こう側に描き手の横顔が浮かぶ。きっと真剣な面持ちで紙と花に向かっていたのだろう。
同じ目録作りなのに、こうも心が躍るのはなぜだろう。きっと有馬で見た頂き物は、この絵より随分と高価で、便利で、実用的だった。でも、この花々を前にすると何の価値も感じない。
「これを全部お一人で…」
綾乃:
「…、少し熱中しすぎたきらいはあります」
「けれど、わたくしも…、千里の見ている世界を、見てみたかったのです」
千里:
「お姉様…」
綾乃:
「さ、絵はまだこちらにもありますよ」
千里:
「まだあるのですか!?」
※※※
千里:
拝啓 盛夏の候
古賀綾乃様
日ごとに陽ざしも強まり、庭の向日葵が誇らしげに咲きそろっております。
綾乃様におかれましては、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます
先日は、心のこもったお手紙と共に、見事な阿蘭陀撫子の絵を賜り、誠にありがとうございました。わたくしどもは千里を除き、芸術というものに疎うございますゆえ、適切な言葉が見つかりませぬが、それでも胸に迫る美しさを覚えました。筆致の冴えと彩りの妙、まことに目を奪われる思いで拝見いたしました。お手紙の筆遣いもまた見事で、主人の義助も「達者なものだ」と感心しておりました。
さて、千里は家でも手紙でも、常にお姉様のことばかりを申しております。そのせいか、滞在の日程を繰り上げ、早々にそちらへ戻ってしまいました。まだ会いたいと申してくださる方々も多くおられましたゆえ、有馬の妻としては、またお姉様としても、どうぞ一度はお叱りいただきたく存じます。
しかしながら――これは家の者としてではなく、母こはる個人としての胸の内でございます――そのように思える方に巡り会い、日々を共にし、よくしていただいていることに、心より感謝をいたしております。
半年ぶりに見ました千里は、所作も言葉遣いも美しく、凛とした面持ちになっておりました。学園での学びは申すまでもなく、お姉様との出会いが、あの子をここまで成長させてくださったのだと、深く感じ入っております。
また、千里からも復興バザーのお話をうかがいました。被災地の方々のお力になれればと、主人よりも弐千円を義捐金としてお送りする所存でございます。ささやかではございますが、復興のお役に立てばと思っております。
どうかこれからも、変わらぬご縁を、長く長く紡いでいってくださいませ。
末筆ながら、季節の変わり目ゆえ、お体を大切にお過ごしくださいませ。
敬具
有馬こはる
※※※
綾乃:
「ありがとうございます。お代は確かに、義捐金として寄付させていただきます」
受け取ったお代を木箱の中にそっと収める。
昼食時も過ぎ、会場も少し落ち着いてきた。卓上の商品もだいぶ減り、人気の品は既に「売切」の札が置かれている。
千里:
「どうぞ、一口お試しくださいませ」
「わたくしたちが心を込めて焼きましたカステラでございます」
正面の机には、花模様を刺した手刺繍のハンカチや、風に揺れて歌う風鈴。奥の机には押し花の栞や、日持ちのする焼き菓子が整然と並ぶ。さらに横には、淡い水彩の絵、簪、古い着物を仕立て直した鞄などもあり、それらは次々と人の手に渡っていった。お代を払う人々の顔には、どこか満ち足りた色が差している。
お姉様が、幕裏から出てきた方と話をしている。
綾乃:
「…はい、承知いたしました」
「千里、ではわたくしたちも休憩させていただきましょう」
千里:
「はい。もうお腹が空いてしまいました」
綾乃:
「ふふ。わたくしもです」
学園の食堂で作ってもらったお弁当を受け取り、幕裏に移動する。
千里も後ろをついてきて、隣りへ腰を下ろした。
幕を一枚隔てた先は、先程までの騒音は聞こえず、静かな時間が流れていた。
千里:
「足が棒になるかと思いました。やっと座れましたね」
綾乃:
「ええ、本当に」
「でも皆さんの笑顔を見ると、疲れも薄まります」
千里:
「はい。絵もたくさん買っていただきましたし、皆さんからお褒めの言葉をいただきました」
綾乃:
「先生が、わたくしが描いたものだと皆さんにおっしゃるから、困ってしまいました」
千里:
