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花暦(男0:女2)???

花暦――紅弁慶《カランコエ》

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綾乃:
 朝日とともに目が覚めて、鏡台の前に座り、髪を結い直した。診察室と待合室の火鉢に火を入れて、手桶ておけを持って井戸へ向かい、一日分の水を汲む。家用と医院用に分けるのは、もうすっかりならいになった。
 水釜みずがまから柄杓ひしゃくで汲み、顔を洗って気を引き締める。それから米を研ぎ、かまどに火を入れる。ぱちぱちと薪がはぜ、白い湯気が立ちのぼる。
 米櫃こめびつが軽くなり始めている、年越しが近づいて本格的に忙しくなる前に、またお米屋さんに行って貰ってこなければならない。
 啓一けいいちさんは忙しく、昼を抜くことも多い。だからこそ、朝はしっかりとしょくを整えておく。やがて啓一けいいちさんが足音を立てて起きてきて、二人並んでちゃぶ台に向かう。
 食事を終えたら着物を改め、診察机の帳面を整える。忘れないうちに譲葉ユズリハの水を変え、ついでに鏡餅用のダイダイの様子も確認した。まだ緑が残り、香りも立たないが、家に来た頃と比べると幾分か鮮やかな色になってきている。
 表でコトンと音がして、手紙が届いたようだ。玄関先の郵便受けを覗くと、やはり啓一けいいちさん宛ての手紙が数通。束の中には、千里ちさとからの便りも混じっていた。

千里:
 拝復はいふく
 香月かづき彩乃あやの

 冬の空気もいよいよ冴えわたり、この頃は曖昧になっていた世界とわたくしの境界をはっきりと感じています。わたくしが有馬ありまに戻ってもう一月ひとつきが経とうとしています。

 今年も有馬ありまでは冬の騒がしさが始まりました。けれども今年は怪我のこともあり、人前に出ることを控えておりますゆえ、かえってその賑わいが身に余り、居心地の悪さを覚えてしまいます。心は早く九條くじょうに帰りたく、置き去りにした娘たち、ことに生まれたばかりの子を思うと、胸の落ち着く時がございません。わたくしが居ないことで辛い思いをしているに違いないと、そればかり案じております。

 怪我の具合も、おかげさまで幾分は良くなってきておりますが、実際にはまだ筆を取ることもままならず、こうして代筆にてお便りを差し上げております。それでも一日も早く九條くじょうへ帰り、子らの元気な声を聞きたいという思いばかり募っております。

 父母は少なくとも年明けまでは有馬ありまに留まるようにと申しております。その言葉に逆らうこともできず、娘を九條くじょうに残したままにしてしまった後悔が、夜ごとに私をさいなみます。

 またこうして弱音を吐き、甘えを洩らしてしまいました。実家の空気に触れ、お姉さまの事を考えると、どうしても幼き頃の心持ちに戻ってしまうようでございます。己を律し、少しでも精進せねばと念じております。

 どうかお姉様も、お体を大切に、この寒さを健やかにお過ごしくださいませ。

 かしこ
 千里ちさと

綾乃:
「…また」

 …名前の漢字を間違えている。
 その流麗りゅうれいな文章と、不釣り合いな綻び。その違和に胸がざわつくのを感じた。
 千里ちさと…今どうなさっているの…?
 その時、「ごめんください」と、玄関の方で年配の女性の声がする。

「はい!ただいま参ります」

 玄関へ向かうと、声を出した年配の女性と、もう一人、その人に連れられた女性。
 頭の上半分に包帯を巻き、右手は硬く握り、左手は女性の裾を掴んでいる。
 …少し痩せただろうか。と言うよりは、ひと回り小さくなったようにさえに感じる。

