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花暦(男0:女2)???
花暦――沈丁花《ジンチョウゲ》
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千里:
朝なのだろう。お姉様が動き出した音が聞こえる。
寝台を抜け、左に二歩。起き抜けにはいつもそこに向かわれる。きっと鏡がある。
「おはようございます」
綾乃:
「あら、今日も早いわね」
千里:
「お姉様こそ」
ふふ、と笑う声が聞こえる。いつもと同じ、穏やかな朝。しかし今日は鳥の声も聞こえず、代わりにヒュウと風が通る音が鳴る。
「今日は寒そうですね。風の音が」
綾乃:
「あら、そうなの?」
「…雲も出ています。雨が降るかもしれません」
千里:
「そうですか…」
お姉様が振り返る衣擦れの気配。五歩先で窓を開ける音がして、冷たい外気が流れ込む。湿り気を含んだ匂いが鼻をかすめる――雨の前触れだ。
綾乃:
「ごめんなさい、寒かったわよね」
千里:
「いえ、むしろ雨が降り始めたら換気ができません。今のうちにしておきましょう」
綾乃:
「…それもそうね」
「では、他の部屋も開けてきます」
千里:
「はい」
足音が遠ざかり、次の部屋の窓が開く音。続けて火鉢に炭を足し、火を入れる音。その後に玄関の扉。――水を汲みに行かれた。
三年ぶりに、夢にまで願ったお姉様との暮らしが始まった。望んだ形ではなかったが、それでも穏やかで、安らかな日常。
やがて、ぽつりぽつりと雨音が落ちはじめ、小走りで戻ってくる足音が響く。
わたくしは壁を伝いながら立ち上がった。お姉様の歩幅でここから三歩、わたくしならきっと三歩と半。
摺り足でゆっくりと進み、ぶつからぬよう手探りしながら窓の方へと進む。――ちょうど三歩半で手に掛け金が触れた。音を頼りに、窓を閉める。
綾乃:
「雨が降ってきてしまいました、窓を……」
千里:
「はい。閉めておきました」
綾乃:
「…凄い。どうやって?」
千里:
「…お姉様の歩く音で、だいたいの距離と方角を」
綾乃:
「…音で…?」
千里:
「目が見えなくなってから、耳に頼ることが増えましたので、自然と」
「特に、お姉様とわたくしは歩幅があまり変わりませんので」
綾乃:
「凄いわね…」
千里:
「ありがとうございます」
「さ、朝の日課を済ませてしまいましょう」
「今日は風もあり、雨も降り始めました。怪我をする人が多くなるかもしれません」
綾乃:
「…そうですね」
促され、朝食の支度にかかる。目を閉じ、千里の世界を少しでも追体験しようと試みる。隣でコトコトと鍋が揺れ、焼き網では魚がパチパチと弾ける。
闇の中、雑多な音は聞こえるが、それが何を意味するかは、自分が目で見て準備したからこそわかるだけだ。何も見えず、知らぬ場所に放り込まれたなら――…わたくしは千里のように振る舞えるだろうか…。
学園での二年間。精一杯千里と向き合い、良い姉を務めたつもりだった。所作も、立ち居振る舞いも、女性としての考え方も、伝えられる限り伝えた。
けれど、その果てに千里は傷つき、光を失うほどの苦しみを背負っている。
わたくしが二年間かけて植えつけたのは、それまでの千里らしさをすべて否定した、良妻賢母という偽りの仮面だったのではないか。
閉じた目の中で、黒い靄が広がっていく。
千里:
「お姉様?どうかされましたか?魚が…」
綾乃:
「あっ、ごめんなさい」
慌てて目を開ける。魚を返すと、黒く焦げ始めていた。こんなにも正確に世界を掴めるのかと、改めて胸に驚きが走る。
やがて啓一さんも起きてきて、三人で朝食を摂る。千里ははじめにちゃぶ台の縁から少しずつ触り、どこになんの皿があるのかを確かめる。来たばかりの日に一度コップを倒したことがあったが、それ以降はゆっくりながら自然な所作で食事を摂っている。
千里:
食事を終え、お姉様がお皿を洗い始める。わたくしは隣で拭き取りを行った。
正直なところ、こころから手伝いたいのかはよく分からない。でも、ただお世話になるだけでは気も引けるし、なにより「ありがとう」と言われるのは心地よかった。
ちょうど食器拭きが終わった頃に、表でコトンと音がする。どうやら郵便が届いたようだ。お姉様が郵便受けを確認に行かれた。
綾乃:
「…千里」
千里:
「…はい、なんでしょうか」
綾乃:
「有馬からのお返事が届きました」
千里:
「…早い」
綾乃:
「ええ、きっと、目を通されたその日のうちにお返事を出されたのでしょうね」
千里:
「…なんと、書いておいでですか」
綾乃:
拝復
寒気ことのほか厳しき折、いかがお過ごしにてございましょうか。
このたびは初めて筆を執らせていただきます。わたくしは千里の父、有馬義助と申す者にございます。
御書状を拝見いたしました。また、女中からの口上も承り、娘の身に起こりましたこと、あらためて胸を衝かれる思いにて存じます。かつて手紙をくだされたお嬢さまが、今は香月家に嫁がれ、しかもその御方がわが娘を助けてくださったとは、まことに仏の御心を覚えるばかりにございます。
身柄をお預かりのうえ治療までおこころを砕いてくださいますこと、父としてこれほど有難きことはございません。深く御礼申し上げます。
千里には、父として計り知れぬほどの悪しきを背負わせてしまいました。御手紙を拝し、ただちに九條へは離縁を申し入れ、三人の娘も有馬に引き取れるよう手はずを整えているところでございます。思えば、我らしか千里を守ることはできなかったはず。それを娘は敏く察し、九條と有馬の思惑に挟まれ、誰一人にも助けを求められずにいたのでありましょう。父として悔恨の念、言葉に尽くしがたく存じます。
願わくば、どうか今一度、千里を御助けくださいますよう、心よりお願い申し上げます。
以上
有馬義助
千里:
「離縁!?」
「…、本当に…離縁ですか!?」
綾乃:
「そう…書いておいでです」
千里:
「なりません!!」
「今や有馬の商いは九條の船が前提になっております!離縁はあまりにも影響が大きすぎます!」
綾乃:
「…それはわたくしにはわかりかねます」
