結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ

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第二十九章 公爵の訂正

 その日の王宮は、どこか落ち着かなかった。

 窓の外はよく晴れていた。
 庭園の芝はやわらかな春の光を受けて明るく見え、噴水の水音もいつもと変わらない。なのに、回廊を行き交う人々の足取りだけが少しずつ速い。

 隣国リュザリア王が来る。
 その報せは、表向きにはまだ大きく触れられていない。けれど、王宮の中ではもう隠しきれないところまで広がっていた。

 アンリは窓辺に立ち、外を見ていた。

 何かが起きる前の静けさ。
 そんな気がしてならない。

 朝からミアも落ち着かなかった。部屋の出入りのたびに、いつもより小さく息を呑んでいるのが分かる。エレノアも短い言葉しか残さなかった。レオンは朝早くに呼び出され、そのまままだ戻っていない。

 王宮全体が、見えない糸で強く引かれている。
 そんな感覚があった。

「アンリ様」

 控えめな声に振り向くと、ミアが小さく一礼した。

「少し、お耳に入れておいた方がよいかと……」
「何かあったの?」
「はい。午前の謁見のあと、大広間で少し騒ぎが」
「騒ぎ?」

 ミアは少し迷ってから言った。

「アルファ公爵様が、お言葉を述べられたそうです」
「……アルファが?」

 その名を聞いた瞬間、胸の奥が小さく揺れた。

 まだ、そのくらいでは揺れる。
 もう何度もそう思い知らされているのに、自分でも呆れる。

「何を」
 できるだけ平静に尋ねると、ミアは一歩近づいて声を落とした。

「こちらへ向かっておられる女官がおりまして。伝わってきた話では、社交界で流れていた噂について、公の場で否定なさったとか」
「公の場で」
「はい」

 アンリはすぐには言葉を返せなかった。

 否定。
 たったそれだけの言葉なのに、胸のどこかが妙にざわつく。

 遅い、と思う気持ちが先にあった。
 あまりにも遅い。

 でも同時に、詳しいことを聞く前から心が勝手に身構えてしまう自分もいて、それが少し悔しかった。

「……何があったのか、聞いてもいい?」
「はい。もう少し詳しい方が、すぐに届くかと」

 ミアが答えた、ちょうどその時だった。

 扉が叩かれる。

「アンリ様、失礼いたします」

 入ってきたのは、エレノア付きの年配の女官だった。顔は落ち着いているが、目の奥に小さな緊張がある。

「どうぞ」
 アンリが言うと、女官は一礼したまま口を開いた。

「先ほど、大広間でアルファ公爵様が発言なさいました」
「……」
「社交界で流布されていた、アンリ様と第一皇太子殿下との関係について」
「はい」
「公爵様は、“妻に不義はない”とはっきりおっしゃいました」

 部屋の中が静まり返った。

 アンリはその言葉を、すぐには飲み込めなかった。

 妻に不義はない。

 たったそれだけの、当たり前であるはずの言葉。
 でも、それが当たり前ではなくなってしまったのが、あの日だった。

「ほかには」
 自分の声が少しかすれていると分かりながら、アンリは続けた。

 女官はもう一度頭を下げる。

「王宮との噂を信じたのは自分の誤りであり、アンリの名誉を傷つけた責任はすべて自分にあると」
「……」
「さらに、以後、この件を面白半分に語る者は、公爵家への侮辱と見なすとも」

 ミアが息を呑む気配がした。

 アンリは窓辺のカーテンを握っていた指先に、少しだけ力が入るのを感じた。

 責任は自分にある。
 名誉を傷つけた。
 公の場で、そう言ったのだ。

 アルファが。

「誰が聞いていたの?」
 アンリが問うと、女官はすぐに答えた。

「王族方への挨拶を終えたあとの大広間でございます。諸侯の使者、王宮勤めの貴族方、女官たちも少なくありませんでした」
「……かなり人がいたのね」
「はい。ですので、もう城内のほとんどが知っております」

 アンリは小さく息を吐いた。

 アルファは、わざとそこで言ったのだろう。
 人が多い場所で。
 噂を広げたのと同じような口の数に、一度で届くように。

「ありがとうございました」
 アンリが言うと、女官は深く一礼して下がった。

 扉が閉まる。

 残された部屋は静かだった。
 けれど、その静けさの中で、今聞いた言葉だけが何度も形を変えて胸へ落ちてくる。

 妻に不義はない。
 責任は自分にある。


 やっぱり、最初にそう思った。





 一方その頃、大広間ではまだ余韻が残っていた。

 アルファが口を開いた時、最初は誰も、そこまで大きな言葉が出るとは思っていなかった。

 午前の挨拶が終わり、人々が少しずつ散り始めた頃。
 高い天井に光が差し込み、大理石の床へ長い影が落ちている。諸侯の使者たち、王宮に仕える貴族、夫人たち、女官たち。皆がそれぞれ小さな輪を作り、次の予定へ向かうまでの短い時間を過ごしていた。

