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第二十八章 遅すぎる真実
王宮からの呼び出しは、昼過ぎに届いた。
封を見た瞬間、アルファは眉をひそめた。
第一皇太子レオンの私印。
表向きの招待でもなければ、社交的な呼びかけでもない。必要だから来い、とだけ告げるような簡素な封だった。
執務机の上には、未処理の書類がまだ残っている。
だが、アルファはそれを一瞥しただけで立ち上がった。
ここ数日、落ち着いて座っていられた時間などほとんどない。
アンリのことを調べさせ、噂の出どころを追わせ、東棟の女たちの動きを探らせている。けれど、手元に集まる報告が増えるほど、自分が最初にどれほど愚かだったのかを突きつけられるだけだった。
薬草店の前で聞いたこと。
近所の人々の目。
アンリが困っていたこと。
あの女が、一度も自分の悪口を言わなかったこと。
全部、知らなかったのではない。
知ろうとしなかったのだ。
「旦那様、馬車の支度が整いました」
執事の声に、アルファは短く頷いた。
「行く」
「お帰りは」
「分からん」
それだけ告げて屋敷を出る。
秋の終わりに近い風が、石段の下で少しだけ冷たかった。空は高く、雲は薄い。王都は穏やかな昼の顔をしているのに、自分の胸の内側だけがざらついている。
レオンが何を話すつもりなのか、ある程度の見当はついていた。
アンリの出自。
王宮との関わり。
最近続いている不穏な動き。
だが、それらを知ったところで、自分のしたことが軽くなるわけではない。
むしろ、もっと重くなるだけだろう。
馬車が王宮へ向かうあいだ、アルファは窓の外をほとんど見なかった。
通されたのは、表の応接間ではなかった。
華やかな広間を抜け、人気の少ない回廊を曲がり、最後に厚い扉の前で止まる。
案内役の侍従が一礼し、静かに扉を開いた。
「お待ちしておりました」
中へ入ると、そこにはレオンが一人で立っていた。
大きくはない部屋だ。
けれど机も椅子も重厚で、窓は厚いカーテンで半ば閉ざされている。書類棚と暖炉、それから中央に置かれた長机。余計な装飾は少ないが、逆にそれが“話し合うための場所”なのだと感じさせた。
レオンはいつものように整った姿だった。
だがその目は冷えている。最初から歓迎されていないことくらい、扉をくぐった瞬間に分かった。
「座れ」
短い命令だった。
アルファは黙って椅子へ向かう。
向かいに座ったレオンは、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、妙に重かった。
「何の用件でしょうか」
先に口を開いたのはアルファの方だった。
レオンの目が、わずかに細くなる。
「お前は、アンリを疑った」
「……はい」
「王宮との噂を理由に」
「そうです」
アルファは視線を逸らさなかった。
言い訳をするつもりはなかった。
「では最初に答えろ」
レオンの声は低い。
「なぜ、本人に聞かなかった」
「……」
「問いただすなり、怒鳴るなり、何でもできたはずだ」
「できました」
「だが、しなかった」
沈黙が落ちる。
答えはもう分かっている。
情けないほど単純な理由だ。
「怖かったからです」
自分で口にした瞬間、その言葉の醜さがはっきりした。
レオンは黙ったまま、アルファを見ている。
「第一皇太子が何度も妻のもとを訪れていた」
アルファは続けた。
「それを問うて、違うと言われるのが怖かった」
「違うと言われるのが?」
「本当のことを知らされるのが、です」
「……」
「自分の知らない場所に、最初から入れないのだと分かるのが嫌だった」
言いながら、胸の奥が少しだけ抉られる。
そうだ。
信じられなかったのではない。
勝てないかもしれないと思ったのだ。
王太子でもない。
王家の血筋でもない。
ただの公爵家の人間である自分が、最初から外に置かれているのではないかと。
「愚かだな」
レオンが言った。