「ふふ、そうですね」
「あんなに焦っているお姉様はなかなか見られません」
綾乃:
「まぁ、酷いことを言うのね」
千里:
「…疲れましたが…、それ以上に充実しています」
綾乃:
「ええ」
千里:
「…それにしても、商いとは、これほど休む間もないものなのですね」
綾乃:
「あら、有馬も商家でしょうに」
千里:
「わたくしは家の商いを直接手伝ったことはありません。いつも大人たちで集り難しそうな話をしておられました」
「…わたくしの有馬でのお役目は、頂き物を嬉しそうな顔で受け取ることぐらいです」
綾乃:
「…そうでしたか…」
見ると、千里は箸の先で芋を突きながら、顔を下に向けている。
「…わたくしの家は町の紙屋でね。紙屋の娘が読み書きができぬでは格好がつかないから、自分で髪を結うよりも先に文字の読み書きを仕込まれたわ。…字も、美しく書けるよう厳しく躾けられた。それが当たり前の環境だったから嫌だと思ったことはありませんけれど…、…家には家の事情があります」
美しく書けるようになった字は、何度もわたくしを救ってくれた。その誇り。
一方で、紙屋の娘として、美しく字が書けることは当たり前という重み。
どちらも嘘ではない。その重みは、確かに両肩に感じている。
千里:
「…そうですね」
「お父様お母様のことは、本当に大好きです。わたしのことを、ありのまま受け入れてくださいます。写真や絵も、一度だって叱られたことはありません」
綾乃:
そう言うと千里は、そっと箸を置く。
千里:
「けれど…、有馬は好きではありません。人の出入りが多く、夏や冬はとりわけ忙しない。…ニ週間も居たのに、結局お二人とゆっくりお話しする時間も取れませんでした」
「…でも、お父様とお母様がありのままのわたしを愛してくだされるだけの余裕があるのは、有馬のお家があってこそなのです」
綾乃:
好きと嫌いが同じ家に住んでいる。どの言葉を選べば、わたくしは彼女の中の両方を壊さずにいれるのか…。
千里がふと顔を上げ、わたくしの目を真っ直ぐと見つめる。
千里:
「きっと、お姉様なら…、有馬でも上手にやっていけるのでしょうね」
綾乃:
「…」
千里:
「…すみません。つまらない話をしてしまいました」
綾乃:
「…そんなことはないわ」
千里:
「バザーの準備で走り続けて、ふと立ち止まったら、少しだけさみしく感じてしまいました」
綾乃:
千里が、悲しげな顔で無理やり笑っている。
やはり返す言葉は見つからず、代わりにそっと手に手を重ねた。千里の手は固く結ばれ、小さく震えていた。
千里:
「バザーの目録作りがとても楽しかったのです。有馬でも、次の中元のために頂き物の目録を作りました」
「お菓子や流行りのもの、硝子細工など、様々な物を頂きました。高価で、珍しくて、実用的で…。でも、こころは何一つ動かなかったのです」
「ですがお姉様としたバザーの準備は違いました。一つ一つの品に愛情を感じ、とても暖かく……、楽しかったのです」
綾乃:
「…それはよかったです」
千里:
「バザー、手伝わせてくださって、本当にありがとうございます」
綾乃:
「それはこちらの台詞です。力をお貸しくださり、本当に感謝しています」
千里:
「……」
綾乃:
「さ、休憩が終わったら、あと少し頑張りましょうね」
千里:
「…はい」
綾乃:
…わたくしは、なんと返せばよかったのだろう。
わたくしたちはまだどうしようもないほどの未熟者で、自立もままならない。
家が違えば事情も違う。事情が違えば立場も違う。
千里の悩みや苦悩は、きっと欠片ほどしか受け取ることができていないわたくしが…。
※※※
綾乃:
拝啓
残暑なお厳しき折、こはる様には益々ご清祥のことと、また義助様ご一同におかれましてもお変わりなくお過ごしのこととお慶び申し上げます。
去るお盆も無事に過ぎ、朝夕の風にほのかに秋の気配を覚える頃となりました。
このたびはご丁寧なお手紙を賜り、誠にありがとうございます。また、拙き絵に過分なお言葉を頂戴し、身に余る光栄に存じます。
とは申せ、実はわたくしこそ千里様より多くを学び、日々の務めがこれまでになく充実いたしており、むしろ感謝の思いでございます。絵もまた、千里様に誘われて筆を執ったのが始まりで、それまではただ眺め楽しむばかりでございましたが、今では暮らしの中に欠かせぬものにまでなりました。
