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不思議な夢 遠い昔
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あっという間に三日が過ぎた。さあ、愈々という時に、北斎はこんなことを言い出した。
「岡田。最後に、儂の似顔絵を描いてくれ。その代わり、儂もお前を描いてやる」
「ええ?」
「つべこべ言うな。早く描くぞ」
「はあ……」
お互いに向かい合った。
岡田は、必死に先生のマンガを写していた自分を思い出していた。小学三年生の時である。一人きりになれる放課後の教室が大好きで、夕暮れ時、カラスの鳴き声を横目に、一心不乱に自由帳へと描き込んだ。「自由」とはこんなに素晴らしいものなのかと思った。それは今どこに行ってしまったのか解らないが……もし見つかれば、食べてしまいたいほどである。
北斎は、春章の元に初めて弟子入りをした頃の自分を思い出していた。このとおり、と頭を下げた若き日の北斎は、浮世絵の世界のなんたるかも知らない青二才だった。大きな春章の背中は氷山のように聳えており、ちょうど彼の役者絵の人物のような目は、北斎の心の奥の奥までを見通していた。その時の冷たい土の感触を、北斎は今でも憶えている。
「ようし、出来たか」
「出来ました」
「ほう……こりゃあ……まるで仙人だな」
「いや……僕、こんな顔でしたっけ?」
「画工が描くのは真のみ、よ」
「真のみ……か」
北斎は突然、大きな声でこう言った。
「岡田、儂は江戸に帰ったらば、ますます筆を振るうぞ!お前は、どうする?」
「はい……僕も、ペンを振るいます」
「棲む世界は違えど、儂らは絵を描き続けなければならない。それが生者のつとめだ。儂は……百歳まで生きる!」
「百歳……?」
「その頃には、真の画工になっていると思う……あと二十余年か……」
岡田は一瞬考えて、
「そうです。北斎さん、百歳まで生きて、生きてください」
目頭が思わず熱くなった。
「おう!」
北斎の力強い返事は、齢七十を微塵も感じさせなかった。
岡田は約束を守ろうと、各々に電話をかけた。
「談志さんですか?」
「はい。私マネージャーですか……」
「北斎が帰ります、と談志さんに伝えてください」
「ホクサイ?……今日談志は昼から呑んでいて、おそらく相当酔っていますよ」
「ううん……どうしましょう……」
岡田が思案していると向こうから、
「北斎が帰るう?……すぐ行くから、待ってろ!」
威勢のいい声が聞こえてきた。
もちろんもう一人の人物も忘れてはいけない。
「森山。北斎さんが帰るのは今日の夜になりそうだ」
「ああ、すまん、すまん。今現像してる最中だ」
「ああ、俺もお前をすっかり忘れてた!」
「おい……人に頼んでおきながら、そりゃないぜ……まあ、かなり俺の趣味も入っているが、いい写真だと思う」
「ありがとう、ありがとう」
岡田は電話越しに頭を下げた。
源内のエレキテルの修理が終わったのは、夜の十九時を回った時だった。
「源内、呪文は、何だったか」
「アジャラカモクレン 元号 テケレッツのパーだ」
「げんごう?」
「あんたが最後に江戸にいた時、何年だった?」
「ええと……たしか天保……二年だな」
「本当だな?じゃあ、それだ」
「ったく、変な呪文だな」
「俺が作ったわけじゃない」
「あと、えれきてるは、痛むのか」
「いや、全然。バチッと一瞬さ」
それからしばらくして、森山が写真と共にやってきた。
「おお、これがしゃしんだな。一枚残らず持って帰るぞ、いいな」
「花やら建物やら、だいぶん良い写真が入ってる筈……いやあ、葛飾北斎に手土産を渡す役目とは、面白えなあ、ははは……」
「ありがとうよ。礼を言うぜ」
森山は、にやにやと恥ずかしそうにしていた。
談志はまさに酩酊状態。一人で行かせてくれと言ったようで、お付きの人はいなかった。
「あア、づいだづいだ」
「立川談志といったな、お前さん、この間と随分違う声をしているじゃねえか」
「全部、ざけのせいだヨ。ホクサイ」
「儂は画工で、目と手が命。あんたは噺家、喉が命だ。大事にしろい」
「ああ、分かってる、わあっでる……ふふふ、天下の北斎から、説教されるとはネ……ッハハ」
その時の談志の目は半開きであった。
「北斎さん、では、気をつけて」
「おう。岡田も達者でな。儂はまだまだ……描き足らんことに気がついた。それだけでこの地獄に来た甲斐があったということよ」
「大丈夫。あなたは天下の浮世絵師です」
「お前は天下のまんがかだ。一人前になるのを、楽しみにしてるぜ」
二人はぐっと手を握りしめた。
時間旅行(たいむとらべる)は一瞬である。
「アジャラカモクレン……」
北斎がこう唱えると、稲妻のような光が暗闇を照らし、周りはあっけにとられ……。気づけば跡形も無くなっていた。
「北斎さん……」
