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第三十七章 庭園、最後の問い
薔薇の回廊に来るのは、いつぶりだろう。
エレナは石畳の上を歩きながら、数えようとして、やめた。数えてしまうと、来なかった日々を思い出す。思い出は、少し辛いほうが多い。今夜はそれを抱える余裕がなかった。
五月に若かった白薔薇は、今は満開だった。夜の闇の中でも、白さが際立っていた。散り際の薔薇は、咲き初めよりも美しいとエレナは思う。すべてを知った顔をしているから。
ベンチに腰を下ろし、膝の上で手を重ねた。いつもの場所。いつもの姿勢。ただ今夜は、来る前から決めていることがあった。
足音が聞こえたのは、しばらくしてからだった。
今日は遅れなかった。それだけで、ヴィクトルが何かを察していることがわかった。
彼は無言でエレナの隣に座った。二人分の沈黙が、薔薇の香りとともに回廊を満たした。
エレナは正面を向いたまま、口を開いた。「ひとつだけ、聞かせてください」
声は揺れなかった。
「あなたは、イザベル様を愛しているの?」
風が一度、回廊を吹き抜けた。白薔薇が揺れ、花びらが一枚、二人の間の石畳に落ちた。
長い沈黙の後、ヴィクトルが言った。
「……わからない」
その言葉が空気に消えていくのが分かった。エレナはゆっくりと聞いた。
やはりそうか、と思った。怒りは来なかった。悲しみも、思ったより静かだった。ただ、長い間胸の奥で疑問だった何かが、今夜ようやく答えがでた。
エレナは静かに立ち上がった。スカートの皺を手で払う。背筋を伸ばす。いつもの所作。骨の髄まで染み込んだ、公爵夫人の形。
そして振り返らずに、言った。
「そう。――私はわかっているけれど」
それだけだった。石畳の上を、一歩、一歩、歩いていく。振り返らなかった。振り返る必要がなかった。
後ろで、低い声がした。
「エレナ」呼んだだけだった。
続きはなかった。
エレナは歩みを止めなかった。回廊の出口まで、あと五歩。四歩。三歩。
二歩。一歩。
回廊を出る直前、エレナはひとつだけ息を吐いた。誰にも聞こえないほど小さく、薔薇の香りに混じって消えていくような、ため息ひとつ。
三年分の、最後のため息だった。
白薔薇の回廊に、ヴィクトルだけが残された。石畳の上に落ちた花びらと、妻の残していった言葉と、自分がわからないと言ってしまったことの重さと。
――「わからない」は、最もずるい答えだ。
エレナはそれを知っていながら、責めなかった。その優しさが、ヴィクトルには一番辛かった。
エレナは石畳の上を歩きながら、数えようとして、やめた。数えてしまうと、来なかった日々を思い出す。思い出は、少し辛いほうが多い。今夜はそれを抱える余裕がなかった。
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ベンチに腰を下ろし、膝の上で手を重ねた。いつもの場所。いつもの姿勢。ただ今夜は、来る前から決めていることがあった。
足音が聞こえたのは、しばらくしてからだった。
今日は遅れなかった。それだけで、ヴィクトルが何かを察していることがわかった。
彼は無言でエレナの隣に座った。二人分の沈黙が、薔薇の香りとともに回廊を満たした。
エレナは正面を向いたまま、口を開いた。「ひとつだけ、聞かせてください」
声は揺れなかった。
「あなたは、イザベル様を愛しているの?」
風が一度、回廊を吹き抜けた。白薔薇が揺れ、花びらが一枚、二人の間の石畳に落ちた。
長い沈黙の後、ヴィクトルが言った。
「……わからない」
その言葉が空気に消えていくのが分かった。エレナはゆっくりと聞いた。
やはりそうか、と思った。怒りは来なかった。悲しみも、思ったより静かだった。ただ、長い間胸の奥で疑問だった何かが、今夜ようやく答えがでた。
エレナは静かに立ち上がった。スカートの皺を手で払う。背筋を伸ばす。いつもの所作。骨の髄まで染み込んだ、公爵夫人の形。
そして振り返らずに、言った。
「そう。――私はわかっているけれど」
それだけだった。石畳の上を、一歩、一歩、歩いていく。振り返らなかった。振り返る必要がなかった。
後ろで、低い声がした。
「エレナ」呼んだだけだった。
続きはなかった。
エレナは歩みを止めなかった。回廊の出口まで、あと五歩。四歩。三歩。
二歩。一歩。
回廊を出る直前、エレナはひとつだけ息を吐いた。誰にも聞こえないほど小さく、薔薇の香りに混じって消えていくような、ため息ひとつ。
三年分の、最後のため息だった。
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――「わからない」は、最もずるい答えだ。
エレナはそれを知っていながら、責めなかった。その優しさが、ヴィクトルには一番辛かった。
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