「ですが、商いより大切なものがあったということではないでしょうか」
千里:
「…そんな」
(浅い息遣い:ハッ…ハッ…ハッ…)
「わたくしは…もう、九條に帰らなくてよい…?」
お姉様が何かを言っている音が聞こえる。隣で啓一さんも何か音を話す。
頭の奥がガンと痛んで、見えない視界がぐにゃりと曲がる。立ち上がると倒れてしまいそうで、必死にちゃぶ台にしがみついて吐き気を我慢した。何度深呼吸をしても浅い息が整うことはない。
誰かが音を話す。地面が浮き上がったような感覚がある。
――やがて意識が遠のいた。
※※※
千里:
目が覚めると、わたくしは寝かされていた。背中が柔らかい。きっと寝台まで運んでくださったのだろう。…また迷惑をかけてしまった。
外はまださめざめと雨が降り、ときおりぴゅうと強い風が吹いて戸をガタガタと揺らす。戸の向こうでは様々な人の声が聞こえるが、わたくしにはもう何も繋がらない。
離縁…。
離縁とは、すなわち縁を切ること。九條との縁のために送られたわたくしは、有馬からも見放されたのか。…用済みだと。
「母もできず、嫁もできず、娘もできませんでした」
「わたくしは、では、何ができるというの…」
目も見えない。火の管理も、料理も。花や絵を見ることも、子どもたちの成長を見ることさえも、何もできない。
「申し訳ありません…、お父様、お母様」
※※※
綾乃:
「千里…?」
「目が覚めましたか?」
千里:
そっと扉が開く音が聞こえ、続いてお姉様の声が聞こえる。背中を向けるように壁の方へ寝返りをうった。
綾乃:
「…体調はどうですか」
千里:
「……」
綾乃:
「一日中気を失っていたのよ。もうすっかり陽も暮れました」
千里:
「……」
綾乃:
(小さなため息)
「お粥とお水を置いておきますからね」
千里:
「…要りません。お腹も空いておりませんし、喉も渇いておりません」
綾乃:
「そうですか。それでも口に入れてください。本当に倒れてしまいます」
千里:
「……」
このまま消えてしまいたい――…。
「……目覚めたくありませんでした」
綾乃:
「……義助様もこはる様も、素晴らしいご両親ですね」
「何よりもあなたを大切に思っている」
千里:
「……、至らない娘で、本当に申し訳なく思っております」
綾乃:
「…どういう意味かしら」
千里:
「…説明するまでもないでしょう」
「わたくしは九條と有馬を結ぶための娘。その娘が酷い仕打ちを受けたのが有馬の知るところになり、それでも動かなければ有馬もまた非道と罵られるのです」
「…だからこそ、わたくしが墓まで黙して行くはずでした」
綾乃:
「…なにを」
千里:
「きっと、わたくしが九條で男児を産めば、すべては起こらなかった事です」
綾乃:
「子の性別など、誰にも選ぶことはできません」
千里:
「そんな理屈、どうでもよろしいのです」
「…どうでも良いのですよ」
「船を操る家に男児がいなければ世間はどう思います。荒波を渡る船を婿養子が握るなど、示しがつきません」
「九條には男児が必要で、それを産めるのは妻であるわたくしだけでした」
綾乃:
「…まるで、あなた一人が苦しんでいれば、周りが幸せだったとでも言いたげね」
千里:
「…事実、そうでしょう」
「有馬が栄えれば、お父様もお母様もお喜びになります。お兄様たちだって、家のために尽力されています。商いがうまく行けば、九條の家だって栄えます」
「家が栄えてさえいれば、娘たちはわたくしのような目には遭わずに済む」
綾乃:
千里の声はか細く、震えて届く。
あれだけの傷を受けて、なお強くあろうとした彼女が。
「その言葉、どこまで本当に思っているのかしら」
千里:
「……」
綾乃:
「…。やはり一度、ご両親としっかりお話になる必要がありそうですね」
千里:
「…合わせる顔もございません」
綾乃:
「それでもご両親は会いたいとおっしゃいます」
千里:
「…なぜですか」
綾乃:
「本当に分からないの?」
千里:
「……、わかりません」
「わたくしはすべてのお役目を果たせませんでした」
「母として子らを見届けることも拒み、九條の嫁を続けることも出来ませんでした。有馬の娘としても…、わたくしは出来損ないです」
綾乃:
「お役目も立場も関係ありません」
「御二人があなたに会いたいのは、あなたが御二人の娘だからです」
千里:
「……むす…め?」
綾乃:
「あなたがそのような傷を受けてなお、子らの事を思い、慈しむように、御二人は、有馬の千里ではなく、千里のことが大切なのです」
千里:
「…ッ」
綾乃:
「…、わたくしは悔しいのです」
「あなたが偶然香月を訪ねなかったなら、千里の身に起きている事を、今も気づいていなかったのかも知れないと思うと、無性に腹立たしいのです」
千里:
「お姉様に悪い点など、一つも…」
綾乃:
「…そんな理屈こそ関係ありません」
「大切な妹が誰かの、何かの犠牲になっている事を、わたくしが喜ぶと思いましたか?」
「あなたの大切な娘たちが、あなたのように犠牲になって、九條や有馬の繁栄のために傷ついても、それは仕方のないことだと?」
千里:
「…なりません」
「娘たちは、どうか」
綾乃:
「…娘たちにそう思えるあなたが、どうしてご両親の気持ちを思えなかったの」
千里:
「……申し訳…、ありません」
綾乃:
「…わたくしも、まだ一年もたちませんが啓一さんのお手伝いをさせていただいております。身体を見れば、どのような仕打ちを受けていたのかぐらい分かります」
「千里が自分から語らないのであれば、無理に聞くつもりはありませんでしたが…、このままでは、またすべてを墓まで持って行くとさえ言いそうですね」
「…目も、ただ強くこころを打たれたぐらいで見えなくなるものではありません」
「千里は、絵も、写真も、花も。子らの笑顔さえも手放して、あなたのこころを守らなければならないところまで追い込まれていたのです」
「千里である事を捨て、お役目の中に自分を見つけようとした」
千里:
「…ち、違います。わたくしはただ…」
ただ――、ただ、何だというの。言葉が続かない。
ただ、お父様とお母様の役に立ちたかっただけ、ただ褒められたかっただけ。