千里:
「…ごめんください、目を…診て頂きたいのです」
「こちらが良い医者だと聞きました」

綾乃:
「……千里ちさと…?千里ちさとなのですか?」

千里:
「…!……その声…、お姉様…!?…お姉様なのですか…?」

綾乃:
 声に反応した千里ちさとは、すぐに振り返って走り出した。もっとも、包帯で塞がれた目では走ることはままならず、すぐにつまづいて地面に倒れ込んだ。

千里ちさと!大丈夫ですか!?」

千里:
「お姉様…、申し訳ございません…」

綾乃:
「なにに……、謝っているのですか…」

 千里ちさとは観念したのか、起き上がろうともせず、ただ地面に顔を向け、震えるその手で砂を握りしめている。

千里:
「…この姿を、わたくしを…お姉様だけには見られとうございませんでした…」

 ※※※

綾乃:
「これは、どうされたのです」

千里:
「はい。…燭台しょくだいが着物のすそに引っ掛かり、中の油が顔に掛かってしまいました」

綾乃:
 …倒れた燭台しょくだいの油が…、顔だけに…?そんな事、普通ならば起こらない。着物が引っかかったのであれば、膝下にかかるのが普通。顔にかかるのであれば、それは燭台しょくだいに、顔から倒れ込まなければならないだろう。
 手足の応急処置を済ませ、一度手を綺麗に洗い直し、包帯の除去を始める。
 診察室の中は、すすけた油灯の匂いと薬草の乾いた香りが漂っていた。千里ちさとは包帯を動かす度に悲痛な息づかいを上げ、その声にならない悲鳴を聞く度に処置を進める手が震える。
 布の下から現れた顔は、右眼の周囲が火傷の痕で覆われていた。赤黒く盛り上がった皮膚、ところどころ乾いて硬化し、別の箇所では薄い皮膚が張っては破れ、分泌液がにじんでいる。また、包帯の一部は皮膚に癒着さえしており、あたたか硼酸水ほうさんすいで湿らせながら、少しずつ剝がしていく。左眼に火傷の様子はないが、こちらも光は見えないとのことだった。
 啓一けいいちさんが横からのぞき込み、険しい顔をした。
 酷い…。

「少し、染みるかもしれません。我慢ください」

千里:
「ッ…!」(少し痛がる。しかし声を出すのを我慢している)

綾乃:
 千里ちさと苦悶くもんに顔を歪め、しかし唾液を飲み込んで声を押し殺した。
 右眼は火傷による角膜の白濁はくだくで既に視力を失っている。左眼は光に反応している様な瞳孔の収縮は見られるが、何度か確認してもやはり見えないと話す。
 啓一けいいちさんの筆が診察録に走る。しかし治療方針の欄に入ると手が止まる。それはある事実を雄辯ゆうべんに語っていた。

「すこし、待っていてくださいね」

 千里ちさとと女性を診察室に残し、啓一けいいちさんと状態の確認をする。右眼に関しては視力の回復は見込めないようである。適切な治療が行われず膿が溜まり、感染症になっている可能性もある。できることはこれ以上のやまいの進行を抑えることだけ。
 傷口を切開し、膿を抜いて洗い、薬を塗る。かなりの痛みを伴う処置だ。しかし、行わなければ命さえもなくしかねない。
 左眼に関しては、心因性と判断される。恐怖や、悲しみ、こころがもう見たくないと強く感じた際に脳が視覚情報を遮断するのだそうだ。はっきりとした治療法はなく、ただ安静にと伝えることしかできない、と。
 千里ちさとは決して、啓一けいいちさんの前で九條くじょうとも有馬ありまとも名乗らない。名前を聞かれた際にはただ、静かな声で「千里ちさとと申します」とだけ答えた。

 ※※※

千里:
 昨日、目について詳しい医者が町外れにいると聞いた。
 女中を一人だけつけ、人目を避けるためにまだ朝露あさつゆの匂いがする早朝にかごを使って街を出た。…いてみればこれだ。
 まさかお姉様がいるなんて…。
 香月かづきは医者の家だったのか。女中が「知り合いがいるとは」と謝罪してくるが、確認を怠ったわたくしのせいだとなだめた。
 音がして、どうやらお姉様たちが部屋に戻ってきたようである。