お手紙を拝読し、また千里様よりご両親のお話を折々に伺い、互いを思いやられる深いご愛情に、わたくしの胸までも温めていただいております。お二人の話をなさる時の千里様は、ふだんよりいっそう柔らかく微笑み、その表情だけでも有馬家の温かいご様子が伝わってくるようでごさいます。
おかげさまで、先日の復興バザーは盛況を極め、予定の刻限を待たずに品がほとんど売り切れるほどでございました。
千里様も店頭に立ち、呼び込みの声を張り上げることも臆せず、時にはお客様と笑いながら品物を包んでおられました。包み紙を折る指先が器用で、出来上がった包みを差し出すときの少し誇らしげな表情は、そばで見ていても微笑ましいものでした。
千里様も、お客様と直接関わる事はとても充実していたようで、寮に帰る道でも「またぜひやってみたい」「まだ知らぬ仕事の事を知っていきたい」と胸を弾ませておりました。
さて、実は古賀家は町にて小さな紙屋を営んでおります。もしよろしければ、冬の休暇にでも、拙宅へお連れいたし、ささやかながら紙屋の仕事をお目にかけとう存じます。何分田舎のことで、格別なお構いもできませんが、その折にはどうぞお許しくださいませ。
末筆ながら、こはる様のご健勝とご一家の弥栄を心よりお祈り申し上げます。
敬具
古賀綾乃
拝復
梅雨明け間近の空に、早くも盛夏を思わせる日差しが差し込む頃となりました。その後も変わらずお過ごしのことと存じます。
この時期になると二人で描いた紫陽花や朝顔、百日草などと、あの安らかなる時間を思い出します。
二人で初めに描いた紫陽花は今も額にいれ、嫁ぎ先の自室に飾っております。主人にも誠にありがたきお褒めの言葉をいただきました。
いただいたお手紙、大切に何度も読み返しておりましたのに、ようやく落ち着いて筆を執る時間ができました。返事が遅れまして、どうかお許しくださいませ。
ご懐妊のこと、そしてお子さま方のご成長、心よりお喜び申し上げます。とはいえ、続けてのご懐妊は、さぞやごお身体に堪えられるかと存じます。お忙しい日々の中、どうかご無理をなさいませんよう。
わたくしは嫁ぎ先の家にも恵まれ、ありがたいことに忙しくも、穏やかな日々を過ごしております。結婚してからは、近所の子供たちの声や笑顔に、ふと心を和まされることが増えました。これまではただ通り過ぎるだけだったのに、不思議なものです。
千里のように、家を守り、子を慈しむ妻であり母であれるよう、わたくしも励んでまいりたく存じます。
なお、この度の結婚により「香月」と姓が変わりましたことを、あらためてお伝え申し上げます。
これから暑さが増してまいります。どうぞご自愛くださいませ。
かしこ
香月綾乃
※※※
綾乃:
千里が実家から届いた画材を恍惚とした顔で見ていたかと思えば、何かを手際よく準備をし始めた。
「千里?何を始めるの?」
千里:
「手彩色にございます」
綾乃:
「…手彩色?」
封筒から紙を取り出し、板に置いて留め具で四方を止めた。机の上に置き直すと、灰色の桜が目に入る。
「その写真は…、中庭の」
千里:
「はい。この桜に色を乗せていくのです」
綾乃:
細筆に、薄く淡紅色をとり、桜の花弁一枚一枚に丁寧に色を置いていく。その後花びらの重なりや、影に、少し濃く色を置く。千里が色を置く度に、桜は柔らかく咲いていき、まるで命を吹き込む魔法のようだった。
「綺麗…」
千里:
「お姉様もやってみますか?」
綾乃:
「…いえ」
「その様な美しいものに手を加える技術は持っておりませんから」
千里:
「では、手彩色ではなく、絵にしましょう。少々お待ちください」
綾乃:
そう言うと千里は写真を脇に移し、卓上に真っ白の画用紙を取り出して、窓の外の紫陽花を指差しながらわたくしに渡すように筆を硝子皿に置いた。
「いえ…、やっぱりやめておきます」
千里:
「どうしてですか?」
綾乃:
「だって、絵の描き方なんて、とんとわからないのです」
「どのように描き始めればよいのかさえ…」
千里:
