3 / 10
第2章:半年の猶予
しおりを挟む窓外の雪明かりが、王妃の私室に厳かな朝の光を運び込んでいた。
リリアナは、身につけた豪奢な朝のローブの重みを感じながら、静かに心を整える。
昨日まで胸に抱いていた「純粋な愛」という感情は、いまや遠い残像に過ぎなかった。
侍女マルグリットが恭しく入室し、朝の支度を始める。
「王妃様。本日は、陛下と庭園での朝食がおありです。お支度を急がねばなりません」
その言葉に、リリアナは心の中で日付を確かめる。
今日は――婚礼後、初めて迎える二人きりの公式な朝食会。
一度目の人生では胸躍らせて臨んだ時間だ。だが、今回は違う。
(冬至まで、あと百七十日。この半年は “陛下の妻”ではなく、この宮廷の“観察者”として生きる。)
リリアナの唇に、完璧な「お飾りの王妃」の微笑みが浮かぶ。
美しいが、どこにも温度を宿さない、冷たい仮面のような微笑みだった。
庭園奥の温室へ向かう道すがら、リリアナは自分の振る舞いを丁寧に調整した。
アレスを真正面から見つめず、あくまで一歩引いた位置で敬意だけを示す。
感情を交えず、すべて“公務としての王妃”の立場に基づく内容に。
温室へ入ると、アレスはすでに席に着いていた。
豪奢な朝食のテーブルの前で、リリアナの姿を見つけた彼の瞳に、かすかな期待と安堵が浮かぶ。
リリアナは、その一瞬の色を見逃さなかった。
(まだ、陛下は私を愛している。
その愛ゆえに、半年後、自らを苦しめることになるのに――)
「陛下。おはようございます。お招きいただき、光栄に存じます」
完璧な敬礼とともに告げた声は、あたたかさを一切含まない外交儀礼の調子だった。
アレスは少し戸惑ったように立ち上がる。
「リリアナ、おはよう。そんなに堅苦しくなくていい。今日は二人きりだ」
彼は自然な仕草でリリアナの手を取り、指先に口づけようとした。
その瞬間、リリアナは礼儀を崩さぬまま、そっと手を引いた。
「恐れ入ります、陛下。
公の場では節度を守るべきかと存じます。
隣国との情勢も不安定な今、軽率に隙を見せるわけにはまいりません」
柔らかく微笑んではいたが、そこには一片の情もない。
アレスは、彼女との間に透明な壁が立ちはだかったことを悟った。
一瞬、彼の表情に戸惑いが浮かぶ。
しかしすぐに、それを隠すように笑みを繕った。
「……そうか。君は以前にも増して、王妃としての自覚が強いようだ。
君がこの国のために尽くしてくれるのは嬉しいよ」
言葉と裏腹に、アレスの胸には不吉な疑念が芽生えていた。
目の前のリリアナは――あまりに『理想の王妃』すぎた。
(昨夜まで、あれほど愛らしかったというのに……。
まるで、何かが彼女の中で静かに死んでしまったようだ――)
朝食の間、リリアナは冷静に宮廷の情報を整理していった。
1. 情報の鍵:一度目の人生で、アレスが倒れた際に目にした禁書庫の鍵はどこに隠されていたか。
2. 裏切り者:宰相ヴァイス。彼は“呪い”を証明するための偽りの証拠を、必ず宮廷のどこかに隠している。
3. 信頼できる者:老騎士ゼオン。彼だけは最後まで自分を信じようとした。どう接触すべきか。
リリアナの思考に、もはや愛の温度はなかった。
心に描くのは、緻密な地図のような計画のみ。
「陛下。
王妃として、この国の歴史と外交について深く学びたく存じます。
禁書庫への立ち入りを、お許しいただけますでしょうか」
リリアナは優雅に、しかし揺るぎない意志を込めて尋ねた。
アレスの目が驚きに細められる。
禁書庫には、王家の秘密と“呪い”の起源が記されている――
本来、リリアナが興味を持つはずのない場所だ。
「……リリアナ。あそこは古く、埃の多い場所だ。君には相応しくない」
「ですが、それが私の務めです。陛下」
その“務め”という響きに、アレスは返す言葉を失った。
彼は、リリアナが何を考えているのかまったく読めない。
ただ、ひとつだけ確かだった。
――目の前の彼女は、もう「昨日のリリアナ」ではない。
「……分かった。宰相に伝えよう。禁書庫への通行を許可する」
その返答に、リリアナの胸に静かな確信が宿った。
冷たく澄んだ勝利の気配だった。
35
あなたにおすすめの小説
忖度令嬢、忖度やめて最強になる
ハートリオ
恋愛
エクアは13才の伯爵令嬢。
5才年上の婚約者アーテル侯爵令息とは上手くいっていない。
週末のお茶会を頑張ろうとは思うもののアーテルの態度はいつも上の空。
そんなある週末、エクアは自分が裏切られていることを知り――
忖度ばかりして来たエクアは忖度をやめ、思いをぶちまける。
