嘉永の虎

有触多聞(ありふれたもん)

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運命の螺旋

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――天保2年(1831)、夏――

「それで、はるばる先生は帰ってきたって言うんですか!」
「おう。そうだよ。このしゃしんに写っているのはだな……」
父は偉そうに説明しています。え?今何だって?ここに写っているのが、くるま?訳のわからないことを申しております。
「はあ……凄い。面白い。どうも夢の類じゃなさそうだ。僕も今度連れてってくださいよ“へいせい”に」
「行き方でも教えてやろうか」
「本当ですか?先生!」
「いや。やっぱりやめだ。面倒臭い」
「またまたあ。先生は相変わらず厳しいなあ……」
「ところで鉄蔵、さっきまで何を描いてたんだい?」
「おう、富士だ。富士の山だ」
富士……いくつか父は描いたことがありますが……。
「へえ。そんなものに興味があったのかね?」
「栄、これは中々の大作になるぞ。さて!そろそろ続きに参るとするかね……」
どうも父は自信ありげです。ついこの間まで、へなへな萎れた老人だったのが……おかしくなったのはこの頃からです。絵筆を持つ手が一向に止まらず……まあ、娘としては良きことに違いありませんが。
 もしかして父が盛り返したのは、“へいせい”のお人のおかげですか。うちの父が、ご迷惑をかけてはいませんでしたか。鉄蔵のことです、ああ、考えたくない。一度お詫びにでも行こうかしらん。“へいせい”への行き方は分からないけれど。
 その時には、これでも持っていきましょうか。まだ完成はしていませんが、どうも父の自信作のようで……ええと、何だったかな……そうそう、『富嶽三十六景』。

――平成7年(1995) 7月――

 「岡田さーん。ハガキがきてますよ」
「はーい」
差出人は森山からだった。

 謹啓 仲夏の候 皆様にはますます御清祥のこととお慶び申し上げます
 さてこのたび私たちは結婚式を挙げることになりました
皆様に見守られながら
 新しい人生の始まりを迎えることができれば幸いです
 ご多用中 誠に恐縮ではございますが
 ぜひご出席くださいますようご案内申し上げます
謹白
 1995年7月吉日
 森山亮介
 鶴屋直子

森山は結婚を控えていたのだ。写真を始めていたり、電話の声がどこかうわずっていたりしたのは、そう言う理由だったのかと、岡田は納得した。
「結婚式の前に、まずこれを仕上げなくちゃなあ……」
彼は棚から『平賀幻想譚』を引っ張り出した。今なら、続きを描ける気がする。
『作品が売れてきたから、ぼくは引っ越さなくちゃいけなくなった』
『それはおめでたいね』
『きみは……江戸に帰らなくていいのかい?』
『ああ。構わないさ』
『それじゃあ、江戸に残した人はどうするんだね』
『いや、本当にいいのサ……だって……』
この後を……一体どう描く?源内は実は現代の人間でした……というオチにするのか?それとも、北斎のように、江戸に帰してやるか?
いや……それはマンガ家として、禁じ手だ。
「これしか……」
岡田はセリフを付け足した。
『だって……俺はこの時代を、まだまだ生きていきたいのさ。俺も、お前さんも、生まれた時代がどうであろうと、今を生きることに変わりはねえだろ?』
『うん。確かにそうだ』
『だから、これからも一緒に暮らそう。この瞬間を、お前と過ごしたい』
『まさか、ついてきてくれるのかい』
『俺は天下の平賀源内。出来ないことなど、初めから何もねえのさ!』
はははは……!
はははは……!
岡田はペンを置いた。
「ごめんなさい。先生、どうしてもこの二人を別れさせて終わるのは……出来ませんでした……」
その時、後ろから声がした。
「岡田くん。うまく出来たみたいだね。……不思議なことは、この世にたくさんあっただろう?」
「先生?」
岡田ははっとして後ろを振り返ったが、そこには誰もいなかった。
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