ただ、お姉様のように、立派な女性になりたかっただけ。
ただ、皆に幸福でいて欲しかっただけ――…
綾乃:
「……ごめんなさい、少し言い過ぎました」
「でも、本心です。もう、あなたが傷ついているところを見たくはないのです」
千里:
「……はい」
綾乃:
「…。明日、また有馬への手紙を書きます」
「なにか伝えたいことがあれば教えてください」
千里:
「……わか、り…、ました…」
お姉様が立ち上がり、振り返って歩く音が聞こえる。戸が開き、閉まった。
外はまだ雨が降り続き、風の音も流れている。なのに、残された部屋には一人、音も無く、光も無い。
「いやだ…」
胸の奥から声が漏れる。気付けば嗚咽が交じり、唇が震える。
「こわい…」
一度堰を切った涙は止める事もできずボロボロと顔の左側を濡らす。
「こわい……、ひとりはいや……っ」
「お父様……お母様……、お姉様……っ」
「どうか、わたしを……見捨てないで……っ」
綾乃:
戸のすぐ向こうで、掌を握りしめて千里の涙を聞いていた。本当は今すぐにでも近寄って抱きしめたい。
けれど、この涙はようやく溢れたもの。千里がずっと胸の奥に溜めていた苦しみ。止めてはならない。
声は次第に幼子の泣きじゃくりに似ていった。その声はもはや嫁でも母でもない。ただ甘えたいと泣き叫ぶ娘だった。
やがて足音に気づき顔を上げると、啓一さんがこちらを見ていた。わたくしが泣きながら微笑んでみせると、彼も静かに頷いた。
――やっと荷を下ろせたのだ。
胸に苦しさと同時に、深い安堵が広がっていく。
これでようやく、あの子は千里に戻れる。
わたくしが、見失わせてしまった千里らしさを取り戻すことができる。
※※※
千里:
拝啓
お父様、お母様
謹んで新春のお慶びを申し上げます。
御二人におかれましては、変わらずお健やかに新しい年をお迎えのことと存じ、安堵いたしております。
本来ならば、わたくしも御二人や娘たちとともに年を越し、新しい年の始まりを共に祝うことができれば、どれほど幸せであったかと存じます。その願いが叶わず、離れて年を越しましたことを、寂しく思っております。
さて、わたくしの目は未だ光を取り戻すには至っておりません。
御二人より頂きました御手紙を読み聞かせていただいた折、はじめは娘としての務めを果たせなかったと胸を痛めました。あの頃のわたくしは、自らが犠牲となれば、有馬も娘たちも穏やかに暮らせるのだと考えておりました。けれど九條の屋敷では、思うように立ち振る舞えず、すべてを駄目にしてしまったのだと悔やんでいたのです。
そのような折、お姉様より厳しいお叱りを賜り、わたくしはようやく御二人の深い御慈愛に気づくことができました。今はただ、はやく御二人にお会いし、心ゆくまでお話を交わしたいと願っております。
娘たちも元気に過ごしていると聞き及び、胸を撫でおろしております。健やかな声を直接聞ける日を、今か今かと待ちわびております。また、いずれ物心がついた折には、ともに絵筆をとり、語らいながら絵を描いてみたいと夢見ております。
いまはただ静かに身を休め、自分らしさを取り戻して参りとう存じます。どうか御二人もお身体を大切になさり、この先も変わらずお見守りいただければと願っております。
末筆ながら、新しき年が御二人にとりまして安らぎ多き一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。
千里 拝
※※※
千里:
香月に身を寄せてからすでに二月余りが経ち、二月も中頃になった。
火傷の痕も随分と改善し、すでに包帯は取れ、風を受けた時の鋭い痛みもほとんどなくなった。触れてみると新しい皮膚が貼っているのがわかる。一方で右目の下の骨を指でなぞっても何の感覚もせず、先日はつい長く触ってしまいお姉様から「血が滲んでいます」と怒られた。
綾乃:
「おはよう千里」
千里:
「おはようございます」
綾乃:
「やっと雨が止んだわね」
千里:
「この時期の長雨は珍しいですね」
綾乃:
「ええ」
窓を開けると日差しが入り込み、風とともに柔らかな甘い香りが入り込む。
千里:
「…いい匂い」
「何の香りでしょうか」
綾乃:
「これは…沈丁花の香りね…」
「わたくしも香月の家で春を迎えるのは初めてなもので、沈丁花が近くにあるとは気づきませんでした。雨上がりの風が香りを運んできたのでしょう」
千里:
「…本当に、よい香り」
綾乃:
「ええ、古くから香り高い花として知られています。花姿もとても可憐なのよ」
千里:
「そうなのですね」
綾乃:
「あっ、…ごめんなさい」
千里:
「ふふ、どうぞお気になさらず。むしろ、知りたいと願う気持ちが膨らみます。どうか、花の形をお聞かせいただけますか」
綾乃:
「…。花は縁が紅紫、内側に行くほど白に移ります。紫陽花の様にいくつかの花が集まって一つを作り、花びらは、一揃いが四枚で、十字に花が開いています」
千里:
「…聞いただけで可愛らしい。胸に咲くような思いです」
綾乃:
「この花は、中華民国では“千里香”と呼ばれるそうよ。千里先まで届くほどの香りゆえに……。まるで、あなたに結ばれているようなお名ですね」
千里:
「…はい。本当に」
綾乃:
千里はぼんやりと窓の方を向いて、何度も深呼吸をしている。わたくしが美しいものを見たときのように、何度も何度もそれを確かめている。
――邪魔をしてはならない。わたくしは鏡の前で服と髪を整えた。
「井戸に行ってまいりますね」
千里:
「はい。お気をつけて」
お姉様が部屋を出ていかれた。
(深呼吸)
大きく深呼吸をする。肺を沈丁花の香りで満たす。
お姉様に気を使わせてしまったことに少しの後悔をしつつも、言われた花の形を想像した。一つ一つ小さな花弁が寄り添い、支え合う姿を思い描く。まるで人と人が互いに支え合う様に。
光が見えなくなってから、ただぼんやりと光を取り戻したいと思っていた気がする。きっとそれは、子らの未来の姿すら見ることを拒んだ自分を、こころから許せるとは思えなかったから。
(深呼吸)
