嘉永の虎

有触多聞(ありふれたもん)

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この世のすべて

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家に着いたのは夕方頃だった。
「思ったより長い花見でしたね……」
北斎は窓の外をじいと見たままである。
「北斎さん?」
北斎は不意に岡田に問うた。
「なあ、お前さん。人はなぜ、絵を描くと思う?」
「ええ?」
「……この世に生きとし生けるものを、儂らはなぜ、わざわざ絵にするんだ?」
「それは……」
「小鳥のさえずりから、草花の息吹、人間の生き死にまで、儂らは描く……それはなぜだ」
「……」
「儂は今まで、桜を描く時には桜を、富士を描く時には富士をと、思うておった。しかし、今気づいたのだ。桜の周りを飛ぶ虫たちを見て……それは、ちがうと思った」
「それは?」
「生きるものを描くのよ。……いや少し言葉が違うな。“生きようとするもの”を、儂らは描かねばならないのだ。雄大な自然、とある歴史人物、何を描いても良いだろう。しかし!そこに生への活力がなければ……儂らの仕事に意味はない」
「……」
「それを一番見てきたものは何だ……?人の命は短い。そう、一番高くから……歴史の栄枯盛衰、生き物の生き死にといった、この世のすべてをみてきたものは……」
「富士山……」
岡田が震える唇でそう答えた。
「そうだ……儂がこの数ヶ月、富士に憑かれたように魅入られていたのは、それに気づくためだったのだ……」
「……」
北斎は静かにこう続けた。
「……岡田、儂を江戸に帰してくれないか……儂はそこで生きて、そこで真の画工として描いてみたいのだ……。ここの世界の住み心地も気に入ってはきたが……どうも、儂は江戸の人間らしい……大切なことを、思い出したような気がする」
冬の終わり頃から、両者ともに、江戸に帰ることを諦めていた気があった。その上、北斎は画狂人である。自身の技術のみ格別の関心があり、己が身を置く“場所”など、考えたこともなかった。しかし、これは不思議なことだが……初めて北斎は江戸の人間であることを自覚したのである。
「そうですよね。一刻も早く、帰る方法を……」
「今日は……ひとまず眠ることにする」
「えっ?」
「帰りたいとは言ったが、ばたばたと動くのは嫌いだ。……ふああ」
北斎は目を瞑ってしまった。
 岡田はふと、北斎の周りに散らばっている富士のスケッチに目を向けた。
面白い、どんどん、富士が表情を持っているように見えてくる。
「すごいな……さっすが北斎」
岡田は一枚拾い上げ、しげしげと眺めていた。
翌朝、岡田が目覚めると、北斎は相も変わらず富士を描き続けていたが、その画風に変化が見られるようになった。
「岡田、これを見てくれ」
「……?これは……富士が小さいですね。手前で仕事をしている人が大きく目立っている」
「そうだろう。少しばかり、考え方が変わってな」

『富嶽三十六景』に描かれた富士の中には、一度見ただけでは気づけないような、異様に小さいものが見受けられる。しかし、その中にも日の本一としての威厳は残されているのは確かであり、北斎の観察眼の鋭さと卓越した技術に、現代の我々は感服するばかりだ。

「なるほど」
「今日は、儂も出かけることにする。平賀源内を早く探し出さねえとな」
「わかりました」
「おっと。お前、紙と筆は忘れるな」
「どうして?」
「ふん。今のお前さんなら……」
「お前さんなら?」
「隅田を、どう描くかと思ってね」
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