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宵闇せまれば

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気づけば岡田も眠りこけていたようだった。さっきまで真昼だったような気もするが、もう辺りは暗くなり始めていた。
 北斎は相変わらず……と思っていると、急にがばっと起き出した。
「おい。腹が減ったぞ。お前は、どうだ」
「少し早いですけど、飯でも食いまし……」
岡田は重要なことを思い出した。この爺さん……あらため北斎の姿は、自分にしか見えていない。二人前を頼むのか。飯代が嵩むなア……。
「……ただし、安いところで」
急いで付け足した。
「おう。贅沢は昔から好かねえ。なんなら、お前の余でいい」
天才の中には食い意地を張っているやつもいる。岡田はすっと胸を撫で下ろした。
「どうせなら、安くてうまい、究極のメニューにしましょう」
「なんだあ?その“きゅうきょくのめにゅー”ってのは?」
「ははは、昔の流行りです。行きましょう」
北斎は暫く首を傾げたままだった。

二人が向かったのは、両国駅前である。
「ほう、中々に賑わっているな。ここは」
「駅前ですからね」
「えき、とな」
「彼処のあたりには力士の絵とかありますよ」
「おお……」
北斎は勝手に改札を抜けていったので、慌てて止めようとしたが、他のものには見えていないので問題はなかった。
「懐かしい。ふふ……昔々ことだが、儂は雷電を描いたのさ。……多分今なら、下手で見てられねえが……。当時のことはよく覚えている」
「あの伝説の」
遠いので少し大きめの声を出す。そのせいで周りがぎょっと立ち止まってしまった。
「ああ。今思うと、どうしてあんなふうに、描いたのかな……。じつに若造だった、悔しい、悔しい……」
北斎は静かに目を閉じた。当時はまだ三十代である。

「勝川春朗(北斎の当時の雅号)、おぬし、一段と腕を上げたな。兄弟子である俺の目から見ても、この雷電爲右エ門は、実に見事なものだ」
「春英か?年下のくせして何を偉そうにぬかしてやがる。お前の絵は昔から嫌いだ。お前が勝川の名を継いだこと、いまだに気に食わねえんだぞ」
「まあ、誉めてやっているんだから、素直に聞けよ」
「くそっ。どうせ俺ならこうする、ああする、やら言いにきたんだろ」
「そんなこと俺はしたことないだろう……全く、お前は昔から話を聞かない奴だな……」
「他人の言うことなんざ聞かねえ。……儂は今日でも、あんたのところから抜け出てやるつもりなんだからな」
「おぬしの好きにするがよかろう。はあ、去年あたりから、おぬしは態度が悪くなる一方だな。先代春章が生きていれば、どんな顔をするやら……」
それから間も無くして、北斎が長く世話になった勝川一門のもとを飛び出すのは、歴史の事実である。
「雷電も春英も、先に逝っちまいやがって……」
北斎の小さな呟きを、聞くものは誰もいなかった。

二人は結局、近くにあった蕎麦屋の暖簾をくぐった。
「御免ください」
「あいよ」
蕎麦屋の主人は少し、驚いた様子を見せた。
「座っていてください。頼んできます」
岡田は一人で注文口へと向かった。蕎麦の選択は、自分でも悪くないな、と思った。
「すみません。かき揚げ蕎麦ひとつ」
何気なく頼んだ、その瞬間である。
「ふふふ、お客さん、二人前じゃなくて、いいのかい?」
「えっ?」
あまりに突然のことであった。動揺のあまり、息が詰まった。主人はうつむいており、目元はよく見えない。口元はどこかほくそ笑んでいる。
「だ、だいじょうぶです……」
岡田はそそくさと撤退した。先に席に座っていた北斎が尋ねる。
「おい、どうした」
「いや……あの主人、貴方のこと、見えてるんじゃないかって……」
「そんな訳がないだろう。今の今まで、儂の姿はお前しか見えていないんだぞ」
「そうですよね、そうか、錯覚か……」
ずるずると啜っている時も、頭から離れない。うーむ、こんな痩せ形の自分が、食いしん坊に見えたのか?あの微笑みは?この店、何かがおかしいのか……。気になりだすと、飯は腹に入っていくが、身に入っていかない感覚がする。
「ごちそうさま」
箸をおいて、店の戸を背にした。主人は不思議な言葉を残した。
「お客さん。あんたはきっと、また来るよ」
ぞわっと寒気がした。また来てください、ではなく、また来るよ……?まるで運命付けられているようじゃないか。気味が悪い。
「……やっぱり見えてましたって」
そんな岡田をよそ目に、北斎はぽつり呟いた。
「はて……?あいつ、どこかで見たような気がするな……」
宵闇せまる、両国だった。
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