 その場で、アルファは足を止めた。

「少し、お耳をいただきたい」

 よく通る声だった。

 ざわめきが、すっと細くなる。

 軍務でも政務でもないと、皆すぐに察したのだろう。
 公爵家の当主が、わざわざ人の多い大広間で言葉を求める。それだけで、何かがあると分かる。

 アルファは一歩、広間の中央へ出た。

 正装の黒が、昼の光の下でかえって冷たく見える。背筋は伸びていた。声も落ち着いていた。けれど、彼を知る者なら、その静けさの下にある張りつめたものに気づいただろう。

「近頃、私の妻アンリに関して、王宮内外で不穏な噂が流れている」

 ざわめきが揺れる。

 さっそく、という空気だった。
 だが、アルファはそこに間を置かなかった。

「先に申し上げる。私の妻に不義はない」
 
 その一言が広間へ落ちた瞬間、空気が変わった。

 夫人たちの扇が止まる。
 貴族たちの視線が集まる。
 近くにいた若い女官が、驚いたように目を見開く。

 アルファは続けた。

「第一皇太子殿下とアンリの間に、噂されるような関係は一切存在しない」
「……」
「そのような憶測を信じ、妻の名誉を傷つけたのは、私自身の誤りだ」

 言葉を選んではいない。
 飾りもない。
 だが、そのぶん一つ一つがはっきりしていた。

 自分の誤り。
 妻の名誉を傷つけた。

 それを、公爵自らが公の場で言う。
 その重さを、この場にいる誰もが理解していた。

「公爵様」
 誰かが恐る恐る口を挟む。
「では、これまでのご様子は……」
「すべて私の判断の誤りだ」
 アルファは即座に言った。
「アンリが何か隠していたのではない。知ろうとしなかったのは私の方だ」

 広間の空気は、もう最初とは違っていた。

 面白がる気配は消えている。
 代わりにあるのは、驚きと、少しの緊張と、そして誰もが今後どう動くべきかを計り直すような沈黙だった。

「今後、この件を面白半分に語ることは、公爵家への侮辱と見なす」
 アルファの声は低かった。
「妻の名誉を損ねる言葉は、私が許さない」

 それで終わりだった。

 長々と語らない。
 言い訳もしない。
 ただ、自分の非と、妻に非がないことだけを、逃げずに口にした。

 だからこそ、広間には妙な圧が残った。

 アルファはそれ以上誰の顔も見ず、一礼だけして歩き去った。

 背中へ向けられる視線の数を、数える気にはならなかった。

 遅すぎる。
 自分がいちばん分かっている。

 それでも、言わなければならなかった。
 あの朝に言えなかった言葉を、今さらでも、公の場で。



 部屋に残されたアンリは、しばらく窓の外を見ていた。

 庭園には昼の光が満ちている。
 侍女たちが花の手入れをしている姿も見える。噴水の水はきらきら光っていて、世界のどこにも痛みなどないような顔をしていた。

「アンリ様」

 ミアが心配そうに声をかける。

 アンリは振り向かなかった。

「……大丈夫」
「本当に?」
「うん」
 そう答えてから、小さく笑った。
「たぶん、半分くらいは」

 ミアは何も言わず、少しだけ近くへ来た。

 アンリは窓辺から離れ、椅子に腰を下ろした。
 膝の上で指を組む。

 胸の中は静かではなかった。

 嬉しいのか
 悲しいのか
 腹が立つのか
 ほっとしたのか

 そのどれもが少しずつ混ざっていて、自分でもうまく分けられない。

 ただ、一つだけはっきりしていることがある。

 あの日に言ってほしかった。


 今、公の場で言ってくれた言葉を、あの時にたった一度、自分へ向けて言ってほしかった。

「……遅いわ」

 ぽつりとこぼれた言葉は、小さかった。

 ミアが息を呑む気配がする。
 けれど、アンリは続けた。

「間違ってないの」
「……」
「言ってくれたこと自体は、間違ってない」
 指先が少し震える。
「でも、遅いのよ」

 その遅さが、いちばん苦しい。

 今のアルファの言葉が嘘だとは思わない。
 責任を認めたのだろう。
 人前で言うくらいには、本気なのだろう。

 それでも、その言葉は今の自分を救う言葉ではなかった。

 あの時に言ってほしかったから。
 信じてもらえなくてもいい、せめて聞いてほしかったと思っていた自分に向けて、あの時に必要だった言葉だったから。

 遅れて届いた真実は、嬉しさより先に痛みを呼ぶ。

 アンリは静かに目を閉じた。

 

 そこへ、今聞いた言葉が重なる。

 妻に不義はない。
 責任は自分にある。

 その響きはまっすぐで、だからこそ痛かった。

「……アンリ様」

 ミアが小さく呼ぶ。

 アンリは目を開け、ゆっくり息を吐いた。

「ごめんね。変な顔してる?」
「少しだけ」
「そう」

 自分でも分かる。
 きっと今の自分は、泣きそうでも笑いそうでもない、ひどく曖昧な顔をしている。

 でも、それでよかった。

 簡単に許せるわけではない。
 簡単に憎めるわけでもない。

 そのどちらでもない今の気持ちを、無理に一つへ決めたくなかった。

 アンリは窓の外へもう一度目を向けた。

 昼の光は変わらず明るい。
 王宮の中では、きっと今も大広間の言葉が広がっている。社交界の空気も、少しは変わるのだろう。

 それは必要なことだ。
 やっと正されたことも、確かにある。

 でも、自分の中の時間だけは、そんなに簡単には追いつかない。

 あの日に言ってほしかった。
 その思いだけが、今も胸の奥で静かに痛んでいた。

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