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非常の人
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――安永八年(1779)、冬――
史実において、平賀源内が世を去ったとされるのは、この頃である。北斎はその時まだ二十歳にも満たない若者であった。その若い北斎おろか、この世の誰も知ることのない、とある屋敷の中での出来事を、今ここに記そう。
「おい、“完成”したのか?源内さんよ」
そう尋ねるのは杉田玄白である。
「エレキテルの修理は、とっくに終わってるぜ。あとは……」
「源内先生!お待たせしました!」
「しっ!声が大きいぞ、南畝。どれどれ……おおっ、こいつはすげえや」
源内の目の前には、山のように積まれた書物が押し合いへし合いしている。
「ようし、この古の怪談話から、人が忽然と消えた話を探すんだ……。おい、そこの若いの、お前らも手伝え。何もしないでここに来るっていうのは、なしだよな?」
「へい」
「わかりやした」
返事をしたのは二人の男。烏亭焉馬(うていえんば)と沢兵蔵(さわひょうぞう)である。大田南畝に誘われ、この密会にやってきたのだ。二人はともに好奇心が旺盛であった。不思議なことが起こるかもしれないと聞いて、いてもたってもいられなかったのである。焉馬は江戸落語中興の祖として、兵蔵は四代目鶴屋南北として、のちにその名を広く知られることになる。
いくらか時間が過ぎ、東から朝日が昇らんとする頃。
「先生!ありました!」
「おお!よくやった!早く読んでくれ!」
「ええと……ふむふむ……昔、とある村に不思議な翁がおったそうな。翁は……」
「話の筋はいい!最後だ、最後!」
「あああ……うう。ええと、翁は、元の世に帰ると言い残し、雨乞いをした。すると、俄に空が曇り、翁の頭上に雷が落ちた……」
「よし、そのままだ」
「すると最後、“……”という呪文を唱えた翁は……跡形なく失せにけり……?」
南畝も不思議そうな顔をしている。
「ふふ、雷は俺の想像通りだ。しかし何だ、その呪文とやらは。おい、兵蔵、お前さんは立作者(歌舞伎における座付き狂言作者の第一人者)を目指しているそうだな。文人ならば、これを読んでみろ」
「いや……これが掠れていてよく読めねえんだ、旦那」
「おうい、玄白。これ、どう思う?」
「ううん……難しい。予想もつかん……蘭語を初めて目にした時のようだ」
万策つきたかと思われた時、南畝がとあることを口にした。
「……一つ、思い当たる言葉があります。どこで読んだかは忘れてしまったのですが、生と死を越える、呪文があると」
「何だそれは」
「“……”と申しまして、某も由来はわからぬのですが、恐らく仏教と関わりがあるものではないかと……」
「ほう……それに賭けよう。よし、決行は一度寝てからだ」
「……」
焉馬だけは皆が解散したのちも、黙ってその呪文についてずっと考えていた。
夕暮れ時、源内は玄白にも手伝わせ、エレキテルを奥から引っ張り出してきた。
「源内よ、これまでお前は数々のものを作ったり、書いたりしてきたが、これは一体、どういうことだね?」
「玄白……お前にだけは、教えておこう。俺は……実は江戸の人間ではないんだ。遠い遠い未来から、やってきた男なのさ。だから、そこに帰らなきゃなんねえんだ」
「みらい?帰るって、何がだ?」
「ここから百数十年のち……昭和っていうんだが……」
「しょうわ?」
「そうだ。これも教えといてやる。玄白、お前の業績は、確かに歴史に残る。日本人誰もが知る偉人の一人になる」
「……お前との付き合いも長いが、お前の話はいつだってよくわからん。今回はとくにさっぱりだ。一体何を言っている?ただの見世物だと言っていたじゃないか」
「……それは今回で恐らく最後だ。上手くいけば俺は、この世界から消えるだろう。我が身常にあらず、だ」
「消える、だって?……おい、あんな古文書に記された世迷言を本気で信じているのか。お前さんは」
「お前も信じていなきゃ、人の体の中を覗こうなんて、思わなかっただろ?それと同じさ」
「……もしや死ぬつもりなのか?」
「いや、生きるんだ。元の時代でな」
「儂には結局……わからん。平賀源内という男が……」
玄白は涙を流した。本人にもなぜ涙が滝のようにこぼれてくるのか、一向に解らなかった。
「しばしの別れだ、玄白。全てが終わったら、俺は死んだことにしておいてくれ。お前は医者だ。医者の言葉には世間の信用もある」
「お前ほどの才人を、失うのは惜しい……」
「才じゃない。薬草の名前にしても、ちょっとした機械の仕組みにしても“全て知っていた”だけだ」
その夜、源内はごく限られた人間をとある場所へと呼び出した。
「源内先生……本気……ですか?」
「ああ、南畝。本気だとも。さあ、ここにいるのは昨晩を共にした好奇心旺盛な若人と、俺の知己の友だけだな。小野田直武がこの場にいないのは残念だが……よし、それでは。源内、江戸での最後の大舞台、とくとご覧あれ!」
大きく手を叩いて、源内はエレキテルを操作し、かの呪文を大きな声で唱えた。すると、昼と見紛うほどの閃光がそこに走り……源内の姿は煙のように消えた。
「先生……」
「旦那、ほんとに消えちまったよ」
「……」
「源内……お前という奴は……」
その場に居合わせた四人は、この夜のことを終生忘れず、他言もしなかった。
玄白は源内の言いつけ通り、偶々破傷風で亡くなった人斬りを源内と偽り、それが実際の歴史に語られることになった。
これは余談だが、玄白は源内に対し、このような言葉を残している。
ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや
史実において、平賀源内が世を去ったとされるのは、この頃である。北斎はその時まだ二十歳にも満たない若者であった。その若い北斎おろか、この世の誰も知ることのない、とある屋敷の中での出来事を、今ここに記そう。
「おい、“完成”したのか?源内さんよ」
そう尋ねるのは杉田玄白である。
「エレキテルの修理は、とっくに終わってるぜ。あとは……」
「源内先生!お待たせしました!」
「しっ!声が大きいぞ、南畝。どれどれ……おおっ、こいつはすげえや」
源内の目の前には、山のように積まれた書物が押し合いへし合いしている。
「ようし、この古の怪談話から、人が忽然と消えた話を探すんだ……。おい、そこの若いの、お前らも手伝え。何もしないでここに来るっていうのは、なしだよな?」
「へい」
「わかりやした」
返事をしたのは二人の男。烏亭焉馬(うていえんば)と沢兵蔵(さわひょうぞう)である。大田南畝に誘われ、この密会にやってきたのだ。二人はともに好奇心が旺盛であった。不思議なことが起こるかもしれないと聞いて、いてもたってもいられなかったのである。焉馬は江戸落語中興の祖として、兵蔵は四代目鶴屋南北として、のちにその名を広く知られることになる。
いくらか時間が過ぎ、東から朝日が昇らんとする頃。
「先生!ありました!」
「おお!よくやった!早く読んでくれ!」
「ええと……ふむふむ……昔、とある村に不思議な翁がおったそうな。翁は……」
「話の筋はいい!最後だ、最後!」
「あああ……うう。ええと、翁は、元の世に帰ると言い残し、雨乞いをした。すると、俄に空が曇り、翁の頭上に雷が落ちた……」
「よし、そのままだ」
「すると最後、“……”という呪文を唱えた翁は……跡形なく失せにけり……?」
南畝も不思議そうな顔をしている。
「ふふ、雷は俺の想像通りだ。しかし何だ、その呪文とやらは。おい、兵蔵、お前さんは立作者(歌舞伎における座付き狂言作者の第一人者)を目指しているそうだな。文人ならば、これを読んでみろ」
「いや……これが掠れていてよく読めねえんだ、旦那」
「おうい、玄白。これ、どう思う?」
「ううん……難しい。予想もつかん……蘭語を初めて目にした時のようだ」
万策つきたかと思われた時、南畝がとあることを口にした。
「……一つ、思い当たる言葉があります。どこで読んだかは忘れてしまったのですが、生と死を越える、呪文があると」
「何だそれは」
「“……”と申しまして、某も由来はわからぬのですが、恐らく仏教と関わりがあるものではないかと……」
「ほう……それに賭けよう。よし、決行は一度寝てからだ」
「……」
焉馬だけは皆が解散したのちも、黙ってその呪文についてずっと考えていた。
夕暮れ時、源内は玄白にも手伝わせ、エレキテルを奥から引っ張り出してきた。
「源内よ、これまでお前は数々のものを作ったり、書いたりしてきたが、これは一体、どういうことだね?」
「玄白……お前にだけは、教えておこう。俺は……実は江戸の人間ではないんだ。遠い遠い未来から、やってきた男なのさ。だから、そこに帰らなきゃなんねえんだ」
「みらい?帰るって、何がだ?」
「ここから百数十年のち……昭和っていうんだが……」
「しょうわ?」
「そうだ。これも教えといてやる。玄白、お前の業績は、確かに歴史に残る。日本人誰もが知る偉人の一人になる」
「……お前との付き合いも長いが、お前の話はいつだってよくわからん。今回はとくにさっぱりだ。一体何を言っている?ただの見世物だと言っていたじゃないか」
「……それは今回で恐らく最後だ。上手くいけば俺は、この世界から消えるだろう。我が身常にあらず、だ」
「消える、だって?……おい、あんな古文書に記された世迷言を本気で信じているのか。お前さんは」
「お前も信じていなきゃ、人の体の中を覗こうなんて、思わなかっただろ?それと同じさ」
「……もしや死ぬつもりなのか?」
「いや、生きるんだ。元の時代でな」
「儂には結局……わからん。平賀源内という男が……」
玄白は涙を流した。本人にもなぜ涙が滝のようにこぼれてくるのか、一向に解らなかった。
「しばしの別れだ、玄白。全てが終わったら、俺は死んだことにしておいてくれ。お前は医者だ。医者の言葉には世間の信用もある」
「お前ほどの才人を、失うのは惜しい……」
「才じゃない。薬草の名前にしても、ちょっとした機械の仕組みにしても“全て知っていた”だけだ」
その夜、源内はごく限られた人間をとある場所へと呼び出した。
「源内先生……本気……ですか?」
「ああ、南畝。本気だとも。さあ、ここにいるのは昨晩を共にした好奇心旺盛な若人と、俺の知己の友だけだな。小野田直武がこの場にいないのは残念だが……よし、それでは。源内、江戸での最後の大舞台、とくとご覧あれ!」
大きく手を叩いて、源内はエレキテルを操作し、かの呪文を大きな声で唱えた。すると、昼と見紛うほどの閃光がそこに走り……源内の姿は煙のように消えた。
「先生……」
「旦那、ほんとに消えちまったよ」
「……」
「源内……お前という奴は……」
その場に居合わせた四人は、この夜のことを終生忘れず、他言もしなかった。
玄白は源内の言いつけ通り、偶々破傷風で亡くなった人斬りを源内と偽り、それが実際の歴史に語られることになった。
これは余談だが、玄白は源内に対し、このような言葉を残している。
ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや
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