冷たい言い方だった。
だが、反論できるはずもない。
「ええ」
アルファは認めた。
「愚かでした」
「愚かで済めばよかった」
レオンの声音が、さらに低くなる。
「だが実際には、お前はアンリを切った」
「……はい」
「何も知らないまま」
「はい」
「何も言えない娘を」
その一言に、アルファの指先がわずかに強ばる。
何も言えない娘。
その通りだった。
アンリは、何も知らされていなかった。
ただ噂の中に置かれ、王宮に呼ばれ、周囲に見られていただけだ。
それなのに自分は、その“何も言えない”こと自体を罪のように扱った。
「今日は、その理由を知らせるために呼んだ」
レオンは机の上の書類を一枚、静かにこちらへ滑らせた。
古い紙だった。
上質だが、端が少し変色している。そこに記された文字を見た瞬間、アルファは息を止めた。
――庇護対象の控え
――母 マリエ
――女児一名
「これは……」
「昨夜、アンリが見つけたものだ」
「アンリが?」
「ああ」
レオンは続ける。
「アンリの母、マリエは、亡き父王の庇護下にあった」
「……」
「そしてアンリは、その娘だ」
「それは」
アルファの喉が乾く。
「つまり」
「言葉通りだ」
レオンは一切の温度を削ぎ落とした声で言った。
「アンリは、亡き国王の血を引いている」
世界が一瞬、遠のいた気がした。
亡き国王の血。
つまり、アンリは――。
「では」
アルファの声がかすれる。
「あなたの」
「異母妹だ」
はっきりと告げられ、アルファは言葉を失った。
異母妹。
頭の中で、結婚式の翌朝の光景が勝手によみがえる。
冷たい部屋。
アンリの顔。
そして、自分が口にした決定的な言葉。
あの時疑った相手は、レオンの愛人ではない。
血を分けた妹だった。
胃のあたりが、ひどく冷たくなる。
「……そんな」
「“そんな”で済む話ではない」
レオンが言う。
「だが、まだ終わりではない」
さらに別の紙が差し出される。
今度は、見慣れない紋の入った布の図案と、要約された報告書だった。
「マリエは、この国の女ではない」
「……」
「隣国リュザリアの第二王女だ」
「王女」
アルファは、さすがに顔を上げた。
「アンリの母が?」
「ああ」
「ではアンリは」
「亡き国王の血と、隣国王家の血を引いている」
レオンの目は少しも揺れない。
「そのうえ、本人は最近まで何も知らなかった」
何も知らなかった。
その事実が、今度こそ真正面から胸に刺さる。
アンリは、自分が誰の娘なのかも。
なぜ王宮から呼ばれるのかも。
なぜあの噂が立つのかも。
全部、知らないままだった。
知らないまま巻き込まれ、知らないまま疑われ、知らないまま切り捨てられたのだ。
アルファは拳を握りしめた。
「……俺は」
声が低くなる。
「何をしていたんでしょうね」
問いというより、吐き出した言葉だった。
レオンは答えなかった。
その沈黙が、逆に厳しかった。
「聞いていたら」
アルファは机の木目を見つめたまま言う。
「違ったんでしょうか」
「少なくとも、今のお前よりはましだっただろう」
「……」
「アンリは答えられなかったはずだ」
「はい」
「だが、それでも、お前が最初から切るよりはましだった」
正しい。
ひどく、正しい。
アルファは目を閉じた。
もし、あの朝に問いかけていたら。
答えは返らなかったかもしれない。泣かせたかもしれない。怒らせたかもしれない。
それでも、あんなふうに最初から見限るよりは、ずっとよかった。
自分は一番やってはいけない形で、アンリを傷つけたのだ。
「なぜ、今になって俺にこれを」
ようやく絞り出すように問うと、レオンは短く答えた。
「二つ理由がある」
「……」
「一つは、お前が外で動いているからだ」
「噂の出どころを探らせていたことですか」
「ああ。勝手に嗅ぎ回る犬は嫌いだが、今は止めるより使う方がましだ」
「相変わらずですね」
「お前に優しくする理由がない」
当然だった。
アルファは苦く息を吐く。
「もう一つは」