自分のお役目。それを務めるため、務められる自分になるために学園に向かった。そこではお姉様に出逢い、学友を得た。そこではわたくしを有馬と扱う人はいなかった。けれど、卒業が近づく度、かえってそれがわたくしを有馬なのだと知らしめた。
お姉様は学園の中で、ご自身の役目をしっかりと務められた。お母様も、有馬で妻を務めておられる。わたくしもそうすることがお役目だと思っていた。
だがどうだろうか、わたくしが今求めているのは、この窓の向こうに咲く沈丁花。そこにはお役目など何もない。
自分らしく生きること。絵や芸術を愛し、子らを愛し、お父様お母様、お姉様を愛する千里。
左目から自然と涙が溢れる。悲しみではない、確かな幸福の涙。
やがて台所の方からお姉様の呼ぶ声が聞こえる。
部屋の戸が開くと、台所の中も沈丁花の香りで満たされていた。
綾乃:
「啓一さんに頼んで、一房摘んできてもらいました」
千里:
「ありがとうございます」
「…触れても?」
綾乃:
「ええ、千里に差し上げますわ」
千里:
少し硬く厚い葉。
その上で花たちが寄り添い、球に似た形を作っている。花びらは少し冷たく、蝋の様な肌触りでしっとりと指に馴染む。
離した手には甘く、春を告げるような香りが漂う。
この花を、この感動を、絵に描き表したい。写真に収めたい。
光を失って始めて、こころからそう思えた。
綾乃:
その日千里は一日中沈丁花に触れていた。窓辺に座り、花瓶のそばで静かに形をなぞり続ける。
葉の厚み、硬さ、形。葉の裏側も何度も指でなぞり、葉脈の一本すらも把握しようとしているかのよう。花びらの温度、柔らかさ、大きさ。萼の径、枝葉の数。
まるで目に見えぬすべてを、何度も何度も指先と鼻と耳で確かめて、頭の中で描いているように。
その千里の嬉しそうな顔は、まさしくあの夏に、二人で絵を描いていたときと同じ顔をしていた。
※※※
千里:
朝日とともに目が覚める。隣でお姉様も動き始めた。
お姉様は寝台を出られ、左に二歩。やはり鏡がある。
「おはようございます。お姉様」
綾乃:
「おはようございます」
「まだよい香りが漂いますね」
千里:
鏡台の上には昨日の沈丁花。
お姉様の言った通り、朝日を透かして紅紫と白が溶け合い、頭で思い描いていたものよりずっと可愛らしい。
その鮮やかさに胸の奥が震える。
「お姉様…。髪を切られていたのですね」
綾乃:
「ええ、学園の頃は伸ばしていましたが、香月に嫁いで少ししたら切ってしまいました」
「お医者様のお手伝いをするのに、長い髪は邪魔になることのほうが多いですから」
千里:
「そうですか…。お姉様の長い髪、大好きでしたのに」
綾乃:
「そうでしたね。わたくしの髪をよく解きたいと申しておりました…も、の…」
「……千里?」
千里:
お姉様の動きが止まり、櫛が乾いた音を立てて畳に落ちた。
それは七年《しちねん》前に二人で行った小間物屋で買った白木の半月櫛。時を経てもなお光沢を保ち、とても大切に使われてきたことが分かる。
一拍の間をあけて、お姉様が信じられないという顔でこちらを振り向いた。
「はい。お姉様」
綾乃:
いつもはどこか虚ろに向けられていたその瞳が、今は確かに、わたくしを映している。
千里:
「お久しぶりです」
「たくさん心配をかけてしまいました」
綾乃:
「…いいのよ、いいの。そんな事は、どうだっていいのよ」
千里:
――光がある。
昨日までの闇に慣れきっていた瞼の奥に、色が、形が、息づいている。
目の前のものすべてが、初めて見るのに懐かしい。
必死に指先で確かめた形。お姉様に語っていただいた色。
それらが、今は確かな姿をもって立ち上がる。
壁には初めて会った日に写し撮った、紅茶を飲むお姉様の写真。
お姉様が掃除以外で近寄られなかった部屋の隅には、いつか描いた紫陽花と画材、脇には画架が置かれていた。
この二ヶ月、わたくしの世話で絵を描く暇などなかったはずなのに、画材には埃一つない。
胸が震える。
涙が、勝手に頬を伝う。
懐かしいのに新しい。こんなにも美しいものを、わたしはもう二度と見られぬと、二度と見たくないとさえ思っていたのに。
「ありがとう…ございます」
「こんなにも素敵な部屋だったのですね。もっと、早く気づきとうございました」
※※※
千里:
拝復
香月綾乃さま
冬のうちに女中にお願いして沈丁花を鉢で買ってまいりました。春の訪れを今か今かと待ちわびておりましたが、昨日ついに花が開き、その香りに包まれて香月でのあの甘やかな日々を思い出しておりました。きっと今頃は香月でも花開き、お姉様方に春を告げていることでございましょう。
おかげさまで、光を取り戻してからはや一年。その間に子らも大きくなり、私の暮らしもまた少しずつ彩りを増してまいりました。長女は最近、絵筆に大層興味を持ち、一緒に沈丁花の花を描きました。稚拙ながらも愛らしい出来でございましたので、このお手紙に同封いたします。どうぞ微笑んでご覧くださいませ。
近ごろは夜ごとに「お話を聞かせて」とせがまれることが習いとなりました。書架を探しました折、懐かしい『月のお姫様』を見つけました。今ではその物語が子らを眠りへと誘う子守唄のようになっております。昔お姉様たちと読み交わした物語を、今は子らに語り聞かせていることが、なんとも不思議でございます。
お姉様のご懐妊のお便りを拝見し、心より嬉しく存じました。初めてご結婚なさると伺ったときは、わたくしのお姉様でなくなってしまうような寂しさに胸を締めつけられたものでした。けれども香月でのご様子を拝見するうちに、それが杞憂であったと知りました。お姉様はいつまでもお姉様であり、そしてこれからは母として新たな光をまとわれるのだと。
もっとも、母としてはわたくしの方が少しばかり先輩になりますゆえ、どうか困ったことがあれば遠慮なくお頼りくださいませ。
そうそう、お父様は近ごろ写真に夢中でございます。これまでわたくしが撮るばかりで、家族写真以外にはわたくしの姿がほとんど残っていないと気づいたのだとか。子どもはじっとしておりませんので、四苦八苦なさっている姿が面白うございましたが、寝顔の一枚が殊によく撮れておりましたので、こちらも焼き増しして同封いたします。