「目は…」

 そう口にした途端、診察室の空気が固まり、誰かが唾を飲み込む音が聞こえる。

「……そうですか。わかりました」
「これからわたくしはどのようにしたら良いのですか?」

綾乃:
「…、顔の火傷に関しては、膿が溜まっている部分がありますので、切開し、中の膿を出します。その後硼酸水ほうさんすいで洗い、薬を塗ってこれ以上の悪化を防ぎます。この処置はかなり痛みを伴いますが…」

千里:
「わかりました、やってください」

綾乃:
「…、次に右眼に関してですが、こちらも消毒を行い、様子を見させてください。もし症状の改善が見られるのであれば点眼で炎症を抑えます。しかし…、正直なところ、視力の回復は難しいと思います。これは医術の及ぶところではございません」

千里:
「…はい」

綾乃:
「左眼は…」

 啓一けいいちさんが卓上のランプを取り上げ、左眼に光を当てる。黒い瞳孔どうこうが収縮し、離すとまた広がっていく。

「…わたくしたちにできることは何もありません…。眼そのものの機能は生きています。光を知覚し、瞳孔どうこうの収縮なども確認できます。それでも見えないと申されるのであれば、それはこころの方に問題があると推察されます」

千里:
「こころ…?」

綾乃:
「はい。不安や恐怖、そう言った感情を強く感じることで、脳が「もう何も見たくない」と視覚を閉ざしてしまうのです。これには医学の及ぶところはございません。ただ、安静にして、またこころから見たいと思えるのを待つしかありません…」
「…その身体で何度も往診おうしんされるのは大変でしょう。産後で体力も落ち、感染の危険も高まります。静養にはわたくしの部屋をお使いください」

千里:
「…それは、ということでございましょうか」

綾乃:
「もちろんです」

千里:
「…。わかりました。しばらくお邪魔になります」
「どうぞよろしくお願いいたします」

綾乃:
 啓一けいいちさんが小刀を火で炙って消毒し、石炭酸せっかいさんを垂らして冷ます。白くなった膿を切ると、切り口からじわりと膿が溢れて、独特の臭気を放つ。すぐに銀のさじでそっと押さえ、溜まった膿を外へと導く。
 相当痛いのだろう。千里ちさとは「ふっ…ふっ…」っという荒い息遣いをして、額には玉のような汗が浮かび、その手は固く固く結ばれている。
 啓一けいいちさんの処置が終わるとすぐに脱脂綿で抑える。膿だまりの数だけ同じ処置を繰り返した。


「少し染みますよ」

 火傷の処置が終わると、目の処置へと移る。消毒した小さなガラス管で希釈液を一滴ずつ垂らし、目頭から外へと流す。薬液が瞳を洗い、溜まった膿や血を押し流していく。瞬きで痛みを訴えそうになる千里ちさとのまぶたを、そっと指で支えた。

「今日の処置はここまでになります。…よく頑張りましたね」

 最後に丁寧に包帯を巻き直し、そう伝えた。

千里:
「…、ありがとう、ございます…」

綾乃:
「…手が…。消毒します、少々お待ちを」

 千里ちさとの手は深く強く握り込まれ、爪が皮膚を裂いて血がにじんでいた。しかし本人は気づいていない。顔の激烈げきれつな痛みに、すべての感覚を持っていかれているのだ。

「起き上がれるようになるまで、少しここで休んでいただいて大丈夫です」

千里:
「…、もう、…動けます」
「ここにいては、次の患者さんの…迷惑でしょう」

綾乃:
「ご無理をなさらないで」

千里:
「部屋で、休ませていただきますから。案内を……お願いします…」

綾乃:
「……。では…」

 千里ちさとの手を引いて自室へ導く。千里ちさとは慣れぬ間取りに苦戦しながらも横たわり、「あとは大丈夫ですから、他の患者さんの方へ」と話す。
 …こんなに強い子だっただろうか。少女らしさや、時折見せる弱音は一欠片ひとかけらも感じない。わたくしが学園を出てから、彼女はどんな経験をしたのだろうか…。

