二番目でいい。それがあなたの隣にいられる唯一の方法だから

柴田はつみ

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第17話「翌朝の休戦」

 朝食の準備を頼んでから、わたしは食堂で待った。
 いつもクリスの方が早い。でも今朝はわたしが先に席についていた。

 料理長のベアトリスが、クリスの好物を並べてくれた。濃いめのコーヒー、バターをたっぷり塗った厚切りのパン、それから林檎のコンポート。

「旦那様がお好きなものを、とおっしゃっていましたね」
ベアトリスがじっと見た。

「奥様はよくご存じで」
「一緒に暮らしているもの」
 当然のことのように言ったけれど、内心は少し緊張していた。
 クリスは来るだろうか。
 一晩中書斎にいたなら、そのまま執務室に向かってしまうかもしれない。
 そうなったらまた話せないままになる。

 扉が開いたのは、それから少しして。
 クリスが食堂に入ってきた。
 目の下がわずかに翳っていた。やはり眠っていないのだろう。でも表情はいつも通りで、入ってきてわたしを見た。
 少しだけ、間があった。

 わたしも黙ってクリスを見た。
 先に口を開いたのは、クリスだった。
「……昨夜は、言い過ぎた」
 静かな声だった。
 謝るつもりで準備していたのに、先を越されてしまった。

「わたしこそ」わたしはすぐに言った。
「言い方がきつかったわ。ごめんなさい」
 クリスが少し目を瞬かせた。

「謝るのはこちらだ」
「わたしも謝りたいの」
 少しの沈黙があった。
 それからクリスが、かすかに口元を緩めた。

「……同時に謝ってどうする」
「本当ね」わたしも少し笑った。
「おあいこ、ということで」
「そうだな」
 クリスが席についた。
 テーブルの上を見て、少し止まった。
「これは」

「ベアトリスに頼んだの」
わたしは少し視線を外した。
「クリスが好きなものを、今朝は出してほしいって」
 クリスがわたしを見た。

 何も言わなかった。
 でも耳が、ほんのわずかに赤くなっていた。

 朝食は、静かに始まった。
 ぎこちなかった。
 でも昨夜とは違うぎこちなさだった。昨夜は張り詰めていた。今朝はどこかやわらかい。

 クリスがコーヒーを一口飲んだ。
「うまい」
「良かった」
「ベアトリスは腕が良いな」
「ええ」
 また少し沈黙があった。

 クリスがパンを手に取りながら言った。
「昨夜のことだが」
 わたしは少し緊張した。
「なんでもない、と言ったがなんでもなくはなかった」
 予想していなかった言葉だった。
「……そうなの?」
「ああ」

 クリスがパンを置いた。少し考えるような間があった。
「うまく言えないが」
「うまくなくていいわ」
 わたしが言うと、クリスがわたしを見た。

「お前が、誰かと笑っているのを見て……。」
 そこで止まった。
「見て?」
「……気になった」
 それだけだった。
 それだけしか言わなかった。
 でもその一言が胸の奥にじわりと落ちた。
 気になった。

 どういう意味で気になったのか、聞けなかった。
 聞いてしまったら、期待してしまうから。

「ごめんなさい」とわたしは言った。「心配をかけたなら」
「謝ることじゃない」クリスが首を振った。「俺の方が大人気なかった」
「そんなことないわ」
「ある」

 少しの間があって、クリスが静かに言った。
「お前が誰かと話すのは、当然のことだ。俺がとやかく言うことじゃない」
 その言葉は、正しかった。

 正しかったけれどなぜだか少し、寂しかった。
 とやかく言うことじゃない、と言われると。
 どうしてほしかったのか、自分でもわからなかった。

 朝食が終わって、クリスが立ち上がった。
 執務室に向かうのだろうと思った。
 でもクリスは少し迷う様子を見せてから、わたしに向き直った。
「アリス」
「なに?」

「今夜、時間があるか」
 わたしは少し首を傾けた。
「ええ、あるわ」
「夕食の後、少し付き合ってくれないか」
「どこかに行くの?」
「いや」クリスが窓の外を見た。「ただ、話したい」
 話したい。

 その言葉が、妙に心臓に響いた。
「……わかったわ」
 クリスが頷いた。
「では夕食の後に」
 それだけ言って、食堂を出て行った。

 一人残されたわたしは、しばらくテーブルの上のコーヒーカップを見つめていた。
 今夜、話したいことがある。
 クリスがそう言った。
 一体何を話したいのだろう。
 昨夜のことの続き? それとも別の何か?

