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裏章 マリナの焦り ――綻びに気づく午後
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午後の光が、伯爵家の大広間に斜めに差し込んでいた。
レースのカーテンが風に揺れ、床には淡い模様のような影が広がる。
マリナはサロンの中央に座り、
昼下がりの紅茶を口に含んだ。
――甘い。
だが、いつもより、わずかに舌に乗る味が重い。
(落ち着いて。
すべては予定どおり。
角度は整えた。影は焼かれた。
噂は広まった……はず。)
しかし、胸の奥で“ひっかかる感覚”が消えない。
部屋の外から、控えめなノック。
「失礼いたします、お嬢様……」
リディアが入ってきた。
だが、普段はきちんと張っている背筋が、今日はわずかに揺れている。
「どうしたの、リディア?」
マリナはカップを置き、優しい声で問いかけた。
「いえ、その……公爵家の侍女から、少し……」
「“少し”?」
「はい……視線を感じました。
まるで、何かを……探っているような……」
マリナの指が、カップの取っ手で止まる。
(……あら。)
「何故そう思ったのか、聞かせて?」
トーンは変えずに。
「封書を渡したとき……
その侍女の方が、蝋の跡をじっと……
嗅ぎ分けていたように見えて……」
マリナの目が細くなった。
「嗅ぎ……分けた?」
「はい……“アイリスの香りですね”と……
それで……すぐに顔を伏せて去って……」
沈黙が一瞬だけ、空気を冷たくした。
(――公爵家。
香りで気づいたの?
あの侍女、ただ者ではないわね)
さらにリディアは続けた。
「それに……公爵家は今日、
ひどく静かでした。
侍女の数も少なく、
全員が……何かを警戒しているような」
「警戒?」
「はい。
誰も噂を口にせず、
逆に、沈黙だけが……重くて……」
マリナは言葉を失った。
(噂が広まっているなら、
もっと浮き足立つはず。
なのに“静か”だなんて……)
胸がじわりとざわつく。
(……小謁見が近いから?
それとも――
“何か掴んでいる”から?)
さらに、別の侍女が駆け込んできた。
「お嬢様、報告が……!」
「どうしたの?」
「近衛の侍女頭マーガレットが、
公爵家へ向かったとのことです!」
マリナは初めて、表情を止めた。
「……誰の指示かしら?」
「わかりません。
ただ、“封書の真偽調査”という噂が……」
紅茶のカップが、静かに揺れた。
(封書――)
あの封蝋。
あの花押。
あのわざと残した“気泡”。
(まさか……気づかれた?)
喉が一瞬、乾いた。
だが、マリナはすぐに微笑んだ。
「……大丈夫よ。
“真偽調査”など、形だけのもの。
騎士の写場も、鏡の角度も、
『状況の誤解でした』で済ませられる」
侍女たちは安堵したように見えたが、
リディアだけはまだ不安げだった。
その顔に、マリナはそっと近づき、
彼女の頬に触れるように指を添えた。
「リディア。
あなたは美しい手をしている。
けれど、手が震えていては美しく見えないわ」
「……はい。申し訳ありません」
「謝ることはないわ。
ただ覚えておいて――
噂は“信じる人間”の数で真実になる。
たとえ、本当がどうであれね」
優しい声なのに、
リディアの背がこわばる。
侍女たちが下がったあと、
マリナはひとり窓辺に立った。
風がレースを揺らし、
外の薔薇園に影を落とす。
ふと、机の上に置かれた“試し刷り”の版下――
白と黒の影が寄り添う図版。
その端に、淡いアイリスの粉香が残っている。
(この香りが……
どこまで運ばれたのかしら)
風がそよぎ、
粉香がうっすらと舞った。
その動きが、
なぜか妙に不穏に見えた。
(……この綻び。
どこまで広がる?
誰が拾った?
どの視線に、映っている?)
