17 / 20
第17話「翌朝の休戦」
朝食の準備を頼んでから、わたしは食堂で待った。
いつもクリスの方が早い。でも今朝はわたしが先に席についていた。
料理長のベアトリスが、クリスの好物を並べてくれた。濃いめのコーヒー、バターをたっぷり塗った厚切りのパン、それから林檎のコンポート。
「旦那様がお好きなものを、とおっしゃっていましたね」
ベアトリスがじっと見た。
「奥様はよくご存じで」
「一緒に暮らしているもの」
当然のことのように言ったけれど、内心は少し緊張していた。
クリスは来るだろうか。
一晩中書斎にいたなら、そのまま執務室に向かってしまうかもしれない。
そうなったらまた話せないままになる。
扉が開いたのは、それから少しして。
クリスが食堂に入ってきた。
目の下がわずかに翳っていた。やはり眠っていないのだろう。でも表情はいつも通りで、入ってきてわたしを見た。
少しだけ、間があった。
わたしも黙ってクリスを見た。
先に口を開いたのは、クリスだった。
「……昨夜は、言い過ぎた」
静かな声だった。
謝るつもりで準備していたのに、先を越されてしまった。
「わたしこそ」わたしはすぐに言った。
「言い方がきつかったわ。ごめんなさい」
クリスが少し目を瞬かせた。
「謝るのはこちらだ」
「わたしも謝りたいの」
少しの沈黙があった。
それからクリスが、かすかに口元を緩めた。
「……同時に謝ってどうする」
「本当ね」わたしも少し笑った。
「おあいこ、ということで」
「そうだな」
クリスが席についた。
テーブルの上を見て、少し止まった。
「これは」
「ベアトリスに頼んだの」
わたしは少し視線を外した。
「クリスが好きなものを、今朝は出してほしいって」
クリスがわたしを見た。
何も言わなかった。
でも耳が、ほんのわずかに赤くなっていた。
朝食は、静かに始まった。
ぎこちなかった。
でも昨夜とは違うぎこちなさだった。昨夜は張り詰めていた。今朝はどこかやわらかい。
クリスがコーヒーを一口飲んだ。
「うまい」
「良かった」
「ベアトリスは腕が良いな」
「ええ」
また少し沈黙があった。
クリスがパンを手に取りながら言った。
「昨夜のことだが」
わたしは少し緊張した。
「なんでもない、と言ったがなんでもなくはなかった」
予想していなかった言葉だった。
「……そうなの?」
「ああ」
クリスがパンを置いた。少し考えるような間があった。
「うまく言えないが」
「うまくなくていいわ」
わたしが言うと、クリスがわたしを見た。
「お前が、誰かと笑っているのを見て……。」
そこで止まった。
「見て?」
「……気になった」
それだけだった。
それだけしか言わなかった。
でもその一言が胸の奥にじわりと落ちた。
気になった。
どういう意味で気になったのか、聞けなかった。
聞いてしまったら、期待してしまうから。
「ごめんなさい」とわたしは言った。「心配をかけたなら」
「謝ることじゃない」クリスが首を振った。「俺の方が大人気なかった」
「そんなことないわ」
「ある」
少しの間があって、クリスが静かに言った。
「お前が誰かと話すのは、当然のことだ。俺がとやかく言うことじゃない」
その言葉は、正しかった。
正しかったけれどなぜだか少し、寂しかった。
とやかく言うことじゃない、と言われると。
どうしてほしかったのか、自分でもわからなかった。
朝食が終わって、クリスが立ち上がった。
執務室に向かうのだろうと思った。
でもクリスは少し迷う様子を見せてから、わたしに向き直った。
「アリス」
「なに?」
「今夜、時間があるか」
わたしは少し首を傾けた。
「ええ、あるわ」
「夕食の後、少し付き合ってくれないか」
「どこかに行くの?」
「いや」クリスが窓の外を見た。「ただ、話したい」
話したい。
その言葉が、妙に心臓に響いた。
「……わかったわ」
クリスが頷いた。
「では夕食の後に」
それだけ言って、食堂を出て行った。
一人残されたわたしは、しばらくテーブルの上のコーヒーカップを見つめていた。
今夜、話したいことがある。
クリスがそう言った。
一体何を話したいのだろう。
昨夜のことの続き? それとも別の何か?
