『影の夫人とガラスの花嫁』

柴田はつみ

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第22章「微笑まない肖像画」

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別邸へ出立する直前、
シャルロットは最後に一つだけ
確かめたいものがあった。

――東棟の、前妻エリザベラの部屋。

カルロスには
「危険だから行くな」と言われていた。

でも、どうしても見たかった。

(影は……
 本当に“前妻様”なの……?
 それとも……わたくしの勘違い……?)

答えを探すように、
シャルロットは一人で廊下を歩いていた。

白百合の香りはしない。

けれど、
冷たい空気が背中を撫でていく。

(怖い……でも……)

立ち止まる。

扉の前で息を整え、
そっと中に入った。

部屋は静かで、
生前のまま時間が止まっているようだった。

化粧台。
ピアノ。
白いドレスのかかった衣桁(いこう)。

そして――
壁に掛けられた、
前妻エリザベラの肖像画。

(……やっぱり……
 とても……お綺麗……)

甘く、柔らかい微笑みのはずだった。

シャルロットは一歩踏み出し、
ゆっくり顔を上げた。

その瞬間――
息が止まる。

(え……?)

肖像画のエリザベラは、
“微笑んでいなかった”。

昨日まで確かに笑っていたはずの唇が、
まっすぐに引き結ばれている。

冷たく、
厳しく、
どこか恨めしげな表情。

シャルロットの背中を
ぞくりと何かが走り抜けた。

(そんな……
 そんなはず……ありません……)

肖像画の前に立ち、
震える指で縁(ふち)にそっと触れた。

すると――

――カサッ。

乾いた音がした。

肖像画の裏側から、
小さな紙片が落ちたのだ。

シャルロットはそっと拾い上げ、
恐る恐る開いた。

そこには、
赤いインクで一言だけ書かれていた。

“居場所を間違えないことね”

シャルロットの喉が詰まった。

(わたくしに……?
 わたくしに向けて……?)

その時――
背後の扉が音もなく開いた。

「シャルロット!!」

カルロスだった。

息を切らし、
焦りの色を浮かべている。

「ここは危険だと言ったはずだ!
 どうして一人で……!」

シャルロットは手紙を握りしめ、
震えながら振り返った。

「こ、これを……
 肖像画の裏に……」

カルロスの顔色が一瞬で変わる。

彼は紙片を奪うように手に取り、
目を細めた。

「……またか」

「また……?」

カルロスは歯を噛みしめた。

「シャルロット、これは――
 “エリザベラの字ではない”」

シャルロットは息を呑む。

(では……誰……?)

カルロスは紙を握り潰すように握りしめ、
低く言った。

「お前をここに誘ったんだ。
 “影”が」

シャルロットの身体が震える。

するとカルロスは
シャルロットの肩に触れようとし――
やはり、寸前で手を止めた。

(また……触れてくださらない……
 でも……その手が震えている……)

カルロスは言う。

「この部屋に近づくほど、
 “影”は強くなる。
 エリザベラを真似て……
 お前を不安にさせようとしている」

シャルロットは肖像画を見上げた。

(微笑んでいたはずなのに……
 どうして……?)

カルロスは眉を寄せた。

「――シャルロット。
 この肖像画……“何者かが手を加えた”跡がある」

シャルロットの心臓が跳ねた。

「手……を……?」

「昨夜の“落ちた時”に確認した。
 筆跡が一部、描き直されている」

「で……では……微笑みが消えたのは……
 影が……?」

カルロスの表情は苦しく歪む。

「お前を“ここに相応しくない”と
 思わせたい誰かがいる。
 そして――
 “俺を揺さぶりたい者”が」

シャルロットは小さく震えた。

肖像画のエリザベラは
冷たく言っているように見えた。

――“ここはあなたの席じゃないわ”

シャルロットは視線を落とし、
傷ついた声でつぶやいた。

「……わたくしは……
 本当に……この家にいてもよいのでしょうか……?」

カルロスの瞳が揺れる。

触れたい。
触れたいのに。

その手は、また止まる。

「……お前の席は……
 本当は……“ここだけ”なんだ……」

その声は、
ひどく切なく、震えていた。

しかしシャルロットには届かない。

なぜなら次の瞬間、
部屋の奥で――

ふふ……。

微かな笑い声がしたから。

二人が振り返ると同時に、
白百合の香りがふっと揺れる。

肖像画のエリザベラは、
もう“微笑まない顔”のままだった。
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