心配するな、俺の本命は別にいる——冷酷王太子と籠の花嫁

柴田はつみ

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第8章「涙の独白」

 王宮の夜は深く静かだった。
 昼間は人々の声と足音に満ちている広大な廊下も、月明かりだけに照らされると別の世界のように見える。
 その静けさは、セレーネにとっては安らぎではなく、むしろ孤独の影をいっそう濃くするものだった。

 ——お前ではないことだけは確かだ。

 冷酷な声が耳の奥で繰り返される。
 あの瞬間の痛みはまだ胸を突き刺したまま、何度も心をえぐっていた。



 寝室のベッドに身を投げ出したセレーネは、枕を抱きしめ、堪えきれず嗚咽を漏らした。
 誰にも聞かれたくない涙。
 けれど、こらえきれるものではなかった。

「……どうして……どうして……」

 枕に押し当てた声は震え、涙に濡れて滲んだ。
 妃として務めを果たす覚悟はある。
 愛を求めてはならないと理解している。
 それでも、心は理屈に逆らって叫んでいた。

 ——愛してほしい。たとえ一瞬でも。

 その願いを口にしてはいけないとわかっている。
 けれど胸の奥で抑えきれない。

「殿下……私は……」

 言葉の続きを紡げないまま、嗚咽がそれをかき消した。



 翌日。
 庭園の東屋で、セレーネは侍女クラリッサと共に控えていた。
 花々が咲き乱れるはずの場所も、彼女には色を失って見える。

「セレーネ様……お顔色が優れません」
「……大丈夫。少し眠れなかっただけ」
 無理に微笑を作る。だが声はかすれていた。

「もし殿下に心を打ち明けられれば……」
 クラリッサの言葉に、セレーネは首を横に振った。
「いいえ……。あの方は、はっきりと拒絶なさったわ。私の心は不要だと」

 侍女は何も言えなくなり、沈黙が落ちた。



 夕刻。
 広間での公式な晩餐会を終え、自室に戻ったセレーネは、またも涙を流していた。
 鏡の前に座り、宝石で飾られた首飾りを外す。
 虚ろな瞳が鏡に映り、自分自身を見つめ返す。

「……私は……何のためにここにいるの」

 誰に答えを求めるわけでもなく、声がこぼれる。
 涙が頬を伝い、鏡の表面に落ちた。
 その雫は、彼女の問いがいかに孤独であるかを示していた。



 深夜。
 セレーネは寝台の端に腰を下ろし、月に向かって小さく語りかけた。
 それは誰にも届かない、彼女だけの独白だった。

「殿下……私、役目を果たします。妃としての務めも、笑顔も……。でも、心まで捨てられるわけではないのです」

 涙で霞む視界の中、月が揺れて見える。

「あなたに愛されたい……。望んではいけないとわかっていても……」

 声が途切れ、嗚咽に変わる。
 けれど、誰もいないこの部屋なら許される気がした。

 ——本当は愛してほしい。
 ——けれど、拒絶されるだけ。

 心の矛盾を抱えたまま、セレーネは静かに泣き続けた。



 そのとき、扉の向こうでかすかな足音がした。
 はっとして振り返る。
 だが足音は遠ざかり、やがて消えていった。

 ——まさか、殿下……?

 確かめることはできなかった。
 もし本当に彼だったなら、今の自分の独白を聞かれたのだろうか。

 胸が早鐘のように鳴る。
 けれど次の瞬間、セレーネは深い絶望に囚われた。
 たとえ聞かれていたとしても、彼が答えをくれることはないだろう、と。



 その夜、枕を濡らした涙は、朝まで乾くことがなかった。
 冷酷な拒絶の痛みと、報われぬ想いを抱えたまま、セレーネは孤独に閉ざされた籠の中で震えていた。

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