 考えても、わからなかった。
 ただ一つだけ感じていることがあった。
 今朝のクリスは、いつもより少し、近かった。
 言い過ぎたと先に謝ってくれた。気になったと言ってくれた。話したいと言ってくれた。
 それがどういう意味かはわからない。
 でも、確実に何かが変わっていた。

 その日一日、時間が経つのがいつもより遅く感じた。
 屋敷の仕事をこなしながら、頭の片隅でずっと夕食の後のことを考えていた。
 エマが「奥様、今日はどこかそわそわしていらっしゃいますね」と言った。
「そんなことないわ」
「頬が赤いですよ」
「暖炉が近いからよ」
 エマがくすくすと笑った。
 否定できなかったのが、悔しかった。

 夕食は、いつもより少し和やかだった。
 昨夜の空気はもうなかった。クリスはいつもより少しだけ多く話した。今日仕事で面白いことがあったと言って、珍しく少し笑った。

 その笑顔を見て、わたしは胸が温かくなった。
 やはりこの人の笑顔が好きだと思った。
 少ないから、余計に大切に思う。

 夕食が終わって、クリスが「行くか」と言った。
 連れて行かれたのは、屋敷の西側にある小さな部屋だった。
 普段あまり使われていない部屋で、暖炉があって、窓が大きくて、外の庭が見渡せた。

 夜の庭に、灯りが点っていた。
「ここは?」
「昔から、考えたいときに使っていた部屋だ」
 クリスがわたしに椅子を勧めて、自分も向かいに座った。
 暖炉に火が入っていた。ジョエルが準備してくれていたのだろう。
 二つのカップに温かい飲み物が注がれていた。
 窓の外で、風が木を揺らしていた。
 クリスが少しの間、暖炉の炎を見ていた。

「アリス」
「なに?」
「昨夜、俺が言ったこと」
「ええ」
「お前を、困らせたか」
 わたしは少し考えた。
「困らせた、というより驚いたわ」
「そうか」

「クリスが、ああいうことを言うと思っていなかったから」
「ああいうこと?」
「感情的なこと、かしら」わたしは少し言葉を選んだ。「いつも落ち着いているから」
 クリスが炎を見たまま言った。

「お前のことになると、落ち着かなくなることがある」
 わたしは息を呑んだ。
「……そうなの?」
「ああ」
 クリスがわたしを見た。
 まっすぐな目だった。

「昨夜のことは、俺が大人気なかった。でも気になったのは本当だ」
「どういう意味で、気になったの」
 今度は、聞いた。
 怖かったけれど、聞いた。
 クリスが少しの間黙った。
 やがて口を開いた。
「それは……」
 そこで暖炉の薪が一つ、音を立てて崩れた。

 パチ、と乾いた音が部屋に響いた。
 クリスが視線を炎に移した。
「……今夜は、これだけにしておく」
 また、止まった。
 わたしは少し唇を噛んだ。
 今夜も聞けなかった。
 でもこれだけにしておく、ということは。

 いつか、続きを話してくれるということだろうか。
「わかったわ」
 わたしはカップを持って、温かい飲み物を一口飲んだ。
 ハーブの香りがした。
 二人で暖炉の炎を眺めた。
 昨夜とは全然違う、穏やかな沈黙だった。

帰り際、クリスが廊下でわたしに言った。
「おやすみ、アリス」
名前を呼んで、おやすみを言ってくれた。
それだけのことなのに、今夜はやけに胸に響いた。
「おやすみなさい、クリス」
わたしも名前を呼んで、答えた。
それぞれの部屋に戻って、扉が閉まった。
今夜は、眠れそうだった。

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