幸せの賞味期限――妹が奪った夫は、甘く腐る

柴田はつみ

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第十二章:路上の伯爵令嬢

 馬車も呼ばず、泥の跳ね返る道を歩くリリア。

 冷たい雨が降り始めたその時、前方から一台の、黒檀のような漆黒の馬車が近づいてきた。

 止まった馬車の窓がゆっくりと下り、冷徹な、けれど圧倒的な力強さを宿した瞳がリリアを捉える。

 アルマード公爵。
 この国の頂点に立つ、氷の如き男。

「随分ずぶ濡れだな……偶然通りかかったのだが、もしよければ乗りなさい。私の隣は、お前が座っていたあの安っぽい椅子よりも、ずっと硬くて冷たいがね」

 リリアは、泥に汚れた靴のまま、差し出された手を取った。

 地獄の幕は、今、盛大に開いたばかりだった。
 


漆黒の馬車の中は、驚くほど静かだった。

 外を叩く雨の音も、馬の蹄の音も、厚い革張りの壁に吸い込まれて届かない。

 リリアは、泥に汚れたドレスのまま、最高級のベルベットの座席に身を沈めていた。

 隣に座るアルマード公爵からは、雨の匂いと、かすかに上質な煙草、そして冷徹な男特有の、体温を感じさせない冷ややかな香りが漂ってくる。

「……随分と無様な姿だな。

 伯爵夫人の仮面を剥がされれば、ただの雨に濡れた仔犬か」

 公爵の声は低く、そして容赦がなかった。

 リリアは、震える肩を抱きしめた。

 アルマード公爵。

 王宮の軍部を統べ、「氷の公爵」と渾名される男。

 彼がなぜ、このタイミングで、道端に捨てられた自分を拾ったのか。

「お助けいただいたことには感謝します。

 ですが、今の私に、公爵様を楽しませるような言葉は持ち合わせておりませんわ」

「礼を言えと言った覚えはない。

 私は、投資家として君を見ているだけだ」

 投資家。

 その言葉に、リリアは顔を上げた。

 アルマードは、暗闇の中でも鋭く光る瞳で、じっとリリアを見つめていた。

 まるで、壊れかけた骨董品に価値が残っているかどうかを鑑定するような、冷酷な眼差し。

全て何があったか、わかるように、言った。

「ご主人は、――カイルだったか。その様子だと
どうやら奴は、君という『最強の盾』を自ら手放したようだな。

 そして、自分を英雄に見せてくれる安物の飾りを選んだということか?。

 実に見事な没落の始まりだな」


何故説明せずにわかったのだろう。
不思議だった。

馬車は暗闇を走っている。

暫くすると、 公爵は、細く長い指でリリアの顎を掬い上げ、無理やり自分の方を向かせた。

「だが、君も同罪だ。

 今まで自分の価値を理解せず、あんな無能な男に、自分の人生という名の名画を切り売りしていたのだからな」

 リリアの瞳から、屈辱の涙が溢れそうになる。

 けれど、彼女はそれを堪えた。

 今ここで泣けば、本当に「賞味期限切れの女」として終わってしまう。

「……私に、何をお望みですか」

「君の中に眠る、その『強さ』だ。

 カイルが窒息すると恐れたその有能さを、私の元で磨き上げろ。

 君がかつて、戦場で名もなき兵士だった私に施した、あの冷徹なまでの冷静さと慈悲を、もう一度見せてみろ」

 リリアは息を呑んだ。

 数年前、負傷した兵士を手当てしたことがあった。

 泥と血にまみれた彼を、リリアは表情ひとつ変えず、淡々と処置した。

 あの時の男が、この「氷の公爵」だったというのか。

「君を、社交界の頂点に再降臨させてやる。

 君を捨てた者たちが、自分たちがどれほど愚かな『ゴミ』を選んだのかを思い知り、のたうち回る姿を見たくはないか?」

 公爵の唇が、美しく、そして残酷に歪んだ。

 リリアは、自分の内側で、何かが熱く疼くのを感じた。

 それは「悲しみ」ではない。

 自分を辱めた者たちへの、静かな、けれど底知れない「業」の炎だった。

「……ええ。

 見たいですわ、公爵様」

 リリアは、泥で汚れた自分の手を、公爵の白い手袋の上に重ねた。

 馬車は、リリアの過去を置き去りにするように、公爵邸へと続く暗い夜道を加速していった。

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