あなたの片想いを聞いてしまった夜

柴田はつみ

文字の大きさ
8 / 39

第8章|初めての焦り

 扉が閉まった後もしばらく、アレクシスは動かなかった。

 応接間の空気は、いつもと同じ静けさのはずなのに、今日は違っていた。
 暖炉の火が小さく鳴る音が、やけに大きい。時計の針が進む音が、耳の奥を刺す。

 リリアーヌが去った廊下の方向を、目で追うでもなく、ただ“そこに彼女がいない”事実だけが重く残る。

 ——別の男に頼んだ。
 ——ガブリエル。

 名前を思い浮かべた瞬間、胸のあたりがきゅっと硬くなった。
 怒りではない。
 苛立ちでもない。
 もっと厄介で、説明できないものだ。

 彼女は「嫌ではない」と言った。
 なら、なぜ断る。
 “恥をかきたくない”——あれは理由になっていない。
 リリアーヌが恥をかくような場面など、作らせない。
 そう言ったのに、彼女は「決めた」と言った。

 決めた、という言葉が、なぜあんなに刺さるのか分からない。

「閣下」

 背後から、執事ユリウスの声が落ちた。
 いつもより少しだけ慎重な声。
 アレクシスはようやく視線を動かし、机の上の書類を見た。見ているだけで、文字は入ってこない。

「……ユリウス」

「お茶をお持ちいたしますか」

「いらない」

 即答した。
 自分の声が硬い。
 硬いことに、気づくのが遅れた。

 ユリウスは何も言わず、静かに歩み寄り、机の上を整えた。
 整えながら、視線だけで主の顔を確認している。
 長年仕えている男の目は、言葉より先に“異常”を見つける。

「……珍しいことでございますね」

 ユリウスがぽつりと言った。

「何がだ」

「閣下が、同じ場所を二度見ていらっしゃる」

 アレクシスは眉を寄せた。
 そんなことをしていたのか。
 気づかなかった。
 気づかなかった、という事実が不快だった。

「……彼女が、断った」

 言うと、言葉が急に現実味を帯びた。
 アレクシスは拳を握りそうになり、机の端に指先を置いて踏みとどまった。
 感情で動くのは嫌いだ。合理的でありたい。
 なのに、心臓の奥が落ち着かない。

「はい。伺いました」

 ユリウスは“当然”のように返す。
 執事という職は、屋敷の空気を全部知っている。

「……なぜだ」

 自分でも驚くほど、低い声が出た。
 問いは、口から勝手に落ちた。

「なぜ、断った」

 ユリウスはすぐには答えない。
 沈黙が落ちる。
 その沈黙が苛立ちを生む——自分が、いつも他人にやっていることだと気づいて、さらに苛立つ。

「閣下」

 ユリウスがようやく口を開いた。

「理由が分からない、というのが理由かと」

「……何を言っている」

 ユリウスは、穏やかに、しかし容赦なく言った。

「閣下は、リリアーヌ様の“恥”を、舞踏会での失敗や失態の意味に受け取られた。
 ですが、あの方の言う“恥”は——別の意味でございます」

 アレクシスは言い返そうとして、言葉が出ない。
 別の意味。
 心に浮かぶ可能性が、どれも不愉快だった。

「……なら、何だ」

 ユリウスは、わずかに目を伏せた。
 執事がこんなふうに言い淀むのは珍しい。
 言い淀むほど、厄介なことなのか。

「閣下の“当然”が、あの方を傷つけたのでは」

 アレクシスは、息が止まった。

 当然。
 自分は、彼女を当然のように隣に置いていた。
 それが何だというのだ。
 彼女は必要な存在で、信頼できて、任せられて、——

 ……任せられる。

 その言葉が、胸の奥で嫌な音を立てた。
 任せるというのは、相手の心を“勝手に強いもの”だと決めていることではないのか。

「……俺は、彼女を傷つけていない」

 反射で言った。
 自分の声に、確信がない。

 ユリウスは、真っ直ぐに主を見る。
 その目が、慈悲よりも正確さを持っているのが腹立たしい。

「閣下。傷つけるつもりがない方ほど、傷つけます」

 アレクシスは唇を引き結んだ。
 反論したい。
 だが、できない。
 リリアーヌの最後の微笑が脳裏に浮かぶ。
 整いすぎた微笑。崩れない微笑。
 あれは本当に“平気”だったのか。

「……ガブリエルに頼む必要が、どこにある」

 口に出した瞬間、胸がまた硬くなった。
 必要。
 必要だと言ってしまった。
 彼女は“必要”だから隣にいるのか?
 そんな言い方をした瞬間、自分が最低に思えた。

 ユリウスは少しだけ眉を動かし、言葉を選ぶ。

「ブランシュ卿は、社交の場で“守る”のが上手いお方です」

「守る?」

「噂、視線、言葉——そういったものから」

 アレクシスは、目を細めた。
 噂。視線。言葉。
 社交界では誰もが晒される。
 彼女は令嬢だ。慣れている。強い。——

 強い。
 またその単語が出た。
 強いと決めつけるのは、簡単だ。
 弱さを見ようとしなくて済むから。

「……彼女が、弱いと言いたいのか」

 ユリウスは首を横に振った。

「弱いのではなく、閣下にだけは見せないのでございましょう」

 その一言が、胸に落ちた。
 重い石が沈むみたいに。

 見せない。
 見せないのは彼女のせいか。
 それとも——自分が見ようとしなかったのか。

 アレクシスは立ち上がった。
 椅子が床を擦る音が、いつもより大きい。
 自分が落ち着いていない証拠だ。

「……登録の期限は」

 ユリウスが即座に答える。

「三日後、正午まででございます」

 三日。
 短い。短すぎる。
 その短さが、彼女が自分から遠ざかる時間に思えて、胸の奥が焦げる。

 アレクシスは窓の外を見た。
 庭の木々は穏やかに揺れている。世界は何も変わらない。
 変わったのは、自分の中の“当然”だ。

「……俺は、何をすべきだ」

 気づけば、そんな言葉が口から落ちていた。
 命令でもなく、指示でもなく、問い。
 アレクシスが誰かに“問い”を投げるのは、極めて珍しい。

 ユリウスは答える前に、一度だけ深く息を吸った。

「理由を聞くのではなく、閣下が“選ぶ”ことを示すべきかと」

「選ぶ?」

「はい。——あの方は、閣下に選ばれていないと感じておられる」

 アレクシスの背筋が、僅かに固まった。
 選ばれていない。
 そんなことはない。
 彼女はいつも隣にいる。必要で、信頼して——

 ……必要で。

 まただ。
 “必要”という言葉が、どこまでも冷たい。

「……俺は」

 言いかけて、止まる。
 “俺は彼女を——”
 その続きを、今まで考えたことがなかった。
 考えなくても、そこにいると思っていたから。

 ユリウスが静かに言う。

「閣下。
 当然にしてきたものほど、失ってから気づくのでございます」

 その言葉が、胸を殴った。
 失う。
 まだ失っていない。
 なのに、失う未来が、ありありと見えてしまう。

 アレクシスは拳を開き、指先を机に置いた。
 冷たい木の感触が、現実に引き戻す。

「……舞踏会当日」

 ユリウスが頷く。

「はい。お迎えに行かれますか」

 迎えに行く。
 当然のように。
 その当然が、もう通用しないのだとしたら。

 アレクシスは、息を吐いた。
 胸の中にある焦りは消えない。
 だが、今はその焦りを認めるしかない。

「……行く」

 短い答え。
 それは決意ではなく、確認に近い。
 けれど、いつもの自分より一歩だけ踏み出した言葉だった。

 ユリウスが静かに頭を下げる。

「承知いたしました」

 アレクシスは、扉の向こうを見た。
 リリアーヌが去った方向。
 彼女の微笑が、まだそこに残っている気がする。

 ——なぜ断った。
 理由が分からない。
 分からないのに、胸が痛い。

 初めて、焦っている。

あなたにおすすめの小説

三度裏切られた私が、四度目で「離婚」を選ぶまで

狛犬
恋愛
三度、夫に裏切られた。 一度目は信じた。 二度目は耐えた。 三度目は――すべてを失った。 そして私は、屋上から身を投げた。 ……はずだった。 目を覚ますと、そこは過去。 すべてが壊れる前の、まだ何も起きていない時間。 ――四度目の人生。 これまでの三度、私は同じ選択を繰り返し、 同じように裏切られ、すべてを失ってきた。 だから今度は、もう決めている。 「もう、陸翔はいらない」 愛していた。 けれど、もう疲れた。 今度こそ―― 自分を守るために、家族を守るために、 私は、自分から手を放す。 これは、三度裏切られた女が、 四度目の人生で「選び直す」物語。