どうか母子ともにお健やかに、新しい命を迎えられます日を私も心待ちにしております。
かしこ
有馬千里
朝なのだろう。お姉様が動き出した音が聞こえる。
寝台を抜け、左に二歩。起き抜けにはいつもそこに向かわれる。きっと鏡がある。
「おはようございます」
綾乃:
「あら、今日も早いわね」
千里:
「お姉様こそ」
ふふ、と笑う声が聞こえる。いつもと同じ、穏やかな朝。しかし今日は鳥の声も聞こえず、代わりにヒュウと風が通る音が鳴る。
「今日は寒そうですね。風の音が」
綾乃:
「あら、そうなの?」
「…雲も出ています。雨が降るかもしれません」
千里:
「そうですか…」
お姉様が振り返る衣擦れの気配。五歩先で窓を開ける音がして、冷たい外気が流れ込む。湿り気を含んだ匂いが鼻をかすめる――雨の前触れだ。
綾乃:
「ごめんなさい、寒かったわよね」
千里:
「いえ、むしろ雨が降り始めたら換気ができません。今のうちにしておきましょう」
綾乃:
「…それもそうね」
「では、他の部屋も開けてきます」
千里:
「はい」
足音が遠ざかり、次の部屋の窓が開く音。続けて火鉢に炭を足し、火を入れる音。その後に玄関の扉。――水を汲みに行かれた。
三年ぶりに、夢にまで願ったお姉様との暮らしが始まった。望んだ形ではなかったが、それでも穏やかで、安らかな日常。
やがて、ぽつりぽつりと雨音が落ちはじめ、小走りで戻ってくる足音が響く。
わたくしは壁を伝いながら立ち上がった。お姉様の歩幅でここから三歩、わたくしならきっと三歩と半。
摺り足でゆっくりと進み、ぶつからぬよう手探りしながら窓の方へと進む。――ちょうど三歩半で手に掛け金が触れた。音を頼りに、窓を閉める。
綾乃:
「雨が降ってきてしまいました、窓を……」
千里:
「はい。閉めておきました」
綾乃:
「…凄い。どうやって?」
千里:
「…お姉様の歩く音で、だいたいの距離と方角を」
綾乃:
「…音で…?」
千里:
「目が見えなくなってから、耳に頼ることが増えましたので、自然と」
「特に、お姉様とわたくしは歩幅があまり変わりませんので」
綾乃:
「凄いわね…」
千里:
「ありがとうございます」
「さ、朝の日課を済ませてしまいましょう」
「今日は風もあり、雨も降り始めました。怪我をする人が多くなるかもしれません」
綾乃:
「…そうですね」
促され、朝食の支度にかかる。目を閉じ、千里の世界を少しでも追体験しようと試みる。隣でコトコトと鍋が揺れ、焼き網では魚がパチパチと弾ける。
闇の中、雑多な音は聞こえるが、それが何を意味するかは、自分が目で見て準備したからこそわかるだけだ。何も見えず、知らぬ場所に放り込まれたなら――…わたくしは千里のように振る舞えるだろうか…。
学園での二年間。精一杯千里と向き合い、良い姉を務めたつもりだった。所作も、立ち居振る舞いも、女性としての考え方も、伝えられる限り伝えた。
けれど、その果てに千里は傷つき、光を失うほどの苦しみを背負っている。
わたくしが二年間かけて植えつけたのは、それまでの千里らしさをすべて否定した、良妻賢母という偽りの仮面だったのではないか。
閉じた目の中で、黒い靄が広がっていく。
千里:
「お姉様?どうかされましたか?魚が…」
綾乃:
「あっ、ごめんなさい」
慌てて目を開ける。魚を返すと、黒く焦げ始めていた。こんなにも正確に世界を掴めるのかと、改めて胸に驚きが走る。
やがて啓一さんも起きてきて、三人で朝食を摂る。千里ははじめにちゃぶ台の縁から少しずつ触り、どこになんの皿があるのかを確かめる。来たばかりの日に一度コップを倒したことがあったが、それ以降はゆっくりながら自然な所作で食事を摂っている。
千里:
食事を終え、お姉様がお皿を洗い始める。わたくしは隣で拭き取りを行った。
正直なところ、こころから手伝いたいのかはよく分からない。でも、ただお世話になるだけでは気も引けるし、なにより「ありがとう」と言われるのは心地よかった。
ちょうど食器拭きが終わった頃に、表でコトンと音がする。どうやら郵便が届いたようだ。お姉様が郵便受けを確認に行かれた。
綾乃:
「…千里」
千里:
「…はい、なんでしょうか」
綾乃:
「有馬からのお返事が届きました」
千里:
「…早い」
綾乃:
「ええ、きっと、目を通されたその日のうちにお返事を出されたのでしょうね」
千里:
「…なんと、書いておいでですか」
綾乃:
拝復
寒気ことのほか厳しき折、いかがお過ごしにてございましょうか。
このたびは初めて筆を執らせていただきます。わたくしは千里の父、有馬義助と申す者にございます。
御書状を拝見いたしました。また、女中からの口上も承り、娘の身に起こりましたこと、あらためて胸を衝かれる思いにて存じます。かつて手紙をくだされたお嬢さまが、今は香月家に嫁がれ、しかもその御方がわが娘を助けてくださったとは、まことに仏の御心を覚えるばかりにございます。
身柄をお預かりのうえ治療までおこころを砕いてくださいますこと、父としてこれほど有難きことはございません。深く御礼申し上げます。
千里には、父として計り知れぬほどの悪しきを背負わせてしまいました。御手紙を拝し、ただちに九條へは離縁を申し入れ、三人の娘も有馬に引き取れるよう手はずを整えているところでございます。思えば、我らしか千里を守ることはできなかったはず。それを娘は敏く察し、九條と有馬の思惑に挟まれ、誰一人にも助けを求められずにいたのでありましょう。父として悔恨の念、言葉に尽くしがたく存じます。
願わくば、どうか今一度、千里を御助けくださいますよう、心よりお願い申し上げます。
以上
有馬義助
千里:
「離縁!?」
「…、本当に…離縁ですか!?」
綾乃:
「そう…書いておいでです」
千里:
「なりません!!」
「今や有馬の商いは九條の船が前提になっております!離縁はあまりにも影響が大きすぎます!」
綾乃:
「…それはわたくしにはわかりかねます」
「ですが、商いより大切なものがあったということではないでしょうか」
千里:
「…そんな」
(浅い息遣い:ハッ…ハッ…ハッ…)
「わたくしは…もう、九條に帰らなくてよい…?」