レオンが続ける。
「アンリの周囲が、これからさらに騒がしくなるからだ」
「さらに?」
「隣国より正式な国書が届いた」
「……!」
「リュザリア国王自ら来る」
「国王が」
「ああ。亡き妹の娘について、正式に確認したいとな」
アルファは言葉を失った。
隣国の王。
しかも、アンリの母の兄。
話の規模が、一気に変わる。
「もう、王宮の内側だけでどうにかなる段階ではない」
レオンが低く言う。
「だからこそ、東棟も焦っている」
「東棟」
「あの噂も、茶会の件も、今は一つの流れの中にある」
「……」
「お前が知るべきなのは、アンリが“何も知らない娘”ではもうないことだ」
「はい」
「そして、お前が傷つけた相手は、最初から口を開けない事情を何重にも抱えていた娘だということだ」
アルファはゆっくり息を吐いた。
後悔という言葉では足りない。
情けなさでも足りない。
自分がやったことの醜さが、今ようやく形を持って迫ってくる。
アンリは黙っていたのではない。
言えなかったのだ。
母のこと。
王宮のこと。
自分自身のことすら知らないまま。
その状態で、自分は“説明しなかった”と責めた。
どれだけ身勝手だったか、今なら分かる。
「……殿下」
アルファは顔を上げた。
「一つだけ聞いてもいいですか」
「何だ」
「アンリは」
喉が少し詰まる。
「俺のことを、何か言っていましたか」
レオンはしばらく黙っていた。
それから、容赦なく答える。
「聞いてほしかったと言っていた」
「……」
「信じてもらえなくても、疑う前に聞いてほしかったと」
「……っ」
「だが今は、あの時と同じ気持ちではいられないとも言っていた」
胸の奥が、鈍く痛んだ。
聞いてほしかった。
その願いすら、自分は踏みにじったのだ。
「二度目はないと思え」
レオンの声は冷たい。
「今さら謝罪の言葉を並べても、アンリの傷は消えん」
「分かっています」
「分かっているなら、まず自分のやるべきことをやれ」
「……はい」
「噂の出どころを洗え。東棟に出入りする貴族どももだ」
「やっています」
「足りん」
「……」
「お前が償えるとしたら、口先ではなく行動だけだ」
アルファは小さく頷いた。
その通りだった。
謝りたい。
言い訳ではなく、本当に。
けれど、今アンリの前に立っても、自分の言葉はまた彼女を傷つけるだけだろう。
今さらだ。遅すぎる。
だからこそ、やるべきことをやるしかない。
誰が噂を流したのか。
誰がアンリを傷つける流れを作ったのか。
どこが東棟とつながっているのか。
それを、自分の手で明らかにしなければならない。
「……俺は」
アルファはゆっくり立ち上がった。
「知らなかったんじゃない」
「……」
「知ろうとしなかったんですね」
自分の声が、思ったよりも静かだった。
その一言が、今の自分に対するいちばん正確な判決のように思えた。
レオンは何も言わなかった。
ただ、その沈黙は否定ではなかった。
アルファは一礼した。
「お話、ありがとうございました」
「礼はいらん」
「それでも」
アルファは視線を伏せる。
「知らずにいたままよりは、ずっとましです」
部屋を出ると、王宮の回廊は昼の光に満ちていた。
窓から差す光は明るいのに、胸の内側は少しも軽くならない。
むしろ重い。ひどく重い。
だが、その重さをごまかしたくはなかった。
知らなかったのではない。
知ろうとしなかった。
それが自分の罪だ。
アルファは回廊の途中で立ち止まり、ぎゅっと拳を握った。
今さらだ。
遅すぎる。
それでも、このまま何もしないで終わることだけは許せなかった。
アンリを信じなかった。
だから今度は、自分の目で疑うべき相手を見つけるしかない。
その決意だけが、かろうじて足を前へ進ませていた。
封を見た瞬間、アルファは眉をひそめた。
第一皇太子レオンの私印。
表向きの招待でもなければ、社交的な呼びかけでもない。必要だから来い、とだけ告げるような簡素な封だった。
執務机の上には、未処理の書類がまだ残っている。