「絵は想像の世界です。正しいも間違いもありません。お姉様が感じたままに描けばよいのです」
「…こんなふうに」
綾乃:
そう言うと、千里は筆に緑を取り、紫陽花の葉を半分描いて見せて、私に筆を渡す。
千里:
「次はお姉様の番です」
綾乃:
「ええっと…」
筆を受け取ったものの、腕は固まり、頭も真っ白になる。紙の白さが、余白の広さが、まるでわたくしを試すようにこちらを見つめ返す。
失敗したらどうしよう――。幼いころから何をするにも型や手順ばかりを気にしてきたわたくしには、「間違いはない」という千里の言葉が、むしろ重く響いた。
それでも、促す千里の瞳に背中を押されるように、ためらいがちに筆先を落とす。紙を滑る感触が、意外にも柔らかく心地よい。
最初に描いた線は心許なく、今にも崩れてしまいそうに頼りない。千里がさらに筆を出し、茎を描き足した。その線はわたくしのものとは違い、迷いなく、美しい。その頼もしさに支えられて、わたくしの筆もまた、少しずつ迷いを振り払っていった。
交互に線を重ねるうち、紫や水色、淡紅の花弁、葉の緑が画用紙いっぱいに広がっていく。いつの間にか画用紙の紫陽花は、外の庭に咲く紫陽花よりも大ぶりで、どこか華やかな花が咲き誇っていた。
わたくしの線からも迷いは消えており、その色鮮やかな紫陽花は、まるで千里と出会ってからのわたくしのようであった。
千里:
「とても綺麗です」
綾乃:
「…ええ、そうね」
千里:
「この絵はお姉様に差し上げますね」
綾乃:
「…ありがとう」
千里:
「描き終えた水彩画は、留め具で押さえて伸ばしておきます。この時期は特に、そのまま放っておくと紙が丸まってしまいますから」
綾乃:
「…そうなのですね」
千里:
「しっかり乾いたら、改めてお姉様にお渡しさせていただきます」
綾乃:
自身の思うままに過ごす千里と出会ってから、確かに自分の中で何かが変わっているのを感じた。
まるで無彩色だったわたくしの世界に千里がその手で彩色してくれたように、少しずつ色がつき、まるで魔法のように新しい命が吹き込まれていく…。
わたくしは、自分のために生きてもよいのでしょうか。しきたりや慣習、しがらみの外で生きてもよいでしょうか。
でも、両親に報いたいという気持ちは、わたくしのなかから湧き出る本心だと思うのだけれど…。
※※※
千里:
「お姉様はご実家に帰省なさらないのですか?」
綾乃:
陽が陰り、夕闇涼しくなったころ。当番の掃き掃除の途中で千里は驚いたように声を出した。
「ええ、今年は先生からの頼まれ事があってね」
「実家に居られるのが長くてニ日だけになるの。それならいっそのこと、夏は帰らないことにしようかと」
千里:
「そう、ですか…」
綾乃:
「千里はいつまで帰省するの?」
千里:
「はい、八月末まで帰省しようと思っています」
綾乃:
「それはいいわね。ご両親にしっかり孝行してくるのよ」
「きっと成長した千里に驚かれる事でしょう」
千里:
「…はい!」
「あの、ところで、先生からの頼まれごととは」
綾乃:
「ええ。先日、台風に伴う大雨で大きな被害があったでしょう」
「幸い此処は大丈夫でしたが、生徒の何人かのご実家も被害を受けたそうです」
「なので学園としましても、義捐金をお送りするため、上級生を中心に復興バザーを開くことになりました」
千里:
「そうなのですか…」
綾乃:
「なので、私はしばらくバザーで売る品を作ったりすることになるわ」
千里:
「…!私もお手伝いさせてください」
綾乃:
「あら、よろしいの?」
「期末考査も近づいているけれど」
千里:
「あ…、ええと、…では、期末考査が終わってから、帰省するまで手伝わせていただきます」
綾乃:
「ふふ。ありがとう」
千里:
「どんなものを作られるのですか?」
綾乃:
「…絵を。花の絵を描こうと思います」
千里:
「…それは、とても素晴らしいですわ」
綾乃:
「千里のおかげです」
先日二人で紫陽花を描き進めてからというもの、わたくしはすっかりと絵を描くことが好きになってしまっていた。雨上がりの紫陽花、早朝の朝顔、夕闇に映える芙蓉。
