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9_忘れられない日々
しおりを挟む生田里美に告白して見事に振られてしまったが、暫くはそれで自分にけじめが付けられたことで、納得はしていた。
そうは言っても、毎日会社では顔を合わせることもある。総務へ用事で行くこともあるし、里美は相変わらず忘年会にも顔を出していた。
一度振られて、何度も挑戦するほどの傲慢さも勇気も持ち合わせていない。その頃には週に3~4日はスナックに通い、給料は殆どが酒代に消えていった。
平成六年に入り、里美が元カレと別れて、フリーになったという話を誰かから耳にした。しかし、二度目の告白をするつもりはなく、彼女が誰かと結婚して寿退社することを願うようになっていた。
今でも彼女の言動全てが気になるし、切れ長の目で見つめられ微笑まれると、自分の心を鷲掴みにされたように、舞い上がってしまう。
一緒に居るとドキドキして、恋している気分にはなるし、守ってあげたいという想いもある。でも、自分が自然体で接することが出来ない以上、一緒になるのは無理だとようやく頭で理解し始めていた。
告白までの長い時間の中で、彼女は恋愛対象ではなく、私によって理想化された女性になってしまっていたのかもしれない。付き合っていく中で、短所も嫌な面も見えてくるかもしれない。彼女の外見や行動だけでイメージを膨らませて、それを敢えて考えないことにしていたのだろうか。
アルコールに強く無いものの、私は相変わらず毎日のように、後輩たちとスナックへ出入りしていた。一人になると必ず過去を振り返ってしまう。酒の力と後輩たちとの馬鹿話で現実から逃げていたのだ。
里美が会社を辞めることを知ったのも、そんな席でだった。寿退社ではないようだったが、理由はよくわからない。もう彼女と顔を合わせずに済むと私は安堵していた。
2月の初旬、母が友達と東京見物に出かけ、3日間家を空けた。会社が休みの土曜日、コンビニで朝昼兼用の食事を買って帰り、自宅の鍵を開けている途中で家の電話が鳴りだした。直感的に母からだと思った。たぶん、明日の帰りの新幹線の到着時間を知らせるためにかけてきたのだろう。
私は、急いで玄関で靴を脱ぎ、留守番電話に切り替わる前に受話器を取り上げた。
「田村さんのお宅ですか」
女性の声だった。母ではなかったが、私は誰かすぐにわかった。私は信じられなかった。彼女が名乗るまで、夢の中にいる様だった。
「生田ですけど。雄一さん、おられますか?」
「俺です。生田さん?どうしたの、今頃。君から電話かかってくるなんて信じられない」
四ヶ月前に告白して、私は彼女に振られた。その彼女からこうして電話がかかってきた。私には、驚きの気持ちがあった。何の為に彼女は私に電話をしてきたのだろうか。彼女が退職する理由も知らなかったが、それと関係があるのだろうか。
受話器からの里美の声は、少し言いづらそうに話を続けた。
「うん、田村さん、どうしてるのかなって思って。明日の日曜日はどこかに出かけるの?」
「いや。特に予定はないよ。どこも人でいっぱいだろうし、車で家の近くぶらぶらするくらいかな。それより生田さんは?」
「私は、友達と近場で遊んでた」
「友達って、彼氏?」
「違うよ、女友達」
「そういえば、この前渡した本、読んでくれた?」
「去年にもらった本でしょ。読んだよ。すぐに読めた」
「聞かせて欲しいなぁ、読んだ感想」
「フランチェスカが、本当はキンケイドと一緒に行きたいのに行けなかった。あの車での最後の別れのところの気持ちが、もの凄くわかる気がする。自分の家族や生活をこのまま続けるか、それとも全てを捨てて、愛するキンケイドと一緒に行くか。この葛藤が読んでて胸に訴えかけるのよ」
「そうだったな。俺もキンケイドが、ジープでフランチェスカの車の前を走るシーンは感動した。その後、キンケイドが、誰にも分からないようにしていたネックレスの話を友達のトランペッターに語るシーンの気持ちも分かるなぁ。人によっては、いつまでも未練たらしいと思うかもしれないけど、すごく共鳴するところがあった。生田さんに、あの本を渡したのも、何か自分にもそういう気持ちがあったからかもしれない」
彼女と話を始めたら、あのことも、このことも話したいと思う。会社ではなかなか私から話しかけることができなかったから、もう少し本の感想を話したかったのだが、彼女はさっきとは違うトーンで私に呼びかけた。
「田村さん」
「なに?」
私は、彼女が何か大事なことを云うのではないかと、息をのんで待っていた。
「今日会ってくれる?」
「それ、俺が前に言ったセリフじゃないか」
「話したいことがあるの。夕方六時に家に来てくれる?」
彼女は真剣そうだった。
「ああ、行くよ。行くから、家の前で待ってて」
「それじゃあ、待ってるから」
私が約束すると、彼女は自分から電話を切った。
暦は2月になっていたが、寒い日が続いていた。寒風の中、綺麗に磨かれた私の車は、彼女の家に向かって走っていた。芳香剤のかすかな匂いとともに、私の胸の内に少しの期待があった。彼女が電話ではなく、直接会って話さなければならないこととは何か。今の私には分からなかったが、会いたいと言われた時に感じた期待が精神を高ぶらせていた。
彼女の家の通りに入ると、玄関先で彼女は待っていた。いつも会社に来る時は、遅刻寸前なのにと思いながら、里美の前に車を止めた。
「時間ぴったりだったな」
私は、腕時計を見て言った。
「ここじゃ話せないから、取り敢えずどこかに行こう」
彼女もそのつもりらしく、私が助手席のドアを開けると、迷いもせず乗り込んできた。車内の空気が、彼女の香りと混ざった。
車を湖岸道路に向って走るが、何かいつもの彼女らしくなかった。会社でのいつも陽気な明るい彼女ではなかった。私が話しかけても、彼女は何か悩んでいる様子で、時折私に相槌を打つ程度だった。
「生田さん、何か悩みがあるの?」
私は、思い切って聞いてみた。湖岸道路を走る車から、琵琶湖を眺めていた彼女は、私の方に向き直るとぽつりと呟いた。
「夕日が綺麗」
今度は、私が相槌をうつ番だった。
「もうしばらく、車に乗っていたい」
「それじゃ、このまま湖岸道路を走って、適当なところで晩飯にしようか」
私は、カーステレオのボリュームを少し上げて、彼女が話す気になるまで待ってみることに決めた。
彼女の言う通り、綺麗な夕日だった。愛する人と綺麗な夕日を眺めていたい。いつか私が夢見ていたことが現実となった。
でも、夢と違うのは、彼女が私を愛しているわけではないということだった。
「田村さん、好き?」
突然、彼女は私に聞いてきた。そして、もう一度。
「私のこと、まだ好きなの?」
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