だが、アルファはそれを一瞥しただけで立ち上がった。
ここ数日、落ち着いて座っていられた時間などほとんどない。
アンリのことを調べさせ、噂の出どころを追わせ、東棟の女たちの動きを探らせている。けれど、手元に集まる報告が増えるほど、自分が最初にどれほど愚かだったのかを突きつけられるだけだった。
薬草店の前で聞いたこと。
近所の人々の目。
アンリが困っていたこと。
あの女が、一度も自分の悪口を言わなかったこと。
全部、知らなかったのではない。
知ろうとしなかったのだ。
「旦那様、馬車の支度が整いました」
執事の声に、アルファは短く頷いた。
「行く」
「お帰りは」
「分からん」
それだけ告げて屋敷を出る。
秋の終わりに近い風が、石段の下で少しだけ冷たかった。空は高く、雲は薄い。王都は穏やかな昼の顔をしているのに、自分の胸の内側だけがざらついている。
レオンが何を話すつもりなのか、ある程度の見当はついていた。
アンリの出自。
王宮との関わり。
最近続いている不穏な動き。
だが、それらを知ったところで、自分のしたことが軽くなるわけではない。
むしろ、もっと重くなるだけだろう。
馬車が王宮へ向かうあいだ、アルファは窓の外をほとんど見なかった。
通されたのは、表の応接間ではなかった。
華やかな広間を抜け、人気の少ない回廊を曲がり、最後に厚い扉の前で止まる。
案内役の侍従が一礼し、静かに扉を開いた。
「お待ちしておりました」
中へ入ると、そこにはレオンが一人で立っていた。
大きくはない部屋だ。
けれど机も椅子も重厚で、窓は厚いカーテンで半ば閉ざされている。書類棚と暖炉、それから中央に置かれた長机。余計な装飾は少ないが、逆にそれが“話し合うための場所”なのだと感じさせた。
レオンはいつものように整った姿だった。
だがその目は冷えている。最初から歓迎されていないことくらい、扉をくぐった瞬間に分かった。
「座れ」
短い命令だった。
アルファは黙って椅子へ向かう。
向かいに座ったレオンは、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、妙に重かった。
「何の用件でしょうか」
先に口を開いたのはアルファの方だった。
レオンの目が、わずかに細くなる。
「お前は、アンリを疑った」
「……はい」
「王宮との噂を理由に」
「そうです」
アルファは視線を逸らさなかった。
言い訳をするつもりはなかった。
「では最初に答えろ」
レオンの声は低い。
「なぜ、本人に聞かなかった」
「……」
「問いただすなり、怒鳴るなり、何でもできたはずだ」
「できました」
「だが、しなかった」
沈黙が落ちる。
答えはもう分かっている。
情けないほど単純な理由だ。
「怖かったからです」
自分で口にした瞬間、その言葉の醜さがはっきりした。
レオンは黙ったまま、アルファを見ている。
「第一皇太子が何度も妻のもとを訪れていた」
アルファは続けた。
「それを問うて、違うと言われるのが怖かった」
「違うと言われるのが?」
「本当のことを知らされるのが、です」
「……」
「自分の知らない場所に、最初から入れないのだと分かるのが嫌だった」
言いながら、胸の奥が少しだけ抉られる。
そうだ。
信じられなかったのではない。
勝てないかもしれないと思ったのだ。
王太子でもない。
王家の血筋でもない。
ただの公爵家の人間である自分が、最初から外に置かれているのではないかと。
「愚かだな」
レオンが言った。
冷たい言い方だった。
だが、反論できるはずもない。
「ええ」
アルファは認めた。
「愚かでした」
「愚かで済めばよかった」
レオンの声音が、さらに低くなる。
「だが実際には、お前はアンリを切った」
「……はい」
「何も知らないまま」
「はい」
「何も言えない娘を」
その一言に、アルファの指先がわずかに強ばる。
何も言えない娘。
その通りだった。
アンリは、何も知らされていなかった。