日々の中に暇を作り、どちらともなく筆を取り出して絵を描く。そんな生活が気づけば早くも一月ほどになり、いつしか机には水彩の匂いが漂い、棚には紐を渡して画用紙が吊られ、部屋はすっかりアトリエのようになっている。
千里:
「今まで描いた絵もお売りになるのですか?」
綾乃:
「ええ、わたくしの描いた絵が復興の助けになるならと…」
「以前書店で、見た欧羅巴花暦の本のように、花言葉を添えて売ろうかと」
千里:
「…そうですか」
綾乃:
「…ふふ、心配しなくても、あの紫陽花は売りませんよ」
あれはわたくしを変えてくれた絵ですからね――
「さて、では千里。帰省できるようにしっかり課題を済ませて、期末考査を通過するのですよ」
「このところ絵に心を奪われて、課題が疎かになっているようですわね」
千里:
「はい…、精進いたします…」
※※※
綾乃:
拝啓
有馬義助様
有馬こはる様
梅雨も明け、青空に白い雲の映える季節となりました。貴地におかれましても、皆さまお健やかにお過ごしのことと存じます。
このたびは、貴家よりお預けいただいた画材を日々千里様とともに使わせていただき、心より感謝申し上げます。慣れぬ筆遣いではございますが、その一色一色に新しい喜びを感じております。
実は来月、学内で催される復興バザーにて、千里様と二人で描いた花の絵を出品させていただくこととなりました。感謝の気持ちを込めて、阿蘭陀撫子の絵を描きました。本日このお手紙に同封いたします。拙い出来ではございますが、受け取っていただけましたら幸いに存じます。
千里様は、この春お目にかかった頃よりも、ますます聡明で頼もしくなられました。新しい環境にもすっかり馴染み、日々を自分らしく過ごしておられるご様子を、間近に拝見し、わたくしもまた励まされております。
千里様とご一緒できることは、私にとって大きな喜びでございます。あのように明るく、真っ直ぐに心を傾けてくださる方と日々を共にできること、そして、そのようにお育てくださったご両親に、深くお礼申し上げます。
いつか直接お目にかかり、お話をさせていただける日を心待ちにしております。とは申せ、ご多用のことと存じますゆえ、叶う日を静かに楽しみにいたしております。
盛夏のみぎり、皆さまのご健康とご多幸をお祈り申し上げます。
敬具
古賀綾乃
※※※
千里:
「では、行ってまいります」
綾乃:
「ええ、ご両親によろしくお伝え下さい。あと、いただきましたフィナンシェ、とても美味しかったと」
千里:
「はい、そうお伝えします」
綾乃:
駅で千里を見送った。進み始めた汽車の窓を開け、千里が手を振っている。
黒い汽車は白い蒸気をたなびかせて、あっという間に遠ざかっていく。わたくしは窓から伸びたその細く白い腕が見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。
「では、寮に帰りましょうか…」
ひとりごつ。
いつもなら、隣で千里が返事をしてくれる。そう考えて、今別れたばかりなのにと、ひとり笑いが込み上げた。
…夏休みが始まった――。
※※※
(ノックの音)
綾乃:
「はい、起きております」
起床確認のノックの音に返事をする。
復興バザーまであと一週間を切り、作業は大詰めを迎えていた。わたくしは目が覚めたら絵を描き、休憩と称しては散歩を行い道の花を集め、寮に戻ると図書室へ向かい、花言葉を調べる。または、近くで見やることのできない花については植物図鑑をみながら模写をする。そんな日々を過ごしていた。
部屋には枯れないように一輪挿しや、花瓶、果てにはコップにまで水を張り、絵の元になる花を置いている。既に絵を描く場所以外の平らな場所はすべて花で埋まっていた。
お題目は復興バザーのための絵であったが、誰がどう見ても絵に心を奪われているのは千里ではなくわたくしの方だろう。
けれど、部屋は色とりどりの花で満ちているはずなのに、静けさばかりが際立ち、筆のかすかな音だけが時を刻んている。
千里が来る以前、こんなに部屋を広く感じたことがあっただろうか。お姉様が退寮されたあとは、ただ空虚で、物がなかったから広く見えた。けれど、今この部屋には花や画材、千里の小物で溢れているのに、なぜか空いた場所ばかりが気にかかる。
「今頃、何をしているのかしら…」