騎士の妻ではいられない

Rj
恋愛
騎士の娘として育ったリンダは騎士とは結婚しないと決めていた。しかし幼馴染みで騎士のイーサンと結婚したリンダ。結婚した日に新郎は非常召集され、新婦のリンダは結婚を祝う宴に一人残された。二年目の結婚記念日に戻らない夫を待つリンダはもう騎士の妻ではいられないと心を決める。 全23話。 2024/1/29 全体的な加筆修正をしました。話の内容に変わりはありません。 イーサンが主人公の続編『騎士の妻でいてほしい 』(https://www.alphapolis.co.jp/novel/96163257/36727666)があります。

私は彼に選ばれなかった令嬢。なら、自分の思う通りに生きますわ

みゅー
恋愛
私の名前はアレクサンドラ・デュカス。 婚約者の座は得たのに、愛されたのは別の令嬢。社交界の噂に翻弄され、命の危険にさらされ絶望の淵で私は前世の記憶を思い出した。 これは、誰かに決められた物語。ならば私は、自分の手で運命を変える。 愛も権力も裏切りも、すべて巻き込み、私は私の道を生きてみせる。 毎日20時30分に投稿

[完結]「私が婚約者だったはずなのに」愛する人が別の人と婚約するとしたら〜恋する二人を切り裂く政略結婚の行方は〜

h.h
恋愛
王子グレンの婚約者候補であったはずのルーラ。互いに想いあう二人だったが、政略結婚によりグレンは隣国の王女と結婚することになる。そしてルーラもまた別の人と婚約することに……。「将来僕のお嫁さんになって」そんな約束を記憶の奥にしまいこんで、二人は国のために自らの心を犠牲にしようとしていた。ある日、隣国の王女に関する重大な秘密を知ってしまったルーラは、一人真実を解明するために動き出す。「国のためと言いながら、本当はグレン様を取られたくなだけなのかもしれないの」「国のためと言いながら、彼女を俺のものにしたくて抗っているみたいだ」 二人は再び手を取り合うことができるのか……。 全23話で完結(すでに完結済みで投稿しています)

【完結】亡くなった人を愛する貴方を、愛し続ける事はできませんでした

凛蓮月@騎士の夫〜発売中です
恋愛
【おかげさまで完全完結致しました。閲覧頂きありがとうございます】 いつか見た、貴方と婚約者の仲睦まじい姿。 婚約者を失い悲しみにくれている貴方と新たに婚約をした私。 貴方は私を愛する事は無いと言ったけれど、私は貴方をお慕いしておりました。 例え貴方が今でも、亡くなった婚約者の女性を愛していても。 私は貴方が生きてさえいれば それで良いと思っていたのです──。 【早速のホトラン入りありがとうございます!】 ※作者の脳内異世界のお話です。 ※小説家になろうにも同時掲載しています。 ※諸事情により感想欄は閉じています。詳しくは近況ボードをご覧下さい。(追記12/31〜1/2迄受付る事に致しました)

【完結】ご安心を、2度とその手を求める事はありません

ポチ
恋愛
大好きな婚約者様。 ‘’愛してる‘’ その言葉私の宝物だった。例え貴方の気持ちが私から離れたとしても。お飾りの妻になるかもしれないとしても・・・ それでも、私は貴方を想っていたい。 独り過ごす刻もそれだけで幸せを感じられた。たった一つの希望

忙しい男

菅井群青
恋愛
付き合っていた彼氏に別れを告げた。忙しいという彼を信じていたけれど、私から別れを告げる前に……きっと私は半分捨てられていたんだ。 「私のことなんてもうなんとも思ってないくせに」 「お前は一体俺の何を見て言ってる──お前は、俺を知らな過ぎる」 すれ違う想いはどうしてこうも上手くいかないのか。いつだって思うことはただ一つ、愛おしいという気持ちだ。 ※ハッピーエンドです かなりやきもきさせてしまうと思います。 どうか温かい目でみてやってくださいね。 ※本編完結しました(2019/07/15) スピンオフ &番外編 【泣く背中】 菊田夫妻のストーリーを追加しました(2019/08/19) 改稿 (2020/01/01) 本編のみカクヨムさんでも公開しました。

【完結】最後に貴方と。

たろ
恋愛
わたしの余命はあと半年。 貴方のために出来ることをしてわたしは死んでいきたい。 ただそれだけ。 愛する婚約者には好きな人がいる。二人のためにわたしは悪女になりこの世を去ろうと思います。 ◆病名がハッキリと出てしまいます。辛いと思われる方は読まないことをお勧めします ◆悲しい切ない話です。