千里ちさと。ここでは大丈夫を装う必要はありません。何があったのかは分かりませんが、わたくしはただ、あなたを守り、癒したいだけなのですから」
「…少ししたら様子を見にきます。それまでは休んでいてください」

 ※※※

千里:
「ん……」

綾乃:
「目が覚めましたか」
「あの方は帰らせましたよ」

千里:
「…そうですか」

綾乃:
「毎週有馬ありまに状態をお手紙にすると取り決めました」

千里:
「わかりました…」
「…今、何時頃でしょうか」

綾乃:
「正午を少し過ぎたところです」
「身体を起こせますか?少し水を召し上がってください」

千里:
「…はい」

綾乃:
「さ、どうぞ」

千里:
「…ありがとうございます」

 顔はまだ熱くひりつくが、肌のつっぱりは幾分か穏やかになったように感じる。何かが喉を通るときの右頬の引きつりもさほど気にならない。

「お姉様の旦那様は良い腕ですね…。お抱えにしたいくらいです」

綾乃:
「…ありがとう」
「ところで、どうしてここに…、九條くじょうにも有馬ありまにも、お抱えのお医者様くらいいるでしょう」

千里:
「…。その話題は、避けては通れませんね…」

綾乃:
 千里ちさとはもう一口水を含み、ゆっくりと飲み込む。その後にカップを持つ両手を膝の上に降ろした。
 こんな時でさえ、彼女の背中は真っすぐだった…。

千里:
「…事を荒立てたくはなかったから、と申しましょうか…」

綾乃:
「…どういうことかしら」

千里:
「きっと今、九條くじょう有馬ありまは大層揉めております」
「…ですが、…どうにもならないでしょう」
「お姉様もご存知でしょうが、有馬ありまは貿易で財をなしたいえ。一方で九條くじょうはこの地の船の大半をまとめております。有馬ありまにも船はございますが…」
「夏や冬には九條くじょうの方から有馬ありまさんじるのがつねでございました。世間は有馬ありまの方が上と見ていたのでしょう…。ですが、九條くじょうの船を欲しがっていたのは有馬ありまなのです」
「――つまり、有馬ありま九條くじょうの婚姻は、対等な関係とは申せません。その九條くじょうが、医者に診せないと判断したのであれば、そうやすやすと有馬ありまの医者に頼る事はできません」

綾乃:
「…そんな…事で…?」

千里:
「…、そんな事?」
「そんな事ではありません。わたくしが耐えれば、双方の家に大きな益がある。大切なことなのです」

綾乃:
「ですが、それで千里ちさとが光を失わねばならぬ道理はなかったはずです。右目に関してはともかく、左目までは…!」

千里:
「……」

綾乃:
(涙を押し殺しながら)
「…答えてはくれないの」

千里:
「…お姉様…、泣いておいでなのですか?」

綾乃:
「…ええ」
九條くじょう有馬ありまの事情に巻き込まれて、あなたは花をでる事も、芸術を楽しむことも…、……子らが成長した姿を見ることさえできないかもしれない…」

千里:
「……」

綾乃:
「あなたが強くなりすぎたから。代わりに泣いているのです」
「あなたはもっと弱くて、もっと可憐で、ありのまま、自分らしく生きる女の子だったはずなのに…。たくさん耐えてきたのでしょう。…どれほど辛かったでしょう…」

千里:
「……幼き頃の話でございます」

綾乃:
「今あなたとお話ししていて、ずっと胸に引っかかっていたことの訳がわかりました」
「あなたからの手紙はとても丁寧で、てっきり学園での生活を経て、しとやかな婦人になられたのだと思っておりました。けれど、あなたは手紙の中でさえ千里ちさととしてではなく、九條くじょうの嫁としての役割を貫いていたのですね」
「……一体、九條くじょうでどのような扱いを受けてきたのですか」