胸の奥に、
初めて“嫌な予感”がゆっくりと沈んでいく。
その予感を振り払うように、
マリナは自分の腕を抱いた。
(いいえ。
風向きは……まだ私の味方)
けれど――
その呟きの最後は、
ほんのわずかに震えていた。
レースのカーテンが風に揺れ、床には淡い模様のような影が広がる。
マリナはサロンの中央に座り、
昼下がりの紅茶を口に含んだ。
――甘い。
だが、いつもより、わずかに舌に乗る味が重い。
(落ち着いて。
すべては予定どおり。
角度は整えた。影は焼かれた。
噂は広まった……はず。)
しかし、胸の奥で“ひっかかる感覚”が消えない。
部屋の外から、控えめなノック。
「失礼いたします、お嬢様……」
リディアが入ってきた。
だが、普段はきちんと張っている背筋が、今日はわずかに揺れている。
「どうしたの、リディア?」
マリナはカップを置き、優しい声で問いかけた。
「いえ、その……公爵家の侍女から、少し……」
「“少し”?」
「はい……視線を感じました。
まるで、何かを……探っているような……」
マリナの指が、カップの取っ手で止まる。
(……あら。)
「何故そう思ったのか、聞かせて?」
トーンは変えずに。
「封書を渡したとき……
その侍女の方が、蝋の跡をじっと……
嗅ぎ分けていたように見えて……」
マリナの目が細くなった。
「嗅ぎ……分けた?」
「はい……“アイリスの香りですね”と……
それで……すぐに顔を伏せて去って……」
沈黙が一瞬だけ、空気を冷たくした。
(――公爵家。
香りで気づいたの?
あの侍女、ただ者ではないわね)
さらにリディアは続けた。
「それに……公爵家は今日、
ひどく静かでした。
侍女の数も少なく、
全員が……何かを警戒しているような」
「警戒?」
「はい。
誰も噂を口にせず、
逆に、沈黙だけが……重くて……」
マリナは言葉を失った。
(噂が広まっているなら、
もっと浮き足立つはず。
なのに“静か”だなんて……)
胸がじわりとざわつく。
(……小謁見が近いから?
それとも――
“何か掴んでいる”から?)
さらに、別の侍女が駆け込んできた。
「お嬢様、報告が……!」
「どうしたの?」
「近衛の侍女頭マーガレットが、
公爵家へ向かったとのことです!」
マリナは初めて、表情を止めた。
「……誰の指示かしら?」
「わかりません。
ただ、“封書の真偽調査”という噂が……」
紅茶のカップが、静かに揺れた。
(封書――)
あの封蝋。
あの花押。
あのわざと残した“気泡”。
(まさか……気づかれた?)
喉が一瞬、乾いた。
だが、マリナはすぐに微笑んだ。
「……大丈夫よ。
“真偽調査”など、形だけのもの。
騎士の写場も、鏡の角度も、
『状況の誤解でした』で済ませられる」
侍女たちは安堵したように見えたが、
リディアだけはまだ不安げだった。
その顔に、マリナはそっと近づき、
彼女の頬に触れるように指を添えた。
「リディア。
あなたは美しい手をしている。
けれど、手が震えていては美しく見えないわ」
「……はい。申し訳ありません」
「謝ることはないわ。
ただ覚えておいて――
噂は“信じる人間”の数で真実になる。
たとえ、本当がどうであれね」
優しい声なのに、
リディアの背がこわばる。
侍女たちが下がったあと、
マリナはひとり窓辺に立った。
風がレースを揺らし、
外の薔薇園に影を落とす。
ふと、机の上に置かれた“試し刷り”の版下――
白と黒の影が寄り添う図版。
その端に、淡いアイリスの粉香が残っている。
(この香りが……
どこまで運ばれたのかしら)
風がそよぎ、
粉香がうっすらと舞った。
その動きが、
なぜか妙に不穏に見えた。
(……この綻び。
どこまで広がる?
誰が拾った?
どの視線に、映っている?)
胸の奥に、
初めて“嫌な予感”がゆっくりと沈んでいく。
その予感を振り払うように、
マリナは自分の腕を抱いた。
(いいえ。
風向きは……まだ私の味方)
けれど――
その呟きの最後は、
ほんのわずかに震えていた。
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