ただ噂の中に置かれ、王宮に呼ばれ、周囲に見られていただけだ。
それなのに自分は、その“何も言えない”こと自体を罪のように扱った。
「今日は、その理由を知らせるために呼んだ」
レオンは机の上の書類を一枚、静かにこちらへ滑らせた。
古い紙だった。
上質だが、端が少し変色している。そこに記された文字を見た瞬間、アルファは息を止めた。
――庇護対象の控え
――母 マリエ
――女児一名
「これは……」
「昨夜、アンリが見つけたものだ」
「アンリが?」
「ああ」
レオンは続ける。
「アンリの母、マリエは、亡き父王の庇護下にあった」
「……」
「そしてアンリは、その娘だ」
「それは」
アルファの喉が乾く。
「つまり」
「言葉通りだ」
レオンは一切の温度を削ぎ落とした声で言った。
「アンリは、亡き国王の血を引いている」
世界が一瞬、遠のいた気がした。
亡き国王の血。
つまり、アンリは――。
「では」
アルファの声がかすれる。
「あなたの」
「異母妹だ」
はっきりと告げられ、アルファは言葉を失った。
異母妹。
頭の中で、結婚式の翌朝の光景が勝手によみがえる。
冷たい部屋。
アンリの顔。
そして、自分が口にした決定的な言葉。
あの時疑った相手は、レオンの愛人ではない。
血を分けた妹だった。
胃のあたりが、ひどく冷たくなる。
「……そんな」
「“そんな”で済む話ではない」
レオンが言う。
「だが、まだ終わりではない」
さらに別の紙が差し出される。
今度は、見慣れない紋の入った布の図案と、要約された報告書だった。
「マリエは、この国の女ではない」
「……」
「隣国リュザリアの第二王女だ」
「王女」
アルファは、さすがに顔を上げた。
「アンリの母が?」
「ああ」
「ではアンリは」
「亡き国王の血と、隣国王家の血を引いている」
レオンの目は少しも揺れない。
「そのうえ、本人は最近まで何も知らなかった」
何も知らなかった。
その事実が、今度こそ真正面から胸に刺さる。
アンリは、自分が誰の娘なのかも。
なぜ王宮から呼ばれるのかも。
なぜあの噂が立つのかも。
全部、知らないままだった。
知らないまま巻き込まれ、知らないまま疑われ、知らないまま切り捨てられたのだ。
アルファは拳を握りしめた。
「……俺は」
声が低くなる。
「何をしていたんでしょうね」
問いというより、吐き出した言葉だった。
レオンは答えなかった。
その沈黙が、逆に厳しかった。
「聞いていたら」
アルファは机の木目を見つめたまま言う。
「違ったんでしょうか」
「少なくとも、今のお前よりはましだっただろう」
「……」
「アンリは答えられなかったはずだ」
「はい」
「だが、それでも、お前が最初から切るよりはましだった」
正しい。
ひどく、正しい。
アルファは目を閉じた。
もし、あの朝に問いかけていたら。
答えは返らなかったかもしれない。泣かせたかもしれない。怒らせたかもしれない。
それでも、あんなふうに最初から見限るよりは、ずっとよかった。
自分は一番やってはいけない形で、アンリを傷つけたのだ。
「なぜ、今になって俺にこれを」
ようやく絞り出すように問うと、レオンは短く答えた。
「二つ理由がある」
「……」
「一つは、お前が外で動いているからだ」
「噂の出どころを探らせていたことですか」
「ああ。勝手に嗅ぎ回る犬は嫌いだが、今は止めるより使う方がましだ」
「相変わらずですね」
「お前に優しくする理由がない」
当然だった。
アルファは苦く息を吐く。
「もう一つは」
レオンが続ける。
「アンリの周囲が、これからさらに騒がしくなるからだ」
「さらに?」
「隣国より正式な国書が届いた」
「……!」
「リュザリア国王自ら来る」
「国王が」
「ああ。亡き妹の娘について、正式に確認したいとな」
アルファは言葉を失った。
隣国の王。
しかも、アンリの母の兄。
話の規模が、一気に変わる。
「もう、王宮の内側だけでどうにかなる段階ではない」
レオンが低く言う。