千里:
 ――言えるはずもない。
 日々、手を上げられること。理不尽な夜の勤め。男子を産めぬと責め立てる声。「千里ちさと」としてではなく、「有馬と縁を結ぶための駒」としてのみ扱われてきたこと…。この火傷だって……

「……」

綾乃:
「…これにも答えてくれないのですね」

千里:
「わたくしは有馬ありまの娘で、九條くじょうの嫁です。そして、子らの親でもあります」

綾乃:
「…立場ではなく、あなたの中の千里ちさとはどこにいるのですか」

千里:
「わたくしの中の、千里ちさと…?」

綾乃:
「花が好きで、絵や写真を愛し、少し甘えん坊で、可愛らしい、自分らしく生きている千里ちさとはどこに行ってしまったのですか…!」

千里:
「…ありのままの自分で生きることなど…」

綾乃:
「ありのままの自分で生きることは、あなたが学園で二年間わたくしに教えてくれた事でしょう!」

千里:
「その二年は…!」
「…。…わたくしがお姉様に習った二年でもあります」

綾乃:
「…そんな…」

千里:
 光を失った今でも、今お姉様がどのような顔をしているのか、手に取るようにわかる。眉を下げ、目を見開き、こちらを見つめていることだろう。
 わたくしがどれほどお姉様を見つめていたか。
 わたくしが、どれほどお姉様に憧れていたか…。

綾乃:
 千里ちさとの顔が真っ直ぐにこちらを向く。包帯に包まれ、その目は光を失い、それでもこころの奥を見つめられているかのよう。
 診察室の方からわたくしの名を呼ぶ啓一けいいちさんの声が聞こえる。助けが要るのだ。
 香月かづきには毎日たくさんの患者様が来る。…千里ちさとだけにこころを傾けるわけには行かない…。

「……、後でかゆをお持ちします…」
「それまでしばしお休みください……」

千里:
「…はい」

綾乃:
 逃げるように部屋を後にした。
 診察室には木から落ちたと言う子どもが泣いていたが、大した怪我ではない。啓一けいいちさんはとても優しいが、子どもにわかりやすい優しさをお持ちではないから、きっとわたくしを呼ばれたのだろう。

「もう大丈夫ですよ。診療所に着きましたから。安心してね」

 この子どものように、泣きじゃくってくれたら良いのに…。

 ※※※

千里:
(荒い息遣い)

綾乃:
(夜なので声を押し殺しながら)
「きゃあ!」

千里:
 バチンと、手に硬いものが当たる感覚と、お姉様の押し殺した悲鳴で目が覚めた。徐々に身体に感覚が戻ると、右腕に鈍い痛みを感じる。
 肌衣はだごろもが汗で張り付き、喉が焼けつくように渇いていた。今日もうなされていたようだ。

綾乃:
「…大丈夫ですか?」

千里:
「わたくし…いま…」

綾乃:
 千里ちさとが見えない目で覗き込むように、手を自身の顔の前に出す。

「…ごめんなさい。わたくしが急にあなたに触ったから、驚いて振り払ってしまったみたいです」

千里:
「申し訳…ありません、怪我はないですか?」

綾乃:
「尻もちをついただけです。何ともありません」
「それより、千里ちさとの方は大丈夫ですか?」

千里:
「……当ててしまいました。右手が痛みます」

綾乃:
「大丈夫です。きちんと腕で受けましたから」

千里:
「…」

綾乃:
「ひどくうなされていましたね。汗もたくさん…。そのままでは風邪を引いてしまいます。身体を拭きましょう」

千里:
「…ありがとう、ございます」

綾乃:
 あかりをともし、手拭いを濡らす。布越しに白い肌を撫でる。右腕は赤く痕になっていた。千里ちさとの白い肌は赤い痕がよく目立つ。
 腕を内側に返すと、前腕に黄ばみと青黒さが残っている。背にも同じ影を見つけた。
 何度も強い衝撃が与えられた後に残る痕、…色素沈着しきそちんちゃく。言葉にせずとも、彼女の身体が九條くじょうでの生活すべてを語っていた。
 もう九條くじょうから離れ、一月ひとつき以上も経つというのに…。

