結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ

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第三十三章 選ぶのは私

呼び出しは、朝一番に届いた。

 まだ空気の冷たい時間だった。
 西塔の窓から差し込む光は白く、庭園の芝にはうっすらと朝露が残っている。けれど、その静けさとは裏腹に、王宮の中の空気は最初から張りつめていた。

 隣国リュザリア王の到着は、明日の午後に迫っている。

 その事実が、城の壁そのものをじわじわと軋ませているようだった。
 誰も大声は出さない。足音も抑えられている。なのに、行き交う人間の顔だけが、妙に忙しい。

「アンリ様」

 ミアが、少しかたい顔で一礼する。

「王太后陛下の御前へ、お出ましをとのことです」
「……今?」
「はい。東棟の方々も、すでにお集まりとのことです」

 来た、と思った。

 いつかは来ると分かっていた。
 でも、いざその時が来ると、胸の奥がひやりと冷える。

 伯父であるリュザリア国王が到着する前に、片をつけたい。
 向こうはそう考えるはずだと、レオンもバルドも言っていた。

 では、何を片づけたいのか。

 誓約の文
 母の過去
 そして、自分の立場

 全部だ

 アンリは寝台の脇に置いていた小箱へ手を伸ばした。
 中には、母の手紙の写しと、離縁の紙、それから小さな薬草袋が入っている。

 離縁の紙は、まだ返していない。
 受け取ったままだ。胸の奥に、冷たいまま残している。

 今はまだ、その答えを出せない。
 けれど、それでいいと思っていた。

 答えを急がない。
 最後に選ぶのは、自分だ。

 そう思えるようになったのは、きっと母の手紙と、誓約の文を知ったからだ。

「……行きます」

 立ち上がると、ミアがすぐに外套を持ってきた。
 灰青の落ち着いた色。女官長エレノアが選んだものだ。華やかすぎず、弱く見えすぎないものをと。

 王宮では、服も言葉の一つだ。
 その意味を、アンリはもう知っていた。



 王太后の御前へ通じる広間は、朝の光に満ちていた。

 高い窓から差し込む光が、大理石の床へ長く伸びている。壁には古い織物が掛けられ、金の縁取りを持つ椅子が、きちんと距離を測ったように並べられていた。

 美しい部屋だった。
 けれど今のアンリには、そこが裁きの場にしか見えなかった。

 正面の高椅子には、王太后が座っている。
 その右手にはルシエンヌ侯爵令嬢。
 少し下がって東棟の女官長と、数人の高位貴婦人たち。
 反対側にはレオン、バルド、エレノア。
 さらに少し離れた位置に、アルファの姿もあった。

 その顔を見た瞬間、胸の奥が小さく揺れた。
 けれど、今はそこへ気持ちを向けない。

 まずは前を見る。

「アンリ、マリエ」
 王太后が一度言葉を切る。
「いえ、今はまだ、その呼び方は控えましょう」

 やわらかな声だった。
 だが、そのやわらかさが逆に冷たかった。

「本日そなたを呼んだのは、王宮の内をこれ以上乱さぬためです」
「乱す、ですか」

 アンリはまっすぐ尋ねた。

 広間の空気が少し動く。
 こうして言葉を返すこと自体が、もう以前の自分ではないのだと思う。

 王太后は穏やかな笑みを崩さない。

「そなたが乱していると言いたいのではありません。ただ、そなたを巡って毒、侵入、襲撃と続いた。加えて、隣国王の来訪まで控えております」
「はい」
「ならば今のうちに、そなたの立場をきちんと定める必要がある」

 その言葉に、ルシエンヌが静かに口を開いた。

「アンリ様には、しばらく王宮の奥で静かにお過ごしいただくのがよろしいかと存じます」
「奥で」
「ええ。人目を避け、外との接触を最小限にし、余計な誤解が生まれぬように」
「……」
「この国の安定のためにも、隣国との無用な摩擦を避けるためにも」

 やはり、と思った。

 囲うつもりだ。
 保護という名前で
 静かに、穏やかに、こちらの意思とは無関係に

 アンリは唇を引き結んだ。

「加えて」
 別の貴婦人が続ける。
「その血筋を思えば、慎重すぎるほど慎重であってよろしいでしょう」
「血筋」
「ええ。亡き国王の血と、隣国王家の血。その両方を引く方が、王宮の中を自由に動かれるのは、あまりに危うい」


