ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ

文字の大きさ
3 / 9

第三章 王宮という劇場

しおりを挟む
「奥様は、いつも完璧でいらっしゃいますね」

ルイーズ伯爵夫人の言葉は、褒め言葉のかたちをしていた。けれど宮廷で三年を過ごしたエレナには、その言葉の裏側が読めた。完璧すぎる、と言いたいのだ。隙がない、と。あるいは、冷たい、と。

「ありがとうございます」

エレナは微笑んだ。完璧に。



五月の第二木曜日は、王妃陛下の茶会の日だった。

大広間に隣接する白間には、十二人の貴婦人が集まる。テーブルの中央には季節の花、両端には細長いシャンデリア、給仕たちは音もなく動く。

会話は常に二層構造になっている。表の層は天気と流行と子どもの話。裏の層は誰が誰と親しくなったか、誰の夫がどの派閥に近づいたか。

エレナはその二層を同時に泳ぐことが得意だった。いつからそうなったのかは覚えていない。気づいたときには身体が覚えていた。笑いながら聞き、聞きながら測り、測りながらまた笑う。それがここでの生き方だった。

茶会が終わると、貴婦人たちは思い思いに散っていく。エレナは王妃陛下に挨拶を済ませ、回廊に出た。



石造りの廊下は昼でも薄暗く、燭台の炎が壁に揺れる影を作る。廊下の鏡の前で、足が止まった。

鏡の中の女は完璧だった。淡い水色のドレスは皺ひとつなく、髪は朝のままに結われ、唇には薄く紅が乗っている。公爵夫人エレナ・アシュフォード。誰もがそう呼ぶ顔が、そこにあった。

――本当に、これが自分なのだろうか。

そう思う瞬間が、ときどきある。七歳の秋に野原を駆けていた頃の自分は、こんな顔をしていただろうか。あのとき笑っていたエレナと、今ここに立っているエレナは、本当に同じ人間なのだろうか。

エレナは静かに息を吐いた。鏡の中の女も同じように、音もなく息を吐いた。



廊下の先から、笑い声が聞こえた。

角を曲がった先の窓辺に、二人の人影があった。一人はヴィクトルだった。もう一人は女性で――顔は知っていた。先月の晩餐会で遠目に見た、新参の侯爵令嬢。しかし名前を思い出す前に、その場の空気が先に届いた。

明るかった。

ヴィクトルが笑っていた。執務室で書類に向かうときでも、晩餐会で挨拶を交わすときでもない、もっと素に近い笑い方で。令嬢の方も何か話しながら身振りを交えていて、ヴィクトルはそれに応じて短く笑った。

エレナはその場で足を止めた。足音を殺したわけではなかった。ただ、自然に、止まった。

二人はエレナに気づいていない。ヴィクトルが何か答え、令嬢がまた話す。窓から差し込む午後の光が、二人の輪郭を柔らかく縁取っていた。

胸の奥のどこか、普段は静かにしている場所に、小さな針が刺さったような感覚があった。痛みというほどではない。ただの、引っかかり。

エレナは静かに向きを変えた。来た廊下を戻る。一歩、二歩、三歩。角を曲がったところで、誰もいない廊下の壁に、片手をそっと添えた。

だから一度だけ、ゆっくりと息を吐いた。ため息ひとつ。それだけで十分だった。

エレナは手を壁から離し、また歩き始めた。廊下の先の鏡の前を通り過ぎるとき、今度は自分の顔を見なかった。見なくてもわかっていた。どうせそこには、完璧な公爵夫人が立っているのだから。

――後になって思えば、あの笑い声が最初の予兆だった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

月夜に散る白百合は、君を想う

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢であるアメリアは、王太子殿下の護衛騎士を務める若き公爵、レオンハルトとの政略結婚により、幸せな結婚生活を送っていた。 彼は無口で家を空けることも多かったが、共に過ごす時間はアメリアにとってかけがえのないものだった。 しかし、ある日突然、夫に愛人がいるという噂が彼女の耳に入る。偶然街で目にした、夫と親しげに寄り添う女性の姿に、アメリアは絶望する。信じていた愛が偽りだったと思い込み、彼女は家を飛び出すことを決意する。 一方、レオンハルトには、アメリアに言えない秘密があった。彼の不自然な行動には、王国の未来を左右する重大な使命が関わっていたのだ。妻を守るため、愛する者を危険に晒さないため、彼は自らの心を偽り、冷徹な仮面を被り続けていた。 家出したアメリアは、身分を隠してとある街の孤児院で働き始める。そこでの新たな出会いと生活は、彼女の心を少しずつ癒していく。 しかし、運命は二人を再び引き合わせる。アメリアを探し、奔走するレオンハルト。誤解とすれ違いの中で、二人の愛の真実が試される。 偽りの愛人、王宮の陰謀、そして明かされる公爵の秘密。果たして二人は再び心を通わせ、真実の愛を取り戻すことができるのだろうか。

すれ違う思い、私と貴方の恋の行方…

アズやっこ
恋愛
私には婚約者がいる。 婚約者には役目がある。 例え、私との時間が取れなくても、 例え、一人で夜会に行く事になっても、 例え、貴方が彼女を愛していても、 私は貴方を愛してる。  ❈ 作者独自の世界観です。  ❈ 女性視点、男性視点があります。  ❈ ふんわりとした設定なので温かい目でお願いします。

婚約者の心変わり? 〜愛する人ができて幸せになれると思っていました〜

冬野月子
恋愛
侯爵令嬢ルイーズは、婚約者であるジュノー大公国の太子アレクサンドが最近とある子爵令嬢と親しくしていることに悩んでいた。 そんなある時、ルイーズの乗った馬車が襲われてしまう。 死を覚悟した前に現れたのは婚約者とよく似た男で、彼に拐われたルイーズは……

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

婚約者が私にだけ冷たい理由を、実は私は知っている

潮海璃月
恋愛
一見クールな公爵令息ユリアンは、婚約者のシャルロッテにも大変クールで素っ気ない。しかし最初からそうだったわけではなく、貴族学院に入学してある親しい友人ができて以来、シャルロッテへの態度が豹変した。

幸せになれると思っていた

里見知美
恋愛
18歳になったら結婚しよう、と約束をしていたのに。 ある事故から目を覚ますと、誰もが私をいないものとして扱った。

伯爵令嬢の婚約解消理由

七宮 ゆえ
恋愛
私には、小さい頃から親に決められていた婚約者がいます。 婚約者は容姿端麗、文武両道、金枝玉葉という世のご令嬢方が黄色い悲鳴をあげること間違い無しなお方です。 そんな彼と私の関係は、婚約者としても友人としても比較的良好でありました。 しかしある日、彼から婚約を解消しようという提案を受けました。勿論私達の仲が不仲になったとか、そういう話ではありません。それにはやむを得ない事情があったのです。主に、国とか国とか国とか。 一体何があったのかというと、それは…… これは、そんな私たちの少しだけ複雑な婚約についてのお話。 *本編は8話+番外編を載せる予定です。 *小説家になろうに同時掲載しております。 *なろうの方でも、アルファポリスの方でも色んな方に続編を読みたいとのお言葉を貰ったので、続きを只今執筆しております。

女騎士と文官男子は婚約して10年の月日が流れた

宮野 楓
恋愛
幼馴染のエリック・リウェンとの婚約が家同士に整えられて早10年。 リサは25の誕生日である日に誕生日プレゼントも届かず、婚約に終わりを告げる事決める。 だがエリックはリサの事を……

処理中です...