結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ

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第二十四章 隣国の王女

 王宮へ戻る馬車の中で、アンリはほとんど口を開かなかった。

 膝の上には、薬草店で見つかった布と封書がある。
 どちらも小さい。けれど、その重さは昨夜見つけた書類の束よりもずっと大きく感じた。

 母の裁縫箱の二重底。
 そこに、あんなものが隠されていた。

 見慣れない紋。
 この国のものではない布。
 封を切られていない古い手紙。

 それらが意味するものを、アンリはまだうまく考えがまとまらなかった。
 ただ一つだけ分かるのは、母の過去は、自分が思っていたよりずっと遠い場所まで続いているということだった。

 向かいに座るレオンも、今日はほとんど話さなかった。

 いつも以上に無口だった。
 考えているのだろう。何をどこまで見せるべきか、何をどの順番で明かすべきかを。

 アンリは窓の外へ目を向けた。

 王都の朝は、少しずついつもの顔へ戻っていた。店を開ける音。荷車のきしみ。人々の足音。
 あの中に、昨日までの自分がいた。

 薬草店の娘として暮らし、客の体調を見て、母の残した手帳を読んでいた自分。
 その自分が、今は王宮へ戻る馬車の中で、母の秘密を抱えている。

 変わってしまった。
 でも、全部を失ったわけではない。

 そのことだけが、どうにかアンリの心を繋いでいた。



 王宮へ着くと、アンリはすぐに昨日の会議室とは別の部屋へ通された。

 広くはない。
 けれど、閉じた空気の中に緊張が溢れている。厚いカーテンが引かれ、外の光はほとんど入らない。机の上には燭台が二つだけ置かれ、その光が中央を丸く照らしていた。

 そこにいたのは、レオンとバルド。
 それから、もう一人。

 年を重ねた女性だった。

 背筋はまっすぐで、服装は地味だ。けれど、その所作には長く仕えた者だけが持つ静かな品があった。髪には白いものが混じっている。目元には細かな皺が刻まれていたが、その眼差しは驚くほど強い。

 アンリが部屋へ入ると、その女性は静かに立ち上がった。

「……はじめまして、とは申し上げられませんね」

 低く、よく通る声だった。

 どこかで聞いたことがあるはずもない。
 でも不思議と、耳にひっかかる響きがあった。

「この方はイレーネだ」
 レオンが言う。
「母君に仕えていた侍女の一人だ」
「お母さんの……」

 アンリは目を見開いた。

 その女性イレーネは、深く一礼した。

「長らくご挨拶もできず、申し訳ございませんでした、アンリ様」
「わたしを、知っているんですか」
「存じております」
 イレーネは顔を上げた。
「お生まれになった時から」

 胸が、どくりと鳴った。

 生まれた時から。
 その一言だけで、目の前の女性が急に遠い過去とつながる。

 アンリはゆっくり椅子へ座った。
 手の中の布と封書が、少しだけ汗ばんでいる。

「それでは」
 バルドが静かに言う。
「今日見つかったものを、改めて確認いたしましょう」

 アンリは頷き、布と封書を机の上へ置いた。

 まずは布だ。

 深い青の絹地。端を縁取る銀糸。中央に刺された、見慣れない紋。
 蔓草のような曲線の中央に、花と星を組み合わせた意匠。

 イレーネがそれを見た瞬間、目を伏せた。

「……やはり」
「知っているんですね」
 アンリが問うと、イレーネは小さくうなずいた。

「はい」
「何の紋ですか」
「それは……。」

 一瞬だけ、イレーネはレオンを見た。
 レオンは静かに顎を引く。

 話してよい、という合図だった。

 イレーネは布へもう一度視線を落とし、はっきりと言った。

「隣国リュザリア王家の紋です」
「……隣国」

 アンリの指先がぴくりと動く。

 リュザリア。
 その名は知っている。王都の市場にも、向こうから来た布や香料が並ぶことがある。母の手帳にも、何度か見慣れない言葉が記されていた。読めなくて、ただ飾り文字のようだと思っていた文字列あれは、もしかしたら。