 最初からそうだった。
 向こうは、自分を危ういものとして置きたがる。人ではなく、火種のように。

「危ういとおっしゃるのは」
 アンリは静かに言った。
「わたしが、何かを望んだからですか」
「いいえ」
 王太后が答える。
「望まずとも、血は意味を持つのです」

 その言葉は、以前も聞いた。

 血は消せない。
 だから、王宮から無縁ではいられない。

 だからといって、すべてを相手に決めさせる理由にはならない。

 アンリは一歩だけ前へ出た。

「でしたら、わたしにも申し上げることがあります」
「……申してみなさい」
 王太后が言う。

 広間のすべての視線が集まる。
 
 でも、ここで口を閉じれば、本当に誰かの手で位置を決められる。

 母は、それをさせないために誓約の文を残した。

 なら、今立つのは自分だ。

「わたしは、隠されるために生きてきたのではありません」
 アンリははっきり言った。
「王宮の奥へ置かれるためでも、都合のいい形で危ういものとして扱われるためでもありません」
「アンリ様」
 ルシエンヌが静かにたしなめるように言う。
「ここは感情をぶつける場ではなくてよ」
「感情ではなく、事実を申し上げています」

 その一言で、ルシエンヌの目がほんの少しだけ冷えた。

「事実?」
「はい。まず、東棟の祈りの会で出された菓子から、銀青花に類する苦みが見つかりました」
「それは、下の者の暴走だと」
「では、なぜ東棟上位区画の鍵が下働きの侍女から見つかったのでしょう」
「……」
「なぜ、その侍女は言えば殺されると怯えたのでしょう」
「……」
「なぜ、旧礼拝堂へ忍び込んだ書記官は、東棟経由の文に動かされたのでしょう」

 広間が静まり返る。

 王太后の横に控えていた女官たちまで、息を潜めているのが分かった。

「さらに」
 アンリは続けた。
「マルタは口を封じられかけました。母の記録は東棟の保管棚から抜き取られ、薬草店は荒らされ、わたしの私室にも侵入がありました」
「それは、そなたを狙う者がいるというだけのこと」
 王太后が言う。
「東棟に限った話では」
「限ります」
 今度は、レオンが口を開いた。

 広間の空気が変わる。

 王太后がゆっくり視線を向ける。

「レオン」
「証拠が揃っています」
 低い声だった。
「東棟の下働き女官を使った文の流れ、保管棚の鍵、祈りの会の菓子、そして昨夜の襲撃犯の供述」
「供述は信用できぬこともある」
「ですが、供述だけではありません」

 バルドが一歩前へ出て、文書の束を差し出した。

「こちらに、借金の流れと、東棟の使用人を経由した金の移動がございます」
「……」
「さらに、こちらが母君の保護に関する記録の欠落一覧。そしてこれは、抜き取る前に取られていた控えです」

 王太后の表情が、初めてほんの少しだけ動いた。

 向こうは消したと思っていたのだろう。
 でも、全部は消せていない。

 アンリは息を整えた。

 今だ、と思う。

「そして、これが母の手紙です」

 広間がざわめく。

 アンリは胸元から、母の手紙の写しを取り出した。
 原本ではない。だが内容はもう皆が確認している。

「母は望みました」
 紙を握る手に力が入る。
「わたしを王家の名で縛らないでほしいと」
「……」
「わたしが静かに生きられるなら、ただの娘として生かしてほしいと」
「……」
「そして、狙われる日が来たなら、わたし自身の意思を奪わないでほしいと」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が熱くなった。

 母の声がそこにある気がした。
 薬草店の奥で、静かに手を動かしていた母。自分の髪を結いながら、何でもないことみたいに大丈夫よと言った母。

 その人が残した言葉だ。

「誓約の文も同じです」
 アンリは続ける。
「わたしを囲うためのものではありません。誰かの都合で勝手に決められないようにするためのものです」
「……」
「それなのに今、わたしを危うい血筋として奥へ押し込めるのは、母の願いにも、約定にも反しています」

 しん、と広間が静まり返る。

 王太后も、ルシエンヌも、すぐには口を開かなかった。
 その沈黙が、何より雄弁だった。

 ルシエンヌが先に息をつき、扇をゆっくり開く。

「見事なお話ですこと」
 その笑みは、もう薄かった。
「でも、それはあなたにとって都合のいい読み方ではなくて?」
「違います」
「そうかしら。血筋を持つ者が普通の娘として自由に生きるなど、王宮では通りませんわ」
「通させていただきます」