「…どうですか、気持ち良いですか」

千里:
「…はい、見えなくなってから湯浴ゆあみもろくにできておりませんでしたので、こころまで洗われる心地です」

綾乃:
「あら…。顔の状態が良くなれば、また湯浴ゆあみもできましょう」

千里:
「それはうれしい限りです」

綾乃:
「…今夜は久しぶりに一緒に寝ましょうか」

千里:
「また子ども扱いを…」

綾乃:
「違うわ。うなされていたあなたが心配なのよ」

千里:
「…。そうですか…」

 …もう、涙はでないけれど――…

「外は…、月が出ていますか?」

綾乃:
「月…?」
「…ああ、今夜は満月だったのね」

千里:
 お姉様が窓を開ける音。外からの空気が部屋に入り込む。冬の空気は冷たく、カーテンが揺れる衣擦れの音が聞こえる。
 揺れるカーテン、慈愛に満ちた顔、声。純白のナイトドレス、降ろされた長い髪。記憶の中で見た景色は――…

「…やはり、今夜は近くにいてもらってもよろしいでしょうか」

綾乃:
「ええ、もちろんよ」

 ※※※

綾乃:
 朝日とともに目が覚める。隣には千里ちさとが安らかな寝息を立てていた。
 ――あどけない横顔は、まるで少女のまま。
 もし有馬ありま九條くじょうに振り回されることなく過ごしていたなら、花や絵や、甘味を楽しむ、平凡な娘でいられたのかもしれない。
 千里ちさとを起こさぬよう身を起こす。
 鏡の前で髪を結い直し、水を汲みに井戸へ向かった。

千里:
 お姉様がそっと動く気配で目を覚ました。私に気を遣い、音を立てまいとしている。
 昔からそう。風邪をひいたときも、夜更かししたときも、気づかぬふりをして静かに世話を焼いてくれた。
 お姉様は起きてから五分と経たぬうちに、部屋から出て行かれた。
 ドアの開閉に合わせて冬の空気が部屋に入り込む。ドアの向こうで火鉢の炭に火を起こすかすかな音が聞こえる。パタパタという足音ののち、玄関が開く音。きっと水を汲みに行ったのだろう。

綾乃:
「あら、起きていたのね」

千里:
「はい、先ほど」

綾乃:
啓一けいいちさんが起きたら包帯を改めましょう。でも、その前に朝ごはんね」
「先ほどご近所から大根を頂戴しましたの。味噌汁にして頂きましょう」

千里:
「良いですね」
「……お手伝いできたらよかったのですが」

綾乃:
「あら、じゃあ後で味噌汁の味をみてもらいましょうか」

千里:
「ふふ、はい。それぐらいでしたら」

 トントンと、まな板の上で包丁が踊る。焼き網の上で魚がパチパチと鳴り、溶けた味噌の香りがひろがる。
 ……うなされずに朝を迎えるのは、いつ以来だろう。こんな穏やかな朝も。

綾乃:
千里ちさと、どうかしら」

千里:
(味噌汁を味見して)
「…とても美味しいです。本当に」

 昼になると、香月かづきの家は老若男女の声で満ちる。医者は患者を選ばないと聞いた。昼食をる時間もない日もあるのだという。
 ここでわたくしにできることとは、なんだろう。ただ居座るだけではいられない。お皿を洗うこと、洗濯物を畳むこと。目が見えなくてもできることはあるはずだ。お姉様へ申し出てみよう。

 …子らはどうしているだろうか。九條くじょうは、有馬ありまは。
 わたくしがいる間は子らに手をあげられることはなかった。けれど、わたくしという波止はとがいなくなったことで、その荒い波が子らに押し寄せていなければよい。