お姉様が何かを言っている音が聞こえる。隣で啓一さんも何か音を話す。
頭の奥がガンと痛んで、見えない視界がぐにゃりと曲がる。立ち上がると倒れてしまいそうで、必死にちゃぶ台にしがみついて吐き気を我慢した。何度深呼吸をしても浅い息が整うことはない。
誰かが音を話す。地面が浮き上がったような感覚がある。
――やがて意識が遠のいた。
※※※
千里:
目が覚めると、わたくしは寝かされていた。背中が柔らかい。きっと寝台まで運んでくださったのだろう。…また迷惑をかけてしまった。
外はまださめざめと雨が降り、ときおりぴゅうと強い風が吹いて戸をガタガタと揺らす。戸の向こうでは様々な人の声が聞こえるが、わたくしにはもう何も繋がらない。
離縁…。
離縁とは、すなわち縁を切ること。九條との縁のために送られたわたくしは、有馬からも見放されたのか。…用済みだと。
「母もできず、嫁もできず、娘もできませんでした」
「わたくしは、では、何ができるというの…」
目も見えない。火の管理も、料理も。花や絵を見ることも、子どもたちの成長を見ることさえも、何もできない。
「申し訳ありません…、お父様、お母様」
※※※
綾乃:
「千里…?」
「目が覚めましたか?」
千里:
そっと扉が開く音が聞こえ、続いてお姉様の声が聞こえる。背中を向けるように壁の方へ寝返りをうった。
綾乃:
「…体調はどうですか」
千里:
「……」
綾乃:
「一日中気を失っていたのよ。もうすっかり陽も暮れました」
千里:
「……」
綾乃:
(小さなため息)
「お粥とお水を置いておきますからね」
千里:
「…要りません。お腹も空いておりませんし、喉も渇いておりません」
綾乃:
「そうですか。それでも口に入れてください。本当に倒れてしまいます」
千里:
「……」
このまま消えてしまいたい――…。
「……目覚めたくありませんでした」
綾乃:
「……義助様もこはる様も、素晴らしいご両親ですね」
「何よりもあなたを大切に思っている」
千里:
「……、至らない娘で、本当に申し訳なく思っております」
綾乃:
「…どういう意味かしら」
千里:
「…説明するまでもないでしょう」
「わたくしは九條と有馬を結ぶための娘。その娘が酷い仕打ちを受けたのが有馬の知るところになり、それでも動かなければ有馬もまた非道と罵られるのです」
「…だからこそ、わたくしが墓まで黙して行くはずでした」
綾乃:
「…なにを」
千里:
「きっと、わたくしが九條で男児を産めば、すべては起こらなかった事です」
綾乃:
「子の性別など、誰にも選ぶことはできません」
千里:
「そんな理屈、どうでもよろしいのです」
「…どうでも良いのですよ」
「船を操る家に男児がいなければ世間はどう思います。荒波を渡る船を婿養子が握るなど、示しがつきません」
「九條には男児が必要で、それを産めるのは妻であるわたくしだけでした」
綾乃:
「…まるで、あなた一人が苦しんでいれば、周りが幸せだったとでも言いたげね」
千里:
「…事実、そうでしょう」
「有馬が栄えれば、お父様もお母様もお喜びになります。お兄様たちだって、家のために尽力されています。商いがうまく行けば、九條の家だって栄えます」
「家が栄えてさえいれば、娘たちはわたくしのような目には遭わずに済む」
綾乃:
千里の声はか細く、震えて届く。
あれだけの傷を受けて、なお強くあろうとした彼女が。
「その言葉、どこまで本当に思っているのかしら」
千里:
「……」
綾乃:
「…。やはり一度、ご両親としっかりお話になる必要がありそうですね」
千里:
「…合わせる顔もございません」
綾乃:
「それでもご両親は会いたいとおっしゃいます」
千里:
「…なぜですか」
綾乃:
「本当に分からないの?」
千里:
「……、わかりません」
「わたくしはすべてのお役目を果たせませんでした」
「母として子らを見届けることも拒み、九條の嫁を続けることも出来ませんでした。有馬の娘としても…、わたくしは出来損ないです」
綾乃:
「お役目も立場も関係ありません」
「御二人があなたに会いたいのは、あなたが御二人の娘だからです」
千里:
「……むす…め?」
綾乃:
「あなたがそのような傷を受けてなお、子らの事を思い、慈しむように、御二人は、有馬の千里ではなく、千里のことが大切なのです」
千里:
「…ッ」
綾乃:
「…、わたくしは悔しいのです」
「あなたが偶然香月を訪ねなかったなら、千里の身に起きている事を、今も気づいていなかったのかも知れないと思うと、無性に腹立たしいのです」
千里:
「お姉様に悪い点など、一つも…」
綾乃:
「…そんな理屈こそ関係ありません」
「大切な妹が誰かの、何かの犠牲になっている事を、わたくしが喜ぶと思いましたか?」
「あなたの大切な娘たちが、あなたのように犠牲になって、九條や有馬の繁栄のために傷ついても、それは仕方のないことだと?」
千里:
「…なりません」
「娘たちは、どうか」
綾乃:
「…娘たちにそう思えるあなたが、どうしてご両親の気持ちを思えなかったの」
千里:
「……申し訳…、ありません」
綾乃:
「…わたくしも、まだ一年もたちませんが啓一さんのお手伝いをさせていただいております。身体を見れば、どのような仕打ちを受けていたのかぐらい分かります」
「千里が自分から語らないのであれば、無理に聞くつもりはありませんでしたが…、このままでは、またすべてを墓まで持って行くとさえ言いそうですね」
「…目も、ただ強くこころを打たれたぐらいで見えなくなるものではありません」
「千里は、絵も、写真も、花も。子らの笑顔さえも手放して、あなたのこころを守らなければならないところまで追い込まれていたのです」
「千里である事を捨て、お役目の中に自分を見つけようとした」
千里:
「…ち、違います。わたくしはただ…」
ただ――、ただ、何だというの。言葉が続かない。
ただ、お父様とお母様の役に立ちたかっただけ、ただ褒められたかっただけ。
ただ、お姉様のように、立派な女性になりたかっただけ。
ただ、皆に幸福でいて欲しかっただけ――…
綾乃:
「……ごめんなさい、少し言い過ぎました」
