心配するな、俺の本命は別にいる——冷酷王太子と籠の花嫁

柴田はつみ

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第5章「舞踏会の影」

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 王宮の大広間は、無数の燭台に灯された炎で夜空の星々のように煌めいていた。
 豪奢なシャンデリアが頭上で輝き、弦楽器の音色が華やかに響く。
 絹と宝石に身を包んだ貴族たちが笑みを交わし、舞踏の輪が広がっていく。

 その夜は、隣国からの使節団を迎えるための盛大な舞踏会だった。
 セレーネは深い紺碧のドレスに身を包み、王太子妃候補として人々の前に立たされていた。
 背筋を伸ばし、微笑みを浮かべてはいるが、胸の内は嵐のように揺れていた。

 ——心配するな。俺の好きな人は別にいる。
 あの言葉は、どんな光の中でも影のように彼女を追いかけてくる。

「妃殿下、こちらに」
 侍女に導かれ、彼女は舞踏の輪へと足を踏み入れた。
 隣には当然、婚約者である王太子レオニスの姿がある。
 彼の漆黒の礼装は威厳に満ち、琥珀色の瞳は冷たく光を宿していた。

 形式的に踊り始めた二人を、周囲の視線が注ぐ。
 絵画のように美しい一対。しかし、指先に伝わる力は硬く、温もりではなく冷徹さを告げていた。

「……殿下」
 小声で呼びかけると、彼は視線を逸らさずに答えた。
「笑え。お前は妃候補だ。人々に弱みを見せるな」
「……承知しました」

 唇に微笑を貼り付ける。
 だがその笑みの裏で、胸は痛みに締め付けられていた。



 舞踏がひと区切りついた頃、声がかけられた。
「お疲れではありませんか、妃殿下」

 振り向いた先に立っていたのは、隣国の騎士団長カイル。
 陽に焼けた小麦色の肌、鋭さの中に柔らかさを宿す瞳。
 彼は片膝を折り、丁寧に礼をした。

「僭越ながら、次の曲を私に賜れませんか」
「え……」

 一瞬、戸惑った。
 本来ならば婚約者としか踊るべきではない。
 けれど、周囲の令嬢たちが期待の眼差しを向け、断れば場が乱れるのも事実だった。

 迷うセレーネの背後から、低い声が割り込む。
「必要ない。彼女は俺の婚約者だ」

 レオニスの瞳が鋭く光る。
 だがカイルは微笑を崩さず、堂々と答えた。

「もちろん承知しております。しかし、社交の場での一曲は友情の証。妃殿下を尊重する意味でも……」

 人々の視線が集まる中、セレーネは逃げ場を失った。
「……では、一曲だけ」
 小さく頷くと、カイルが優しく手を取った。



 舞踏が始まる。
 カイルの導きは穏やかで、安心を与えるものだった。
「妃殿下……緊張なさっているのですか」
「ええ、少し……」
「ご心配なく。貴女の歩みに合わせます」

 その柔らかな声に、セレーネの胸がわずかに軽くなる。
 だが同時に、突き刺さるような視線を感じた。

 視線の主は、もちろんレオニスだった。
 舞踏会の輪の外から、琥珀色の瞳が燃えるようにセレーネを射抜いている。

 心臓が早鐘を打つ。
 ——なぜ、あの瞳は怒りに揺れているの?
 本命が別にいるのなら、私が誰と踊ろうと関係ないはずなのに。



 曲が終わると同時に、レオニスが歩み寄った。
 その足取りは静かだが、内に秘めた苛立ちが滲み出ていた。

「妃殿下を返してもらおう」
 低い声。
 カイルは苦笑しつつ手を放した。
「殿下、どうぞご安心を。妃殿下には失礼のないよう努めました」

 礼をして去っていくカイルの背を見送り、セレーネは息を詰めた。
 次の瞬間、レオニスの手が彼女の腕を強く掴む。

「……殿下、痛い……」
「余計な真似をするな。お前は俺の妃だ」
「けれど、私はただ礼儀として……!」
「言い訳は聞かん」

 耳元に落とされた声は冷たいはずなのに、熱を帯びていた。
 その矛盾に、セレーネの胸は再び揺さぶられる。

 広間の光と音楽が遠のき、彼の瞳と声だけが世界を支配していた。



 その夜。
 自室に戻ったセレーネは、震える手で胸を押さえた。
 レオニスの冷酷な言葉と、燃えるような視線が交錯する。

「本命は……別にいるのではなかったの?」

 月明かりの下、問いは答えを得ぬまま、静かに夜へ溶けていった。
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