 …駄目な母親だ。この目は子らの成長すら、もう見たくないと感じたのか。
 お姉様はああ申していたが、いつか光を取り戻す日が来るのだろうか。
 「もう見たくない」と思ってしまったわたくしを許して、この目は光を取り戻すのだろうか。

 ※※※

綾乃:
 朝日とともに目が覚める。体を起こすと千里ちさとも目を覚ました。

千里:
「…ん、おはようございます、お姉様」

綾乃:
「おはよう。起こしてしまったかしら」

千里:
「お気になさらず。朝なのでしょう、鳥の歌が聞こえます」

綾乃:
「そうね。さて、では井戸に行ってまいりますね」

千里:
「はい。あの、その前に…何か家の中で手伝えることはありませんか?」

綾乃:
「手伝えること…?」

千里:
「はい、料理や火の管理はできませんが、皿洗いや物を畳むぐらいなら、この体でもやれるかも知れません」

綾乃:
「そう…、でも、別に無理をしなくても良いのですよ」
「ここにはお役目でいるのではないのですからね」
「ただ居るだけでは暇でしょうが…」

千里:
「…お役目?」

綾乃:
「あ、いえ。なんといったらよいのでしょうか…」
「…わたくしが言いたいことは、まずはこころと身体を休めるのが一番だということです」
「ゆっくりと自分らしく居ることが、何よりの治療なのです」
「もちろん、本当にやりたいのならお願いさせていただきます。ただ、今一度自分の気持ちを確かめてみてほしいのです」

千里:
「ぁ……わかり、ました」

 水を汲みに、お姉様が部屋を出ていかれる。

 自分の気持ち?本当にやりたいかどうか――。
 “お役目”とは課せられるものであって、選ぶものではないはずだ。
 香月かづきのおいえにお世話になる以上、そのお手伝いをするのは当然のこと。確かに病人ではあろう。しかし目が見えない以外は身体も動き、言葉も話すことができる。にも関わらずただ座って世話を受けるだけとは…、これではただの厄介者だ。
 それなのに、「やりたいかどうか」を聞かれるとは…。
 残された間取りも分からぬ部屋の中は、ただ無音の闇に包まれて、どこに向かえばよいのかも分からない。

「…分からないのです」

 自分がやりたいことも…、存在していて良いのかさえも…。

 ※※※

綾乃:
 有馬ありま義助よしすけ
 こはる様

 ご無沙汰しております。
 かつて幾度か書簡を交わしました、綾乃あやのにございます。

 現在は香月かづきいえに嫁ぎ、町医者の手を助けて暮らしております。今回、千里ちさと様の来院は全くの偶然によるものではございますが、縁あって手を尽くしたく存じます。

 まず顔の火傷の件につきましては、膿を抜き、薬を施すことで、今後は症状の軽減が見込まれております。処置は継続中です。右眼みぎめは火傷により白濁し失明しております。視力の回復の可能性は低いと言わざるを得ません。
 一方で左眼ひだりめは、少し複雑ですが、光を当てた際の瞳孔の収縮などは確認され、眼の機能は生きております。しかしそれでも見えないと申されるので、精神的な要因が強く疑われます。こちらは回復の可能性がありますが、医学の及ぶところではございません。ただ安らかに日々を過ごし、千里ちさと様がもう一度こころから世界を見たいと思えるときが来ればあるいは……。
 また、身体の一部は色素沈着しきそちんちゃくと呼ばれる状態になっておりました。これは反復的に強い衝撃が与えられた際にできるもので、日常的に強い衝撃を身体に与えられていたことが推察されます。

 女中から既にお耳に入っているかと存じますが、しばらくは香月かづきいえに留まっていただき、治療を続ける所存です。以後の経過につきましては、週ごとに手紙にてお知らせ申し上げます。

 以上、取り急ぎのご報告まで。
 
 敬具

 香月かづき綾乃あやの 前名ぜんめい 古賀こが
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