偽りのの誓い

柴田はつみ

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第十二回

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「本物の交際期間」が始まって一ヶ月。二人の間には、以前のようなぎこちなさはなくなり、かといって恋人らしい甘い雰囲気があるわけでもなかった。


しかし、確実にお互いを意識する時間は増え、会話の端々にも、どこか穏やかな温かさが宿り始めていた。


ある週末の午後、カレンはリビングで雑誌を読んでいた。そこに、翔がオフのカジュアルな服装で現れた。


「カレン、少し時間いいか?」


「ええ、何?」


カレンが雑誌から目を上げると、翔は少し躊躇いながら言った。


「来週末、少し遠出をしないか? 日帰りだが」


カレンは驚いて目を見開いた。
「遠出? どこへ?」


「温泉だ。日帰り温泉施設で、個室露天風呂があるところを見つけたんだ。どうだ?」


翔の提案に、カレンは目を丸くした。彼からそんな誘いがあるとは、想像もしていなかった。


「温泉……。でも、私たち、偽装結婚中なのよ? 変に思われない?」 


「大丈夫だ。個室だし、周りに気にすることもない。それに、夫婦水入らずの旅行に見せかけるのは、偽装結婚としては完璧だろう?」


翔は、少し得意げに言った。その言葉に、カレンは小さく笑った。


「そうね。それもそうかも。でも、なんで急に温泉なの?」


カレンが尋ねると、翔は少し視線を逸らした。


「……たまには、ゆっくりしたいと思ってな。それに、君も最近、少し疲れているように見えたから」


翔の気遣いに、カレンの胸に温かいものが広がった。彼は、意外と人のことを見ている。


「ありがとう。じゃあ、行きましょうか」

カレンが承諾すると、翔の顔に安堵の表情が浮かんだ。

週末、二人は新幹線で温泉地へ向かった。車内では、翔がスマホで仕事のメールをチェックし、カレンは窓の外の景色を眺めていた。

しかし、以前のような沈黙はなかった。
「この間、取引先が言っていたんだが、あの温泉地の旅館は食事が美味いらしいぞ」


翔がスマホから顔を上げ、話しかけてきた。
「へえ、そうなの? 楽しみね」


「ああ。君は、温泉旅行とか、よく行くのか?」


「昔は、家族旅行でたまに行ったわね。でも、最近はあまり。翔は?」


「俺も、仕事の付き合いで何回か行ったくらいだ。こういうプライベートな旅行は、あまり経験がないな」


翔は、少し照れたように言った。カレンは、そんな彼の意外な一面に、くすりと笑った。


温泉施設に到着すると、二人は受付を済ませ、案内された個室露天風呂へ向かった。広々とした和室に、外には趣のある露天風呂。


「わあ、素敵!」


カレンは目を輝かせた。翔も、その様子を見て、満足そうに頷いた。


「だろう? 少し奮発した甲斐があったな」


着替えを済ませ、露天風呂に浸かると、温かい湯が体の芯まで染み渡る。湯気越しに見える翔の顔は、いつもよりずっと穏やかだった。


「気持ちいいわね……」  

カレンが目を閉じて呟くと、翔が隣で言った。


「ああ。たまには、こういう時間も必要だな」 

「本当に。あなたも、いつも仕事ばかりじゃ疲れちゃうわよ」

「そうだな。これからは、もっとプライベートも充実させるべきだと、最近つくづく思う」


翔の言葉に、カレンは少し驚いた。彼がそこまで言うとは。

「それは、私がいるから?」

カレンが冗談めかして尋ねると、翔は顔を背けた。 

「……そういうことにしといてやる」


翔の照れたような返事に、カレンは思わず笑ってしまった。
湯から上がり、浴衣に着替えて休憩していると、翔が淹れてくれたお茶を渡してきた。


「ねえ、翔。もし、この偽装結婚がなかったら、私たちって、こんな風に旅行に来ること、あったと思う?」


カレンの問いに、翔はしばらく考え込んだ。


「……どうだろうな。俺は、君のことを幼馴染としてしか見ていなかったかもしれない。それに、君も俺のことを、ただの御曹司としか思っていなかっただろう」


翔の言葉に、カレンは少し寂しさを感じた。


「そうね。きっと、こんな風に話すこともなかったわね」


「だが、今こうして、君と二人でここにいる。それは、この偽装結婚があったからだ」


翔は、カレンの目を見て言った。その言葉は、カレンの心にじんわりと温かさをもたらした。


「そうね……。不思議ね」
 
カレンが呟くと、翔はカレンの手をそっと握った。その手は、湯上がりのせいか、いつもよりずっと温かかった。
 
「まだ契約期間は残っている。だが、この一年間を、ただの偽装で終わらせたくない。俺は、君と本当の夫婦になりたいと思っている」


翔の真剣な眼差しに、カレンの心臓が大きく跳ねた。彼の言葉には、以前の迷いはなく、確固たる決意が込められていた。

カレンは、翔の手を握り返した。その手は、もう二度と離さない、そんな強い決意を込めていた。



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