「でも、本心です。もう、あなたが傷ついているところを見たくはないのです」
千里:
「……はい」
綾乃:
「…。明日、また有馬への手紙を書きます」
「なにか伝えたいことがあれば教えてください」
千里:
「……わか、り…、ました…」
お姉様が立ち上がり、振り返って歩く音が聞こえる。戸が開き、閉まった。
外はまだ雨が降り続き、風の音も流れている。なのに、残された部屋には一人、音も無く、光も無い。
「いやだ…」
胸の奥から声が漏れる。気付けば嗚咽が交じり、唇が震える。
「こわい…」
一度堰を切った涙は止める事もできずボロボロと顔の左側を濡らす。
「こわい……、ひとりはいや……っ」
「お父様……お母様……、お姉様……っ」
「どうか、わたしを……見捨てないで……っ」
綾乃:
戸のすぐ向こうで、掌を握りしめて千里の涙を聞いていた。本当は今すぐにでも近寄って抱きしめたい。
けれど、この涙はようやく溢れたもの。千里がずっと胸の奥に溜めていた苦しみ。止めてはならない。
声は次第に幼子の泣きじゃくりに似ていった。その声はもはや嫁でも母でもない。ただ甘えたいと泣き叫ぶ娘だった。
やがて足音に気づき顔を上げると、啓一さんがこちらを見ていた。わたくしが泣きながら微笑んでみせると、彼も静かに頷いた。
――やっと荷を下ろせたのだ。
胸に苦しさと同時に、深い安堵が広がっていく。
これでようやく、あの子は千里に戻れる。
わたくしが、見失わせてしまった千里らしさを取り戻すことができる。
※※※
千里:
拝啓
お父様、お母様
謹んで新春のお慶びを申し上げます。
御二人におかれましては、変わらずお健やかに新しい年をお迎えのことと存じ、安堵いたしております。
本来ならば、わたくしも御二人や娘たちとともに年を越し、新しい年の始まりを共に祝うことができれば、どれほど幸せであったかと存じます。その願いが叶わず、離れて年を越しましたことを、寂しく思っております。
さて、わたくしの目は未だ光を取り戻すには至っておりません。
御二人より頂きました御手紙を読み聞かせていただいた折、はじめは娘としての務めを果たせなかったと胸を痛めました。あの頃のわたくしは、自らが犠牲となれば、有馬も娘たちも穏やかに暮らせるのだと考えておりました。けれど九條の屋敷では、思うように立ち振る舞えず、すべてを駄目にしてしまったのだと悔やんでいたのです。
そのような折、お姉様より厳しいお叱りを賜り、わたくしはようやく御二人の深い御慈愛に気づくことができました。今はただ、はやく御二人にお会いし、心ゆくまでお話を交わしたいと願っております。
娘たちも元気に過ごしていると聞き及び、胸を撫でおろしております。健やかな声を直接聞ける日を、今か今かと待ちわびております。また、いずれ物心がついた折には、ともに絵筆をとり、語らいながら絵を描いてみたいと夢見ております。
いまはただ静かに身を休め、自分らしさを取り戻して参りとう存じます。どうか御二人もお身体を大切になさり、この先も変わらずお見守りいただければと願っております。
末筆ながら、新しき年が御二人にとりまして安らぎ多き一年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。
千里 拝
※※※
千里:
香月に身を寄せてからすでに二月余りが経ち、二月も中頃になった。
火傷の痕も随分と改善し、すでに包帯は取れ、風を受けた時の鋭い痛みもほとんどなくなった。触れてみると新しい皮膚が貼っているのがわかる。一方で右目の下の骨を指でなぞっても何の感覚もせず、先日はつい長く触ってしまいお姉様から「血が滲んでいます」と怒られた。
綾乃:
「おはよう千里」
千里:
「おはようございます」
綾乃:
「やっと雨が止んだわね」
千里:
「この時期の長雨は珍しいですね」
綾乃:
「ええ」
窓を開けると日差しが入り込み、風とともに柔らかな甘い香りが入り込む。
千里:
「…いい匂い」
「何の香りでしょうか」
綾乃:
「これは…沈丁花の香りね…」
「わたくしも香月の家で春を迎えるのは初めてなもので、沈丁花が近くにあるとは気づきませんでした。雨上がりの風が香りを運んできたのでしょう」
千里:
「…本当に、よい香り」
綾乃:
「ええ、古くから香り高い花として知られています。花姿もとても可憐なのよ」
千里:
「そうなのですね」
綾乃:
「あっ、…ごめんなさい」
千里:
「ふふ、どうぞお気になさらず。むしろ、知りたいと願う気持ちが膨らみます。どうか、花の形をお聞かせいただけますか」
綾乃:
「…。花は縁が紅紫、内側に行くほど白に移ります。紫陽花の様にいくつかの花が集まって一つを作り、花びらは、一揃いが四枚で、十字に花が開いています」
千里:
「…聞いただけで可愛らしい。胸に咲くような思いです」
綾乃:
「この花は、中華民国では“千里香”と呼ばれるそうよ。千里先まで届くほどの香りゆえに……。まるで、あなたに結ばれているようなお名ですね」
千里:
「…はい。本当に」
綾乃:
千里はぼんやりと窓の方を向いて、何度も深呼吸をしている。わたくしが美しいものを見たときのように、何度も何度もそれを確かめている。
――邪魔をしてはならない。わたくしは鏡の前で服と髪を整えた。
「井戸に行ってまいりますね」
千里:
「はい。お気をつけて」
お姉様が部屋を出ていかれた。
(深呼吸)
大きく深呼吸をする。肺を沈丁花の香りで満たす。
お姉様に気を使わせてしまったことに少しの後悔をしつつも、言われた花の形を想像した。一つ一つ小さな花弁が寄り添い、支え合う姿を思い描く。まるで人と人が互いに支え合う様に。
光が見えなくなってから、ただぼんやりと光を取り戻したいと思っていた気がする。きっとそれは、子らの未来の姿すら見ることを拒んだ自分を、こころから許せるとは思えなかったから。
(深呼吸)
自分のお役目。それを務めるため、務められる自分になるために学園に向かった。そこではお姉様に出逢い、学友を得た。そこではわたくしを有馬と扱う人はいなかった。けれど、卒業が近づく度、かえってそれがわたくしを有馬なのだと知らしめた。