「では、この布は」
「リュザリア王家の女性にのみ許された意匠です」
 イレーネが答える。
「正確には、王女方の持ち物にのみ使われるものです」

 王女。

 その言葉が、部屋の空気を一瞬で変えた気がした。

 アンリはすぐには息ができなかった。
 頭のどこかで理解しそうになって、でも理解したくなくて、心がそこで止まる。

「……お母さんが?」
 ようやくそう聞くと、イレーネの表情がわずかに曇った。

「はい」
「母は」
「マリエ様は、リュザリアの第二王女でいらっしゃいました」

 その言葉が落ちた瞬間、アンリの中の時間が止まった。

 第二王女。

 薬草店の奥で、髪を結ってくれた母。
 眠れない夜に、温かい茶を淹れてくれた母。
 少し厳しくて、でも優しくて、黙って背中を押してくれるような人だった母。

 その母が、王女。

 どう考えても結びつかない。
 なのに、机の上の布も、昨夜見つけた書類も、全部がその言葉を裏切らない。

「……そんな」
 アンリの声は、かすれていた。
「どうして、そんな人が」
「この国にいたのか、ということですね」
 バルドが静かに言った。

 アンリは頷くことしかできなかった。

 イレーネが、ゆっくりと話し始める。

「リュザリアでは、十数年前に大きな政変がありました」
「政変」
「はい。王位継承を巡って、王家の内側が割れたのです。表向きは病や事故として処理された方々もおりましたが、実際には命を狙われた王族も少なくありませんでした」
「……」
「マリエ様も、そのお一人でした」

 部屋の中は静かだった。
 燭台の火が揺れる音まで聞こえそうなほどに。

「マリエ様は薬草の知識にお詳しく、表向きには病弱な王族方の世話に関わっておられました」
 イレーネは続ける。
「ですが、その知識ゆえに、王宮内の毒や薬の流れにも敏くなられた」
「知りすぎたんですね」
 アンリが小さく言うと、イレーネは苦くうなずいた。

「ええ。だからこそ、消される側へ回ってしまったのです」
「……」

 母は、ただ巻き込まれたのではない。
 見てしまい、知ってしまい、だから狙われた。

 その話が、妙に胸へ入ってくる。
 薬草を扱う人だった、という一点だけが、今まで知っていた母とちゃんとつながっていたからだ。

「当時の国王――つまり、今のリュザリア国王陛下は、マリエ様の実兄にあたられます」
 バルドが言う。
「王位を継がれる前の混乱の中で、妹君をこの国へ逃がすしかなかった」
「それで、お母さんは」
「父上が保護した」
 今度はレオンが答えた。
「極秘裏にな」
「……」

 父上。
 つまり、亡き国王。

 昨夜の書類にあった王家私的案件という文字が、ここでようやく現実の意味を持つ。

「この国で保護された後、母君は北西別邸で暮らした」
 レオンの声は低い。
「表向きには身分を消し、王宮から切り離された女性として」
「じゃあ」
 アンリは息を整えながら問う。
「薬草店にいた母は、本当の母だったんですね」

 自分でも、変な問いだと思った。
 でも、いちばん確かめたかったのはそこだった。


 そんな話を聞かされたあとで、あの穏やかな時間まで全部が作り物だったと言われたら、自分はきっと耐えられない。

 イレーネの目が、初めて少しだけやわらいだ。

「もちろんでございます」
「……」
「マリエ様は、最後までアンリ様をただ守るための娘としてではなく、ご自分の娘として愛しておられました」
「本当に?」
「本当にです」