そんなエクアをキラキラした瞳で見る人がいた。
中世風異世界でのお話です。
2話ずつ投稿していきたいですが途切れたらネット環境まごついていると思ってください。
(完結)私が貴方から卒業する時
青空一夏
恋愛
私はペシオ公爵家のソレンヌ。ランディ・ヴァレリアン第2王子は私の婚約者だ。彼に幼い頃慰めてもらった思い出がある私はずっと恋をしていたわ。
だから、ランディ様に相応しくなれるよう努力してきたの。でもね、彼は・・・・・・
※なんちゃって西洋風異世界。現代的な表現や機器、お料理などでてくる可能性あり。史実には全く基づいておりません。
私を忘れた貴方と、貴方を忘れた私の顛末
コツメカワウソ
恋愛
ローウェン王国西方騎士団で治癒師として働くソフィアには、魔導騎士の恋人アルフォンスがいる。
平民のソフィアと子爵家三男のアルフォンスは身分差があり、周囲には交際を気に入らない人間もいるが、それでも二人は幸せな生活をしていた。
そんな中、先見の家門魔法により今年が23年ぶりの厄災の年であると告げられる。
厄災に備えて準備を進めるが、そんな中アルフォンスは魔獣の呪いを受けてソフィアの事を忘れ、魔力を奪われてしまう。
完結まで予約投稿済み
世界観は緩めです。
ご都合主義な所があります。
誤字脱字は随時修正していきます。
貴方が私を嫌う理由
柴田はつみ
恋愛
リリー――本名リリアーヌは、夫であるカイル侯爵から公然と冷遇されていた。
その関係はすでに修復不能なほどに歪み、夫婦としての実態は完全に失われている。
カイルは、彼女の類まれな美貌と、完璧すぎる立ち居振る舞いを「傲慢さの表れ」と決めつけ、意図的に距離を取った。リリーが何を語ろうとも、その声が届くことはない。
――けれど、リリーの心が向いているのは、夫ではなかった。
幼馴染であり、次期公爵であるクリス。
二人は人目を忍び、密やかな逢瀬を重ねてきた。その愛情に、疑いの余地はなかった。少なくとも、リリーはそう信じていた。
長年にわたり、リリーはカイル侯爵家が抱える深刻な財政難を、誰にも気づかれぬよう支え続けていた。
実家の財力を水面下で用い、侯爵家の体裁と存続を守る――それはすべて、未来のクリスを守るためだった。
もし自分が、破綻した結婚を理由に離縁や醜聞を残せば。
クリスが公爵位を継ぐその時、彼の足を引く「過去」になってしまう。
だからリリーは、耐えた。
未亡人という立場に甘んじる未来すら覚悟しながら、沈黙を選んだ。
しかし、その献身は――最も愛する相手に、歪んだ形で届いてしまう。
クリスは、彼女の行動を別の意味で受け取っていた。
リリーが社交の場でカイルと並び、毅然とした態度を崩さぬ姿を見て、彼は思ってしまったのだ。
――それは、形式的な夫婦関係を「完璧に保つ」ための努力。
――愛する夫を守るための、健気な妻の姿なのだと。
真実を知らぬまま、クリスの胸に芽生えたのは、理解ではなく――諦めだった。
ガネス公爵令嬢の変身
くびのほきょう
恋愛
1年前に現れたお父様と同じ赤い目をした美しいご令嬢。その令嬢に夢中な幼なじみの王子様に恋をしていたのだと気づいた公爵令嬢のお話。
※「小説家になろう」へも投稿しています
陛下を捨てた理由
甘糖むい
恋愛
美しく才能あふれる侯爵令嬢ジェニエルは、幼い頃から王子セオドールの婚約者として約束され、完璧な王妃教育を受けてきた。20歳で結婚した二人だったが、3年経っても子供に恵まれず、彼女には「問題がある」という噂が広がりはじめる始末。
そんな中、セオドールが「オリヴィア」という女性を王宮に連れてきたことで、夫婦の関係は一変し始める。
※改定、追加や修正を予告なくする場合がございます。ご了承ください。
殿下!婚姻を無かった事にして下さい
ねむ太朗
恋愛
ミレリアが第一王子クロヴィスと結婚をして半年が経った。
最後に会ったのは二月前。今だに白い結婚のまま。
とうとうミレリアは婚姻の無効が成立するように奮闘することにした。
しかし、婚姻の無効が成立してから真実が明らかになり、ミレリアは後悔するのだった。
とある伯爵の憂鬱
如月圭
恋愛
マリアはスチュワート伯爵家の一人娘で、今年、十八才の王立高等学校三年生である。マリアの婚約者は、近衛騎士団の副団長のジル=コーナー伯爵で金髪碧眼の美丈夫で二十五才の大人だった。そんなジルは、国王の第二王女のアイリーン王女殿下に気に入られて、王女の護衛騎士の任務をしてた。そのせいで、婚約者のマリアにそのしわ寄せが来て……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる