神護の猪(しし)

有触多聞(ありふれたもん)

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小手の尼

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帰京した道鏡はすぐさま遣唐使船に関する全ての記録を調べた。しかし、その中に怪しい人物の名はない。書物をめくる手に汗が滲んでいる。
「残念ながら、今の父は探るばかりで、奴の正体までは、見抜けていない。全く、凄まじい擬態能力よ。父も上手な方だけれど、同族である狐にすら、その気配を感じさせないのだから」
道鏡の調査は、深夜まで続いた。
「私は父の体を心配していた。父はいつの間にか、すっかり人間社会を、気に入ってしまったのよ。どうしてでしょうね……。あ、そういえば、父は昔、こんなことを言っていたわ」
「一体なんと?」
「ある日、父は陛下にあることを頼まれたらしいの。“父君と母君に逢わせてくれないか”とね。すなわち……聖武天皇と光明子。蘇りの術を以てしても……墓に入ってしまえば流石に無理よ。涙ながらにせがむ陛下を見て、父は、よっぽど人間の方が、他者への情に溢れているって思ったって。狐の世界なんか、仲間が死んでもなにもしないし、滅多なことで、思い出したりはしない……」
帝には、父母の面影が色濃く残っていたのである。

時を同じくして、帝の元に、一人の女が現れたそうな。
「その方。誰じゃ」
「私の名は、小手尼(おてのあま)でございます……」
「……貴様。何用でここへ」
「私は陛下をお慕い申し上げているものの一人でございます……。私は朝鮮でさまざまに学を積んで参りました…。ぜひとも何かお力になりたく……」
「ふん、つまらぬ。疾く退出せよ。そもそもおぬしのような渡来人が居たかも怪し……」
それを言い終わるか言い終わらないかの僅かな間に、女は一気に間合いを詰め、人差し指と中指を帝の額に当てた。
「何なりと願いを申し付けくださいまし……」
その途端、急に帝の顔つきが変わり、ぼそぼそと何かをつぶやいた。
「朕は、父と母に一目……」
女はにこやかに返答した。
「左様でございましたか。では、今すぐに」
女は指を鳴らした。
「朕が見ているのは……」
「貴方様の望みは、叶いましたね……」
帝は虚な目をしている。
「ああ。父上、母上、ずっとお逢いしとうございました…。はい…。息災でございます……」
帝は虚空に向かって、独り話し続けた。かれこれ一時間は経っただろうか。
「ご満足いただけましたか……」
「……おぬし、これから朕に直接仕えよ。うむ、先の事もあった吉備由利の下につくが良い」
「かしこまりました。ありがたき幸せ」
小手尼は怪しい笑みを浮かべた。明くる日から突然に天皇のそばに仕えた彼女の存在は、日本史上でも稀有な存在として知られている。
この二人のやりとりは、この世の誰も知らないことである。
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