ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ

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第二章 幼なじみの花嫁

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「よろしくな」

たったそれだけだった。

十四歳の秋、婚約の話が決まって初めて顔を合わせた日、ヴィクトルはそう言って少しだけ耳を赤くした。宮廷で交わされる婚約の言葉としては、おそろしく素っ気ない。しかしエレナには、その不器用さがすべてだった。この人は、嘘をつけない人だ。そう思った。

――あの頃は、それだけで十分だと思っていた。



エレナがヴィクトルに初めて会ったのは、七歳の秋だった。収穫祭の日、父に連れられてアシュフォード侯爵邸を訪れたエレナは、広い庭の端で一人の少年を見た。膝に泥をつけたまま草むらに腹這いになり、蛙を追いかけていた。侍女たちが悲鳴を上げ、従者たちが困り果てた顔で取り囲む中、少年はまるで気にした様子もなく、次の一手を考えていた。

「捕まえた」

振り返ったその顔は、礼儀を欠いているくせにひどく誇らしげで、エレナはなぜか笑ってしまった。少年も笑い返した。それが始まりだった。

以来、二人は年に数度、互いの家の行事で顔を合わせた。話すことは他愛ない。野原で見つけた草の名前、屋敷の抜け道、読んだ本の感想。大人たちが政略の話をする隣で、子どもたちは子どもたちの世界を静かに作っていた。

十二歳の夏、二人で野原を歩いたとき、青い小さな花を摘んだ。名前を知らなかったので、二人で図鑑を引いたが見つからなかった。「じゃあ俺たちで名前をつけよう」とヴィクトルは言ったが、いい名前は最後まで思いつかなかった。日が暮れるまで二人であれこれ言い合って、結局何も決まらないまま笑って帰った。その花はいまも押し花にして、引き出しの奥にある。



結婚式は二人が二十歳の春に執り行われた。

ヴィクトルが父の後を継いで公爵位を得た年でもあった。真新しい礼服の彼は緊張した面持ちで立っていたが、指輪を嵌めるとき、エレナの目を真っすぐに見た。その目の色を、エレナはまだ覚えている。灰がかった青。秋晴れの空に似た色。

宮廷という舞台に上がったとき、二人の間に何かが生まれた。愛情ではない。愛情はすでにあった。何か別のもの――役割、というものだったかもしれない。ヴィクトルは公爵として振る舞い、エレナは公爵夫人として微笑んだ。それぞれの衣装を着ることに慣れるにつれ、互いの素の輪郭が、少しずつ布の下に隠れていった。

それは自然なことだとエレナは思っていた。大人になるとはそういうことで、役割を演じることは恥ずかしいことではない。

ただ、ときどきふと思うのだ。草むらに腹這いになって蛙を追いかけていたあの少年は、どこへ行ったのだろうと。



夕食の席で、ヴィクトルは政務の話をした。国境付近の村への物資輸送、来月の王宮晩餐会の段取り、新しく任命された書記官の話。どれも重要な話で、エレナは相槌を打ち、時おり意見を述べた。夫婦の会話として、おそらく申し分のない時間だった。

食後、ヴィクトルが書斎へ戻ると、エレナは一人でサロンに残った。窓の外はすっかり暗くなっている。庭の輪郭が夜に溶けて見えなくなる頃、エレナはカップに残った紅茶が冷めていることに気づいた。

引き出しの奥にある押し花のことを、ふと思った。あの青い花に、二人はとうとう名前をつけなかった。名前のないまま、ただそこにある。それでもあの花は確かに存在していて、確かに美しかった。

エレナはそう思いながら、冷めた紅茶を一口飲んだ。苦かった。砂糖を入れ忘れていた。それに気づいてから、静かに息を吐く。ため息のような、それとも笑いのような、自分でも判断のつかない吐息だった。

サロンの時計が、静かに時を刻んでいた。

――翌朝、王宮から一通の招待状が届いた。春の大舞踏会。そしてその夜、すべてが変わり始める。
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