「北斎、消えたよ……」
「……ふっ。ほんとだったのか……」
「よし、無事に帰ったな……」
その場に居合わせた四人は、この夜のことを終生忘れず、他言もしなかった。
岡田はひとりアパートへと帰ってきた。
「がらんとしちゃったな……でも、すぐになれると思う」
そう呟くと、岡田は静かに扉を閉めた。
「岡田。最後に、儂の似顔絵を描いてくれ。その代わり、儂もお前を描いてやる」
「ええ?」
「つべこべ言うな。早く描くぞ」
「はあ……」
お互いに向かい合った。
岡田は、必死に先生のマンガを写していた自分を思い出していた。小学三年生の時である。一人きりになれる放課後の教室が大好きで、夕暮れ時、カラスの鳴き声を横目に、一心不乱に自由帳へと描き込んだ。「自由」とはこんなに素晴らしいものなのかと思った。それは今どこに行ってしまったのか解らないが……もし見つかれば、食べてしまいたいほどである。
北斎は、春章の元に初めて弟子入りをした頃の自分を思い出していた。このとおり、と頭を下げた若き日の北斎は、浮世絵の世界のなんたるかも知らない青二才だった。大きな春章の背中は氷山のように聳えており、ちょうど彼の役者絵の人物のような目は、北斎の心の奥の奥までを見通していた。その時の冷たい土の感触を、北斎は今でも憶えている。
「ようし、出来たか」
「出来ました」
「ほう……こりゃあ……まるで仙人だな」
「いや……僕、こんな顔でしたっけ?」
「画工が描くのは真のみ、よ」
「真のみ……か」
北斎は突然、大きな声でこう言った。
「岡田、儂は江戸に帰ったらば、ますます筆を振るうぞ!お前は、どうする?」
「はい……僕も、ペンを振るいます」
「棲む世界は違えど、儂らは絵を描き続けなければならない。それが生者のつとめだ。儂は……百歳まで生きる!」
「百歳……?」
「その頃には、真の画工になっていると思う……あと二十余年か……」
岡田は一瞬考えて、
「そうです。北斎さん、百歳まで生きて、生きてください」
目頭が思わず熱くなった。
「おう!」
北斎の力強い返事は、齢七十を微塵も感じさせなかった。
岡田は約束を守ろうと、各々に電話をかけた。
「談志さんですか?」
「はい。私マネージャーですか……」
「北斎が帰ります、と談志さんに伝えてください」
「ホクサイ?……今日談志は昼から呑んでいて、おそらく相当酔っていますよ」
「ううん……どうしましょう……」
岡田が思案していると向こうから、
「北斎が帰るう?……すぐ行くから、待ってろ!」
威勢のいい声が聞こえてきた。
もちろんもう一人の人物も忘れてはいけない。
「森山。北斎さんが帰るのは今日の夜になりそうだ」
「ああ、すまん、すまん。今現像してる最中だ」
「ああ、俺もお前をすっかり忘れてた!」
「おい……人に頼んでおきながら、そりゃないぜ……まあ、かなり俺の趣味も入っているが、いい写真だと思う」
「ありがとう、ありがとう」
岡田は電話越しに頭を下げた。
源内のエレキテルの修理が終わったのは、夜の十九時を回った時だった。
「源内、呪文は、何だったか」
「アジャラカモクレン 元号 テケレッツのパーだ」
「げんごう?」
「あんたが最後に江戸にいた時、何年だった?」
「ええと……たしか天保……二年だな」
「本当だな?じゃあ、それだ」
「ったく、変な呪文だな」
「俺が作ったわけじゃない」
「あと、えれきてるは、痛むのか」
「いや、全然。バチッと一瞬さ」
それからしばらくして、森山が写真と共にやってきた。
「おお、これがしゃしんだな。一枚残らず持って帰るぞ、いいな」
「花やら建物やら、だいぶん良い写真が入ってる筈……いやあ、葛飾北斎に手土産を渡す役目とは、面白えなあ、ははは……」
「ありがとうよ。礼を言うぜ」
森山は、にやにやと恥ずかしそうにしていた。
談志はまさに酩酊状態。一人で行かせてくれと言ったようで、お付きの人はいなかった。
「あア、づいだづいだ」
「立川談志といったな、お前さん、この間と随分違う声をしているじゃねえか」
「全部、ざけのせいだヨ。ホクサイ」
「儂は画工で、目と手が命。あんたは噺家、喉が命だ。大事にしろい」
「ああ、分かってる、わあっでる……ふふふ、天下の北斎から、説教されるとはネ……ッハハ」
その時の談志の目は半開きであった。
「北斎さん、では、気をつけて」
「おう。岡田も達者でな。儂はまだまだ……描き足らんことに気がついた。それだけでこの地獄に来た甲斐があったということよ」
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「……ふっ。ほんとだったのか……」
「よし、無事に帰ったな……」
その場に居合わせた四人は、この夜のことを終生忘れず、他言もしなかった。
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