 その答えに、アンリは胸の奥が少しだけほどけるのを感じた。

 痛みが消えるわけではない。
 衝撃も大きい。

 でも、薬草店での時間は偽物ではなかった。
 母が自分へ向けてくれた眼差しも、手のぬくもりも、全部本物だった。

 それだけで、どうにか息ができた。

「……封書を開けましょうか」

 バルドの声で、アンリは我に返る。

 机の上には、まだ封を切られていない手紙が残っている。
 レオンがそれを手に取った。

「アンリ」
「はい」
「読むか」
「読みます」

 少しも迷わなかった。

 レオンは封を切り、中の紙をゆっくり広げる。
 紙は古いが、質はいい。文字は、この国のものではない流れるような筆致で書かれていた。

「……リュザリア語です」
 イレーネが小さく言う。
「読めるんですか」
「はい」
「では、お願いします」

 イレーネは一度深く息を吸い、読み上げた。

「兄上。
 もしこれを開く時が来たなら、あの子はもう、静かな娘のままではいられなくなったのでしょう」

 アンリの背筋が震えた。

 母の声が聞こえた気がした。
 直接ではない。

 イレーネは続ける。

「どうか、あの子を王家の名で縛らないでください。
 あの子が静かに生きられる間は、この国の娘としてではなく、ただの娘として生きさせてやりたいのです」

 アンリは唇を噛んだ。

 母は知っていたのだ。
 いつか、自分がここへ引き戻される日が来るかもしれないと。

 その上で、なお願った。
 王家の名ではなく、ただの娘として生かしてほしいと。

「ですが、あの子が狙われる日が来たなら、どうか今度は見捨てないでください。
 わたくしはもう、その時には隣におりません。
 あの子は、きっと強く見えるでしょう。けれど、強いまま傷つく子です」


 あまりにも、そのままだった。
 母はやはり知っていたのだ。アンリがどういうふうに立ち向かい、どういうふうに傷つくのかを。

「あの子が自分で選ぶ道を、どうか奪わないで。
 それが、わたくしの最後の願いです」

 読み終わったあと、部屋はしばらく静まり返っていた。

 アンリは机の木目を見つめたまま、動けなかった。

 母は王女だった。
 隣国の第二王女で、命を狙われてこの国へ来た。
 そして、それでも薬草店で生きた。

 自分を王家の娘として囲うのではなく、ただの娘として育てようとした。

 それが母の望みだった。

「……どうして」

 ようやく出た声は、ひどく小さかった。

「どうして、お母さんはそんなに静かだったんでしょう」
「諦めていたからではありません」
 イレーネがすぐに答えた。
「マリエ様は、選んでおられたのです」
「選んで?」
「ええ。王女として生きるより、アンリ様の母として生きる道を」

 その言葉に、アンリはようやく顔を上げた。

 目の前が少しだけ滲んでいる。
 泣きたいのか、泣きたくないのか、自分でもよく分からなかった。

 ただ一つ、胸の奥にはっきりある感情があった。

 母が遠くへ行った気がして、でも同時に、今までよりずっと近くに来た気もした。


 隠された人だった。
 それでも、自分を守るために、静かな生活を選んだ。

 その二つは矛盾していない。
 どちらも母だった。

「アンリ」

 レオンの声が落ちる。

 アンリはゆっくり息を吸った。

「……驚いています」
「当然だ」
「でも」
 言葉を探す。
「でも、全部が急に変わった感じはしません」
「……」
「たぶん、お母さんが王女だったとしても」
 アンリは布を見つめた。
「わたしにとっては、薬草店で生きた母なんです」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥の何かが静かに定まった気がした。


 優しい手。
 少し厳しい声。
 夜遅くまで帳面をつける背中。
 薬草の匂いのする指先。

 その全部も、同じくらい本物だった。

「……それでいい」
 バルドが静かに言った。
「むしろ、それがいちばん大事なことでしょう」

 アンリは小さく頷いた。

 まだ衝撃は大きい。
 考えなければならないことも、たくさんある。
 でも今は、それだけでよかった。

 母は遠い国の王女だった。
 それでも、自分にとっては薬草店で生きた母だった。

 その事実だけが、今のアンリの足元を確かに支えてくれていた。

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