ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ

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第四章 侯爵令嬢、参上

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「あの方、誰?」

エレナの隣で、ルイーズ伯爵夫人が小声でつぶやいた。広間の入り口に現れたその人物に、周囲の視線が吸い寄せられていた。エレナも、気づけば見ていた。

深紅のドレスだった。



五月の終わりに、春の宮廷舞踏会が開かれた。

アシュフォード家の馬車が王宮の正門をくぐったのは、夕刻の鐘が七つ鳴った直後だった。

ヴィクトルが先に降り、エレナに手を差し伸べる。慣れた所作だった。エレナも慣れた手つきでその手を取り、石段を上る。

「今夜は遅くなりそうか」とヴィクトルが言った。

「侯爵家の方々がいらっしゃるから、挨拶だけでも時間がかかるわ」

「そうだな」

それだけの会話をしながら、二人は大広間へ入った。

シャンデリアの光が、数百本の蝋燭の炎が、床の大理石に反射して広間全体を白く満たしていた。楽団はすでに演奏を始めている。壁際には談笑する貴族たちの群れ、中央では数組が踊り始めていた。

ヴィクトルはすぐに同僚の男爵に捕まった。

「少し話してくる」

と目だけで告げ、人の波に消えていく。エレナは頷き、給仕からシャンパングラスを受け取った。

そのときだった。広間の入り口に、それは現れた。



舞踏会の色としては大胆すぎる深紅。それが最初の印象だった。

白や淡い色が主流の中で、その深みのある赤は炎のように広間に入ってきた。着ている女性は背が高く、肩を張らず、しかし萎縮もせず、まるで自分の定位置を知っているように歩いた。

年の頃は二十二、三だろうか。髪は濃い栗色で高く結われ、頸から鎖骨にかけて一条のルビーのネックレスが光っていた。

顔立ちは華やかだが、最初に目に入るのは顔ではなく、その場の空気ごと変えてしまうような、存在の密度だった。

「イザベル・ランドール侯爵令嬢ですって」

ルイーズ夫人が耳元で言った。

「北の侯爵家の一人娘。お父上が宮廷の要職に就かれて、先月から王都にいらしているそうよ」

美しい、とエレナは思った。思ったことに、少し驚いた。嫉妬や警戒よりも先に、純粋な感嘆が来た。

イザベルは周囲の視線を受け流しながら、然る人に挨拶をし、笑い、また歩いた。その笑い声が遠くまで届いた。朗らかな、竹を割ったような笑い声だった。

宮廷にはあまり似合わない笑い方だ、とエレナは思った。似合わないのに、不思議と浮いていなかった。



夜が深まるにつれ、広間の熱は高くなった。

エレナはいくつかの会話をこなし、二度踊り、ヴィクトルと合流して晩餐の席に着いた。

ふと、視線を感じた。

テーブルの向こう、少し離れた席で、イザベルがこちらを見ていた。目が合うと、彼女は軽く微笑んだ。敵意のない、ただの挨拶のような微笑みだった。エレナも微笑み返した。

その直後、イザベルの視線がヴィクトルへ移った。

ヴィクトルがその視線に気づいて顔を向けた瞬間、エレナはグラスを口に運んだ。

シャンパンは冷たく、泡が舌の上で弾けた。ただ、ヴィクトルが軽く頷いてから、少し口元を緩めるのは見えた。

胸の中に、小石ひとつが落ちたような重さがあった。

エレナはグラスをテーブルに戻した。指先が、グラスの脚をほんの少しだけ強く握っていたことに気づいた。気づいて、そっと力を抜いた。

「アシュフォード夫人、ラベンダーはいかがかしら」

ルイーズ夫人の声が耳に届く。

「まあ、素敵ですね」

エレナは答えた。完璧な笑顔で。

ため息と悟られないほどの、ほんのわずかな吐息を、シャンパンと一緒に飲み込んだ。宮廷では、それくらいがちょうどいい。

――あの笑い声がエレナの胸に刺さったのは、偶然ではなかった。しかしそれをエレナが知るのは、ずっと後のことだ。
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