お姉様は学園の中で、ご自身の役目をしっかりと務められた。お母様も、有馬で妻を務めておられる。わたくしもそうすることがお役目だと思っていた。
だがどうだろうか、わたくしが今求めているのは、この窓の向こうに咲く沈丁花。そこにはお役目など何もない。
自分らしく生きること。絵や芸術を愛し、子らを愛し、お父様お母様、お姉様を愛する千里。
左目から自然と涙が溢れる。悲しみではない、確かな幸福の涙。
やがて台所の方からお姉様の呼ぶ声が聞こえる。
部屋の戸が開くと、台所の中も沈丁花の香りで満たされていた。
綾乃:
「啓一さんに頼んで、一房摘んできてもらいました」
千里:
「ありがとうございます」
「…触れても?」
綾乃:
「ええ、千里に差し上げますわ」
千里:
少し硬く厚い葉。
その上で花たちが寄り添い、球に似た形を作っている。花びらは少し冷たく、蝋の様な肌触りでしっとりと指に馴染む。
離した手には甘く、春を告げるような香りが漂う。
この花を、この感動を、絵に描き表したい。写真に収めたい。
光を失って始めて、こころからそう思えた。
綾乃:
その日千里は一日中沈丁花に触れていた。窓辺に座り、花瓶のそばで静かに形をなぞり続ける。
葉の厚み、硬さ、形。葉の裏側も何度も指でなぞり、葉脈の一本すらも把握しようとしているかのよう。花びらの温度、柔らかさ、大きさ。萼の径、枝葉の数。
まるで目に見えぬすべてを、何度も何度も指先と鼻と耳で確かめて、頭の中で描いているように。
その千里の嬉しそうな顔は、まさしくあの夏に、二人で絵を描いていたときと同じ顔をしていた。
※※※
千里:
朝日とともに目が覚める。隣でお姉様も動き始めた。
お姉様は寝台を出られ、左に二歩。やはり鏡がある。
「おはようございます。お姉様」
綾乃:
「おはようございます」
「まだよい香りが漂いますね」
千里:
鏡台の上には昨日の沈丁花。
お姉様の言った通り、朝日を透かして紅紫と白が溶け合い、頭で思い描いていたものよりずっと可愛らしい。
その鮮やかさに胸の奥が震える。
「お姉様…。髪を切られていたのですね」
綾乃:
「ええ、学園の頃は伸ばしていましたが、香月に嫁いで少ししたら切ってしまいました」
「お医者様のお手伝いをするのに、長い髪は邪魔になることのほうが多いですから」
千里:
「そうですか…。お姉様の長い髪、大好きでしたのに」
綾乃:
「そうでしたね。わたくしの髪をよく解きたいと申しておりました…も、の…」
「……千里?」
千里:
お姉様の動きが止まり、櫛が乾いた音を立てて畳に落ちた。
それは七年《しちねん》前に二人で行った小間物屋で買った白木の半月櫛。時を経てもなお光沢を保ち、とても大切に使われてきたことが分かる。
一拍の間をあけて、お姉様が信じられないという顔でこちらを振り向いた。
「はい。お姉様」
綾乃:
いつもはどこか虚ろに向けられていたその瞳が、今は確かに、わたくしを映している。
千里:
「お久しぶりです」
「たくさん心配をかけてしまいました」
綾乃:
「…いいのよ、いいの。そんな事は、どうだっていいのよ」
千里:
――光がある。
昨日までの闇に慣れきっていた瞼の奥に、色が、形が、息づいている。
目の前のものすべてが、初めて見るのに懐かしい。
必死に指先で確かめた形。お姉様に語っていただいた色。
それらが、今は確かな姿をもって立ち上がる。
壁には初めて会った日に写し撮った、紅茶を飲むお姉様の写真。
お姉様が掃除以外で近寄られなかった部屋の隅には、いつか描いた紫陽花と画材、脇には画架が置かれていた。
この二ヶ月、わたくしの世話で絵を描く暇などなかったはずなのに、画材には埃一つない。
胸が震える。
涙が、勝手に頬を伝う。
懐かしいのに新しい。こんなにも美しいものを、わたしはもう二度と見られぬと、二度と見たくないとさえ思っていたのに。
「ありがとう…ございます」
「こんなにも素敵な部屋だったのですね。もっと、早く気づきとうございました」
※※※
千里:
拝復
香月綾乃さま
冬のうちに女中にお願いして沈丁花を鉢で買ってまいりました。春の訪れを今か今かと待ちわびておりましたが、昨日ついに花が開き、その香りに包まれて香月でのあの甘やかな日々を思い出しておりました。きっと今頃は香月でも花開き、お姉様方に春を告げていることでございましょう。
おかげさまで、光を取り戻してからはや一年。その間に子らも大きくなり、私の暮らしもまた少しずつ彩りを増してまいりました。長女は最近、絵筆に大層興味を持ち、一緒に沈丁花の花を描きました。稚拙ながらも愛らしい出来でございましたので、このお手紙に同封いたします。どうぞ微笑んでご覧くださいませ。
近ごろは夜ごとに「お話を聞かせて」とせがまれることが習いとなりました。書架を探しました折、懐かしい『月のお姫様』を見つけました。今ではその物語が子らを眠りへと誘う子守唄のようになっております。昔お姉様たちと読み交わした物語を、今は子らに語り聞かせていることが、なんとも不思議でございます。
お姉様のご懐妊のお便りを拝見し、心より嬉しく存じました。初めてご結婚なさると伺ったときは、わたくしのお姉様でなくなってしまうような寂しさに胸を締めつけられたものでした。けれども香月でのご様子を拝見するうちに、それが杞憂であったと知りました。お姉様はいつまでもお姉様であり、そしてこれからは母として新たな光をまとわれるのだと。
もっとも、母としてはわたくしの方が少しばかり先輩になりますゆえ、どうか困ったことがあれば遠慮なくお頼りくださいませ。
そうそう、お父様は近ごろ写真に夢中でございます。これまでわたくしが撮るばかりで、家族写真以外にはわたくしの姿がほとんど残っていないと気づいたのだとか。子どもはじっとしておりませんので、四苦八苦なさっている姿が面白うございましたが、寝顔の一枚が殊によく撮れておりましたので、こちらも焼き増しして同封いたします。
どうか母子ともにお健やかに、新しい命を迎えられます日を私も心待ちにしております。
かしこ
有馬千里
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