「だからこそ、東棟も焦っている」
「東棟」
「あの噂も、茶会の件も、今は一つの流れの中にある」
「……」
「お前が知るべきなのは、アンリが“何も知らない娘”ではもうないことだ」
「はい」
「そして、お前が傷つけた相手は、最初から口を開けない事情を何重にも抱えていた娘だということだ」
アルファはゆっくり息を吐いた。
後悔という言葉では足りない。
情けなさでも足りない。
自分がやったことの醜さが、今ようやく形を持って迫ってくる。
アンリは黙っていたのではない。
言えなかったのだ。
母のこと。
王宮のこと。
自分自身のことすら知らないまま。
その状態で、自分は“説明しなかった”と責めた。
どれだけ身勝手だったか、今なら分かる。
「……殿下」
アルファは顔を上げた。
「一つだけ聞いてもいいですか」
「何だ」
「アンリは」
喉が少し詰まる。
「俺のことを、何か言っていましたか」
レオンはしばらく黙っていた。
それから、容赦なく答える。
「聞いてほしかったと言っていた」
「……」
「信じてもらえなくても、疑う前に聞いてほしかったと」
「……っ」
「だが今は、あの時と同じ気持ちではいられないとも言っていた」
胸の奥が、鈍く痛んだ。
聞いてほしかった。
その願いすら、自分は踏みにじったのだ。
「二度目はないと思え」
レオンの声は冷たい。
「今さら謝罪の言葉を並べても、アンリの傷は消えん」
「分かっています」
「分かっているなら、まず自分のやるべきことをやれ」
「……はい」
「噂の出どころを洗え。東棟に出入りする貴族どももだ」
「やっています」
「足りん」
「……」
「お前が償えるとしたら、口先ではなく行動だけだ」
アルファは小さく頷いた。
その通りだった。
謝りたい。
言い訳ではなく、本当に。
けれど、今アンリの前に立っても、自分の言葉はまた彼女を傷つけるだけだろう。
今さらだ。遅すぎる。
だからこそ、やるべきことをやるしかない。
誰が噂を流したのか。
誰がアンリを傷つける流れを作ったのか。
どこが東棟とつながっているのか。
それを、自分の手で明らかにしなければならない。
「……俺は」
アルファはゆっくり立ち上がった。
「知らなかったんじゃない」
「……」
「知ろうとしなかったんですね」
自分の声が、思ったよりも静かだった。
その一言が、今の自分に対するいちばん正確な判決のように思えた。
レオンは何も言わなかった。
ただ、その沈黙は否定ではなかった。
アルファは一礼した。
「お話、ありがとうございました」
「礼はいらん」
「それでも」
アルファは視線を伏せる。
「知らずにいたままよりは、ずっとましです」
部屋を出ると、王宮の回廊は昼の光に満ちていた。
窓から差す光は明るいのに、胸の内側は少しも軽くならない。
むしろ重い。ひどく重い。
だが、その重さをごまかしたくはなかった。
知らなかったのではない。
知ろうとしなかった。
それが自分の罪だ。
アルファは回廊の途中で立ち止まり、ぎゅっと拳を握った。
今さらだ。
遅すぎる。
それでも、このまま何もしないで終わることだけは許せなかった。
アンリを信じなかった。
だから今度は、自分の目で疑うべき相手を見つけるしかない。
その決意だけが、かろうじて足を前へ進ませていた。
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誰も知らなかった俺の“本当の価値”が明らかになっていく。
そして気づいた時には遅かった。
かつて俺を見捨てた彼女だけが、
失ったものの大きさに気づき始めていた。
これは、
捨てられた落第貴族が、すべてを逆転させる物語。
我慢しないことにした結果
宝月 蓮
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小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。