 アンリはまっすぐ答えた。

 自分でも驚くほど、声は静かだった。
 怒鳴っていない。震えてもいない。

「わたしは、隠されるために生きてきたのではありません」
 一歩、また前へ出る。
「怖いです」
 正直に言う。
「王宮も、東棟も、隣国王が来ることも、全部怖い」
「……」
「でも、だからといって、誰かの都合だけで置かれる場所を決められたくない」
「アンリ」
 レオンが低く呼ぶ。

 けれど、アンリは前を見たまま続けた。

「ここから先は、誰にも決めさせません」
 広間の真ん中に、その声が落ちる。
「わたしがどこに立つかは、わたしが決めます」
「……」
「母がそうできるように残したのなら、今度はわたしがそれを選びます」

 その瞬間、空気が変わった。

 誰も大きな声は出さない。
 でも、場の流れが目に見えないところでひっくり返ったのが分かった。

 王太后が長く息を吐く。

「……強いのですね」
「違います」
 アンリは首を振った。
「強くなりたいだけです」

 それは昔から、何度も口にしてきた言葉だった。
 でも、今は前より少しだけ本物に近い気がした。

 バルドが静かに一礼する。

「陛下方の御到着前に、少なくともアンリ様の意思は明確に記録されるべきでしょう」
「バルドまで」
 王太后が細く言う。

「約定に従うならば、そうなります」
 バルドは答えた。
「そして東棟に関する件は、別に調べを進めるべきです」

 ルシエンヌが初めて、はっきりと不快そうに眉を寄せた。

「まるで、わたくしがすべてを」
「そうは申しません」
 エレノアが静かに言う。
「ただ、下の者の暴走にしては、あまりにも重なりすぎております」

 ルシエンヌの扇が止まる。

 その小さな揺れを見た瞬間、アンリは分かった。

 まだ終わってはいない。
 でも、向こうももう以前のようには押し切れない。

 隣国王の来訪
 誓約の文
 母の手紙
 そして、自分の意思

 それらが、ようやく同じ場所に並んだのだ。

 王太后はしばらく黙っていたが、やがてゆっくり言った。

「……本日はここまでにしましょう」
「陛下」
 ルシエンヌが声を上げる。

「十分です」
 王太后はきっぱりと遮った。
「少なくとも、本人の意思なくそなたをどこかへ置くことは、今はいたしません」

 その言葉に、アンリはようやく詰めていた息を少しだけ吐いた。

 勝った、とは思わない。
 そんな簡単な話ではない。

 でも、自分のいないところで勝手に行き先が決まる流れは、今ここで止まった。

 それだけで十分だった。



 広間を出たあと、足の裏が少し浮ついていることに気づいた。

 張りつめすぎていたのだろう。
 回廊の光がいつもより白く見える。

「アンリ」

 レオンが隣に並ぶ。

「大丈夫か」
「……たぶん」
「無茶をした」
「でも、言わないと」
「ああ」
 レオンは短く頷いた。
「言わなければ、向こうに決められていた」

 その一言に、アンリは小さく笑った。

「そうでしょう?」
「分かっている」

 少しだけ沈黙が落ちる。

 前を向いたまま、レオンが低く言った。

「よく立った」
「……はい」
「兄として言う。よくやった」
「……」

 その言葉が胸へ落ちた瞬間、喉の奥が少しだけ熱くなった。

 泣きたいわけではない。
 でも、張りつめていたものがほどけそうになる。

 アンリはゆっくり息を吸った。

 怖かった。
 今もまだ怖い。

 でも、あの場で自分の言葉を口にしたことだけは、もう後悔しないと思えた。

 隠されるために生きてきたのではない。
 そう言い切れた。

 それだけで、胸の奥にあった何かが少しだけまっすぐになった気がした。

 窓の外では、昼の光が少しずつ傾き始めている。

 明日、隣国王が来る。
 その先に何があるのかは、まだ分からない。

 けれど今日、自分は初めて、誰かに置かれる娘ではなく、自分で立つ娘としてあそこに立てた。

 その事実だけが、今のアンリの足元を、静かに、確かに支えていた。

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