※※※
千里:
今頃、お姉様は何をしておられるのだろう。
有馬の家には、今日も朝から様々な人が出入りしている。先ほどまでは船を管理している人々、今度来るのは……たしか九條家の方々だったか。いや、九條はさっき帰られたのだったか。朝に一度、お父様とお母様、女中頭から客人の名前や家業を教わったものの、もうすっかり忘れてしまった。
こんなことで有馬の娘が務まるのかと、自分でも笑ってしまうが、どうにも覚えられる気にも、覚える気にもなれない。
両親は終始笑顔を保ち、客人に挨拶を繰り返している。明日は納涼祭りをすると言っていた。大きな氷を用意し、それを削って客人や地域の子どもたちに振る舞うのだという。
「お気遣いありがとうございます。いただきます」
決まりきった言葉と表情で頂き物を受け取り、裏へ下がる。有馬の娘としての務めは、嬉しそうな顔で頂き物を受け取り、箱の中身を確認し、頂き物の目録を作ること。それをもとに中元を贈り、関係をつないでいく。毎年同じことを繰り返し。
いずれ何も感じなくなるのだろうか――いや、もうすでに、何も感じていないのかもしれない。
「……つまりません」
誰にも聞こえぬよう、ぼそりひとりごつ。
※※※
(ノックの音)
綾乃:
「はい、どうぞ」
日暮れ時、部屋のドアが叩かれる。
復興バザーまであと三日。机の上には色とりどりの花の絵を並べ、その余白に小筆で花言葉を書き入れていた。
千里:
「お姉様、ただいま戻りました」
綾乃:
「…千里?どうして…」
千里:
「この時期の有馬のお家は落ち着かないのです。朝から暮れまで客が来て、みんな忙しなく動き回っていて。わたくしも有馬の娘として、客人たちに挨拶をしていました」
「もちろん、大切なお役目だと分かっております。でも……どうしても退屈で。それより、早くお姉様に会いたくなってしまって。役目が終わるや否や、汽車に飛び乗りました」
綾乃:
「…よかったのですか?」
千里:
「お母様には怒られてしまいましたが…、お父様は笑っておいででした」
「さ、バザーまであと数日ですよね。お手伝いさせてください。今は何を?」
綾乃:
「花言葉を書き入れて、何の花の絵がいくつあるのか、目録を作っていました」
千里:
「目録を作るのは得意です。家でたくさんやってきましたから」
お姉様が机の上へ視線を戻す。花の絵には、小筆で添えられた花言葉。流れるような筆致は、まるで書道の師の手によるもののようだった。
目録に目を通し、絵を数え始める。
阿蘭陀撫子──八枚。
天竺牡丹──十二枚。
千寿菊──七枚。
向日葵──十枚。
紫君子蘭──九枚。
紫陽花──十二枚。
一枚一枚が丁寧に描かれていて、紙の向こう側に描き手の横顔が浮かぶ。きっと真剣な面持ちで紙と花に向かっていたのだろう。
同じ目録作りなのに、こうも心が躍るのはなぜだろう。きっと有馬で見た頂き物は、この絵より随分と高価で、便利で、実用的だった。でも、この花々を前にすると何の価値も感じない。
「これを全部お一人で…」
綾乃:
「…、少し熱中しすぎたきらいはあります」
「けれど、わたくしも…、千里の見ている世界を、見てみたかったのです」
千里:
「お姉様…」
綾乃:
「さ、絵はまだこちらにもありますよ」
千里:
「まだあるのですか!?」
※※※
千里:
拝啓 盛夏の候
古賀綾乃様
日ごとに陽ざしも強まり、庭の向日葵が誇らしげに咲きそろっております。
綾乃様におかれましては、益々ご健勝のこととお慶び申し上げます
先日は、心のこもったお手紙と共に、見事な阿蘭陀撫子の絵を賜り、誠にありがとうございました。わたくしどもは千里を除き、芸術というものに疎うございますゆえ、適切な言葉が見つかりませぬが、それでも胸に迫る美しさを覚えました。筆致の冴えと彩りの妙、まことに目を奪われる思いで拝見いたしました。お手紙の筆遣いもまた見事で、主人の義助も「達者なものだ」と感心しておりました。
さて、千里は家でも手紙でも、常にお姉様のことばかりを申しております。そのせいか、滞在の日程を繰り上げ、早々にそちらへ戻ってしまいました。まだ会いたいと申してくださる方々も多くおられましたゆえ、有馬の妻としては、またお姉様としても、どうぞ一度はお叱りいただきたく存じます。