考えても、わからなかった。
ただ一つだけ感じていることがあった。
今朝のクリスは、いつもより少し、近かった。
言い過ぎたと先に謝ってくれた。気になったと言ってくれた。話したいと言ってくれた。
それがどういう意味かはわからない。
でも、確実に何かが変わっていた。
その日一日、時間が経つのがいつもより遅く感じた。
屋敷の仕事をこなしながら、頭の片隅でずっと夕食の後のことを考えていた。
エマが「奥様、今日はどこかそわそわしていらっしゃいますね」と言った。
「そんなことないわ」
「頬が赤いですよ」
「暖炉が近いからよ」
エマがくすくすと笑った。
否定できなかったのが、悔しかった。
夕食は、いつもより少し和やかだった。
昨夜の空気はもうなかった。クリスはいつもより少しだけ多く話した。今日仕事で面白いことがあったと言って、珍しく少し笑った。
その笑顔を見て、わたしは胸が温かくなった。
やはりこの人の笑顔が好きだと思った。
少ないから、余計に大切に思う。
夕食が終わって、クリスが「行くか」と言った。
連れて行かれたのは、屋敷の西側にある小さな部屋だった。
普段あまり使われていない部屋で、暖炉があって、窓が大きくて、外の庭が見渡せた。
夜の庭に、灯りが点っていた。
「ここは?」
「昔から、考えたいときに使っていた部屋だ」
クリスがわたしに椅子を勧めて、自分も向かいに座った。
暖炉に火が入っていた。ジョエルが準備してくれていたのだろう。
二つのカップに温かい飲み物が注がれていた。
窓の外で、風が木を揺らしていた。
クリスが少しの間、暖炉の炎を見ていた。
「アリス」
「なに?」
「昨夜、俺が言ったこと」
「ええ」
「お前を、困らせたか」
わたしは少し考えた。
「困らせた、というより驚いたわ」
「そうか」
「クリスが、ああいうことを言うと思っていなかったから」
「ああいうこと?」
「感情的なこと、かしら」わたしは少し言葉を選んだ。「いつも落ち着いているから」
クリスが炎を見たまま言った。
「お前のことになると、落ち着かなくなることがある」
わたしは息を呑んだ。
「……そうなの?」
「ああ」
クリスがわたしを見た。
まっすぐな目だった。
「昨夜のことは、俺が大人気なかった。でも気になったのは本当だ」
「どういう意味で、気になったの」
今度は、聞いた。
怖かったけれど、聞いた。
クリスが少しの間黙った。
やがて口を開いた。
「それは……」
そこで暖炉の薪が一つ、音を立てて崩れた。
パチ、と乾いた音が部屋に響いた。
クリスが視線を炎に移した。
「……今夜は、これだけにしておく」
また、止まった。
わたしは少し唇を噛んだ。
今夜も聞けなかった。
でもこれだけにしておく、ということは。
いつか、続きを話してくれるということだろうか。
「わかったわ」
わたしはカップを持って、温かい飲み物を一口飲んだ。
ハーブの香りがした。
二人で暖炉の炎を眺めた。
昨夜とは全然違う、穏やかな沈黙だった。
帰り際、クリスが廊下でわたしに言った。
「おやすみ、アリス」
名前を呼んで、おやすみを言ってくれた。
それだけのことなのに、今夜はやけに胸に響いた。
「おやすみなさい、クリス」
わたしも名前を呼んで、答えた。
それぞれの部屋に戻って、扉が閉まった。
今夜は、眠れそうだった。
いつもクリスの方が早い。でも今朝はわたしが先に席についていた。
料理長のベアトリスが、クリスの好物を並べてくれた。濃いめのコーヒー、バターをたっぷり塗った厚切りのパン、それから林檎のコンポート。
「旦那様がお好きなものを、とおっしゃっていましたね」
ベアトリスがじっと見た。
「奥様はよくご存じで」
「一緒に暮らしているもの」
当然のことのように言ったけれど、内心は少し緊張していた。
クリスは来るだろうか。
一晩中書斎にいたなら、そのまま執務室に向かってしまうかもしれない。
