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第三章 王宮という劇場
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「奥様は、いつも完璧でいらっしゃいますね」
ルイーズ伯爵夫人の言葉は、褒め言葉のかたちをしていた。けれど宮廷で三年を過ごしたエレナには、その言葉の裏側が読めた。完璧すぎる、と言いたいのだ。隙がない、と。あるいは、冷たい、と。
「ありがとうございます」
エレナは微笑んだ。完璧に。
五月の第二木曜日は、王妃陛下の茶会の日だった。
大広間に隣接する白間には、十二人の貴婦人が集まる。テーブルの中央には季節の花、両端には細長いシャンデリア、給仕たちは音もなく動く。
会話は常に二層構造になっている。表の層は天気と流行と子どもの話。裏の層は誰が誰と親しくなったか、誰の夫がどの派閥に近づいたか。
エレナはその二層を同時に泳ぐことが得意だった。いつからそうなったのかは覚えていない。気づいたときには身体が覚えていた。笑いながら聞き、聞きながら測り、測りながらまた笑う。それがここでの生き方だった。
茶会が終わると、貴婦人たちは思い思いに散っていく。エレナは王妃陛下に挨拶を済ませ、回廊に出た。
石造りの廊下は昼でも薄暗く、燭台の炎が壁に揺れる影を作る。廊下の鏡の前で、足が止まった。
鏡の中の女は完璧だった。淡い水色のドレスは皺ひとつなく、髪は朝のままに結われ、唇には薄く紅が乗っている。公爵夫人エレナ・アシュフォード。誰もがそう呼ぶ顔が、そこにあった。
――本当に、これが自分なのだろうか。
そう思う瞬間が、ときどきある。七歳の秋に野原を駆けていた頃の自分は、こんな顔をしていただろうか。あのとき笑っていたエレナと、今ここに立っているエレナは、本当に同じ人間なのだろうか。
エレナは静かに息を吐いた。鏡の中の女も同じように、音もなく息を吐いた。
廊下の先から、笑い声が聞こえた。
角を曲がった先の窓辺に、二人の人影があった。一人はヴィクトルだった。もう一人は女性で――顔は知っていた。先月の晩餐会で遠目に見た、新参の侯爵令嬢。しかし名前を思い出す前に、その場の空気が先に届いた。
明るかった。
ヴィクトルが笑っていた。執務室で書類に向かうときでも、晩餐会で挨拶を交わすときでもない、もっと素に近い笑い方で。令嬢の方も何か話しながら身振りを交えていて、ヴィクトルはそれに応じて短く笑った。
エレナはその場で足を止めた。足音を殺したわけではなかった。ただ、自然に、止まった。
二人はエレナに気づいていない。ヴィクトルが何か答え、令嬢がまた話す。窓から差し込む午後の光が、二人の輪郭を柔らかく縁取っていた。
胸の奥のどこか、普段は静かにしている場所に、小さな針が刺さったような感覚があった。痛みというほどではない。ただの、引っかかり。
エレナは静かに向きを変えた。来た廊下を戻る。一歩、二歩、三歩。角を曲がったところで、誰もいない廊下の壁に、片手をそっと添えた。
だから一度だけ、ゆっくりと息を吐いた。ため息ひとつ。それだけで十分だった。
エレナは手を壁から離し、また歩き始めた。廊下の先の鏡の前を通り過ぎるとき、今度は自分の顔を見なかった。見なくてもわかっていた。どうせそこには、完璧な公爵夫人が立っているのだから。
――後になって思えば、あの笑い声が最初の予兆だった。
ルイーズ伯爵夫人の言葉は、褒め言葉のかたちをしていた。けれど宮廷で三年を過ごしたエレナには、その言葉の裏側が読めた。完璧すぎる、と言いたいのだ。隙がない、と。あるいは、冷たい、と。
「ありがとうございます」
エレナは微笑んだ。完璧に。
五月の第二木曜日は、王妃陛下の茶会の日だった。
大広間に隣接する白間には、十二人の貴婦人が集まる。テーブルの中央には季節の花、両端には細長いシャンデリア、給仕たちは音もなく動く。
会話は常に二層構造になっている。表の層は天気と流行と子どもの話。裏の層は誰が誰と親しくなったか、誰の夫がどの派閥に近づいたか。
エレナはその二層を同時に泳ぐことが得意だった。いつからそうなったのかは覚えていない。気づいたときには身体が覚えていた。笑いながら聞き、聞きながら測り、測りながらまた笑う。それがここでの生き方だった。
茶会が終わると、貴婦人たちは思い思いに散っていく。エレナは王妃陛下に挨拶を済ませ、回廊に出た。
石造りの廊下は昼でも薄暗く、燭台の炎が壁に揺れる影を作る。廊下の鏡の前で、足が止まった。
鏡の中の女は完璧だった。淡い水色のドレスは皺ひとつなく、髪は朝のままに結われ、唇には薄く紅が乗っている。公爵夫人エレナ・アシュフォード。誰もがそう呼ぶ顔が、そこにあった。
――本当に、これが自分なのだろうか。
そう思う瞬間が、ときどきある。七歳の秋に野原を駆けていた頃の自分は、こんな顔をしていただろうか。あのとき笑っていたエレナと、今ここに立っているエレナは、本当に同じ人間なのだろうか。
エレナは静かに息を吐いた。鏡の中の女も同じように、音もなく息を吐いた。
廊下の先から、笑い声が聞こえた。
角を曲がった先の窓辺に、二人の人影があった。一人はヴィクトルだった。もう一人は女性で――顔は知っていた。先月の晩餐会で遠目に見た、新参の侯爵令嬢。しかし名前を思い出す前に、その場の空気が先に届いた。
明るかった。
ヴィクトルが笑っていた。執務室で書類に向かうときでも、晩餐会で挨拶を交わすときでもない、もっと素に近い笑い方で。令嬢の方も何か話しながら身振りを交えていて、ヴィクトルはそれに応じて短く笑った。
エレナはその場で足を止めた。足音を殺したわけではなかった。ただ、自然に、止まった。
二人はエレナに気づいていない。ヴィクトルが何か答え、令嬢がまた話す。窓から差し込む午後の光が、二人の輪郭を柔らかく縁取っていた。
胸の奥のどこか、普段は静かにしている場所に、小さな針が刺さったような感覚があった。痛みというほどではない。ただの、引っかかり。
エレナは静かに向きを変えた。来た廊下を戻る。一歩、二歩、三歩。角を曲がったところで、誰もいない廊下の壁に、片手をそっと添えた。
だから一度だけ、ゆっくりと息を吐いた。ため息ひとつ。それだけで十分だった。
エレナは手を壁から離し、また歩き始めた。廊下の先の鏡の前を通り過ぎるとき、今度は自分の顔を見なかった。見なくてもわかっていた。どうせそこには、完璧な公爵夫人が立っているのだから。
――後になって思えば、あの笑い声が最初の予兆だった。
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