しかしながら――これは家の者としてではなく、母こはる個人としての胸の内でございます――そのように思える方に巡り会い、日々を共にし、よくしていただいていることに、心より感謝をいたしております。
半年ぶりに見ました千里は、所作も言葉遣いも美しく、凛とした面持ちになっておりました。学園での学びは申すまでもなく、お姉様との出会いが、あの子をここまで成長させてくださったのだと、深く感じ入っております。
また、千里からも復興バザーのお話をうかがいました。被災地の方々のお力になれればと、主人よりも弐千円を義捐金としてお送りする所存でございます。ささやかではございますが、復興のお役に立てばと思っております。
どうかこれからも、変わらぬご縁を、長く長く紡いでいってくださいませ。
末筆ながら、季節の変わり目ゆえ、お体を大切にお過ごしくださいませ。
敬具
有馬こはる
※※※
綾乃:
「ありがとうございます。お代は確かに、義捐金として寄付させていただきます」
受け取ったお代を木箱の中にそっと収める。
昼食時も過ぎ、会場も少し落ち着いてきた。卓上の商品もだいぶ減り、人気の品は既に「売切」の札が置かれている。
千里:
「どうぞ、一口お試しくださいませ」
「わたくしたちが心を込めて焼きましたカステラでございます」
正面の机には、花模様を刺した手刺繍のハンカチや、風に揺れて歌う風鈴。奥の机には押し花の栞や、日持ちのする焼き菓子が整然と並ぶ。さらに横には、淡い水彩の絵、簪、古い着物を仕立て直した鞄などもあり、それらは次々と人の手に渡っていった。お代を払う人々の顔には、どこか満ち足りた色が差している。
お姉様が、幕裏から出てきた方と話をしている。
綾乃:
「…はい、承知いたしました」
「千里、ではわたくしたちも休憩させていただきましょう」
千里:
「はい。もうお腹が空いてしまいました」
綾乃:
「ふふ。わたくしもです」
学園の食堂で作ってもらったお弁当を受け取り、幕裏に移動する。
千里も後ろをついてきて、隣りへ腰を下ろした。
幕を一枚隔てた先は、先程までの騒音は聞こえず、静かな時間が流れていた。
千里:
「足が棒になるかと思いました。やっと座れましたね」
綾乃:
「ええ、本当に」
「でも皆さんの笑顔を見ると、疲れも薄まります」
千里:
「はい。絵もたくさん買っていただきましたし、皆さんからお褒めの言葉をいただきました」
綾乃:
「先生が、わたくしが描いたものだと皆さんにおっしゃるから、困ってしまいました」
千里:
「ふふ、そうですね」
「あんなに焦っているお姉様はなかなか見られません」
綾乃:
「まぁ、酷いことを言うのね」
千里:
「…疲れましたが…、それ以上に充実しています」
綾乃:
「ええ」
千里:
「…それにしても、商いとは、これほど休む間もないものなのですね」
綾乃:
「あら、有馬も商家でしょうに」
千里:
「わたくしは家の商いを直接手伝ったことはありません。いつも大人たちで集り難しそうな話をしておられました」
「…わたくしの有馬でのお役目は、頂き物を嬉しそうな顔で受け取ることぐらいです」
綾乃:
「…そうでしたか…」
見ると、千里は箸の先で芋を突きながら、顔を下に向けている。
「…わたくしの家は町の紙屋でね。紙屋の娘が読み書きができぬでは格好がつかないから、自分で髪を結うよりも先に文字の読み書きを仕込まれたわ。…字も、美しく書けるよう厳しく躾けられた。それが当たり前の環境だったから嫌だと思ったことはありませんけれど…、…家には家の事情があります」
美しく書けるようになった字は、何度もわたくしを救ってくれた。その誇り。
一方で、紙屋の娘として、美しく字が書けることは当たり前という重み。
どちらも嘘ではない。その重みは、確かに両肩に感じている。
千里:
「…そうですね」
「お父様お母様のことは、本当に大好きです。わたしのことを、ありのまま受け入れてくださいます。写真や絵も、一度だって叱られたことはありません」
綾乃:
そう言うと千里は、そっと箸を置く。
千里:
「けれど…、有馬は好きではありません。人の出入りが多く、夏や冬はとりわけ忙しない。…ニ週間も居たのに、結局お二人とゆっくりお話しする時間も取れませんでした」
「…でも、お父様とお母様がありのままのわたしを愛してくだされるだけの余裕があるのは、有馬のお家があってこそなのです」
綾乃:
好きと嫌いが同じ家に住んでいる。どの言葉を選べば、わたくしは彼女の中の両方を壊さずにいれるのか…。
千里がふと顔を上げ、わたくしの目を真っ直ぐと見つめる。
千里:
「きっと、お姉様なら…、有馬でも上手にやっていけるのでしょうね」
綾乃:
「…」
千里:
「…すみません。つまらない話をしてしまいました」
綾乃:
「…そんなことはないわ」
千里:
「バザーの準備で走り続けて、ふと立ち止まったら、少しだけさみしく感じてしまいました」
綾乃:
千里が、悲しげな顔で無理やり笑っている。
やはり返す言葉は見つからず、代わりにそっと手に手を重ねた。千里の手は固く結ばれ、小さく震えていた。
千里:
「バザーの目録作りがとても楽しかったのです。有馬でも、次の中元のために頂き物の目録を作りました」
「お菓子や流行りのもの、硝子細工など、様々な物を頂きました。高価で、珍しくて、実用的で…。でも、こころは何一つ動かなかったのです」
「ですがお姉様としたバザーの準備は違いました。一つ一つの品に愛情を感じ、とても暖かく……、楽しかったのです」
綾乃:
「…それはよかったです」
千里:
「バザー、手伝わせてくださって、本当にありがとうございます」
綾乃:
「それはこちらの台詞です。力をお貸しくださり、本当に感謝しています」
千里:
「……」
綾乃:
「さ、休憩が終わったら、あと少し頑張りましょうね」
千里:
「…はい」
綾乃:
…わたくしは、なんと返せばよかったのだろう。
わたくしたちはまだどうしようもないほどの未熟者で、自立もままならない。
家が違えば事情も違う。事情が違えば立場も違う。
千里の悩みや苦悩は、きっと欠片ほどしか受け取ることができていないわたくしが…。
※※※
綾乃:
拝啓
残暑なお厳しき折、こはる様には益々ご清祥のことと、また義助様ご一同におかれましてもお変わりなくお過ごしのこととお慶び申し上げます。
去るお盆も無事に過ぎ、朝夕の風にほのかに秋の気配を覚える頃となりました。
このたびはご丁寧なお手紙を賜り、誠にありがとうございます。また、拙き絵に過分なお言葉を頂戴し、身に余る光栄に存じます。
とは申せ、実はわたくしこそ千里様より多くを学び、日々の務めがこれまでになく充実いたしており、むしろ感謝の思いでございます。絵もまた、千里様に誘われて筆を執ったのが始まりで、それまではただ眺め楽しむばかりでございましたが、今では暮らしの中に欠かせぬものにまでなりました。
お手紙を拝読し、また千里様よりご両親のお話を折々に伺い、互いを思いやられる深いご愛情に、わたくしの胸までも温めていただいております。お二人の話をなさる時の千里様は、ふだんよりいっそう柔らかく微笑み、その表情だけでも有馬家の温かいご様子が伝わってくるようでごさいます。
おかげさまで、先日の復興バザーは盛況を極め、予定の刻限を待たずに品がほとんど売り切れるほどでございました。
千里様も店頭に立ち、呼び込みの声を張り上げることも臆せず、時にはお客様と笑いながら品物を包んでおられました。包み紙を折る指先が器用で、出来上がった包みを差し出すときの少し誇らしげな表情は、そばで見ていても微笑ましいものでした。
千里様も、お客様と直接関わる事はとても充実していたようで、寮に帰る道でも「またぜひやってみたい」「まだ知らぬ仕事の事を知っていきたい」と胸を弾ませておりました。
さて、実は古賀家は町にて小さな紙屋を営んでおります。もしよろしければ、冬の休暇にでも、拙宅へお連れいたし、ささやかながら紙屋の仕事をお目にかけとう存じます。何分田舎のことで、格別なお構いもできませんが、その折にはどうぞお許しくださいませ。
末筆ながら、こはる様のご健勝とご一家の弥栄を心よりお祈り申し上げます。
敬具
古賀綾乃
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