そうなったらまた話せないままになる。
扉が開いたのは、それから少しして。
クリスが食堂に入ってきた。
目の下がわずかに翳っていた。やはり眠っていないのだろう。でも表情はいつも通りで、入ってきてわたしを見た。
少しだけ、間があった。
わたしも黙ってクリスを見た。
先に口を開いたのは、クリスだった。
「……昨夜は、言い過ぎた」
静かな声だった。
謝るつもりで準備していたのに、先を越されてしまった。
「わたしこそ」わたしはすぐに言った。
「言い方がきつかったわ。ごめんなさい」
クリスが少し目を瞬かせた。
「謝るのはこちらだ」
「わたしも謝りたいの」
少しの沈黙があった。
それからクリスが、かすかに口元を緩めた。
「……同時に謝ってどうする」
「本当ね」わたしも少し笑った。
「おあいこ、ということで」
「そうだな」
クリスが席についた。
テーブルの上を見て、少し止まった。
「これは」
「ベアトリスに頼んだの」
わたしは少し視線を外した。
「クリスが好きなものを、今朝は出してほしいって」
クリスがわたしを見た。
何も言わなかった。
でも耳が、ほんのわずかに赤くなっていた。
朝食は、静かに始まった。
ぎこちなかった。
でも昨夜とは違うぎこちなさだった。昨夜は張り詰めていた。今朝はどこかやわらかい。
クリスがコーヒーを一口飲んだ。
「うまい」
「良かった」
「ベアトリスは腕が良いな」
「ええ」
また少し沈黙があった。
クリスがパンを手に取りながら言った。
「昨夜のことだが」
わたしは少し緊張した。
「なんでもない、と言ったがなんでもなくはなかった」
予想していなかった言葉だった。
「……そうなの?」
「ああ」
クリスがパンを置いた。少し考えるような間があった。
「うまく言えないが」
「うまくなくていいわ」
わたしが言うと、クリスがわたしを見た。
「お前が、誰かと笑っているのを見て……。」
そこで止まった。
「見て?」
「……気になった」
それだけだった。
それだけしか言わなかった。
でもその一言が胸の奥にじわりと落ちた。
気になった。
どういう意味で気になったのか、聞けなかった。
聞いてしまったら、期待してしまうから。
「ごめんなさい」とわたしは言った。「心配をかけたなら」
「謝ることじゃない」クリスが首を振った。「俺の方が大人気なかった」
「そんなことないわ」
「ある」
少しの間があって、クリスが静かに言った。
「お前が誰かと話すのは、当然のことだ。俺がとやかく言うことじゃない」
その言葉は、正しかった。
正しかったけれどなぜだか少し、寂しかった。
とやかく言うことじゃない、と言われると。
どうしてほしかったのか、自分でもわからなかった。
朝食が終わって、クリスが立ち上がった。
執務室に向かうのだろうと思った。
でもクリスは少し迷う様子を見せてから、わたしに向き直った。
「アリス」
「なに?」
「今夜、時間があるか」
わたしは少し首を傾けた。
「ええ、あるわ」
「夕食の後、少し付き合ってくれないか」
「どこかに行くの?」
「いや」クリスが窓の外を見た。「ただ、話したい」
話したい。
その言葉が、妙に心臓に響いた。
「……わかったわ」
クリスが頷いた。
「では夕食の後に」
それだけ言って、食堂を出て行った。
一人残されたわたしは、しばらくテーブルの上のコーヒーカップを見つめていた。
今夜、話したいことがある。
クリスがそう言った。
一体何を話したいのだろう。
昨夜のことの続き? それとも別の何か?
考えても、わからなかった。
ただ一つだけ感じていることがあった。
今朝のクリスは、いつもより少し、近かった。
言い過ぎたと先に謝ってくれた。気になったと言ってくれた。話したいと言ってくれた。
それがどういう意味かはわからない。
でも、確実に何かが変わっていた。
その日一日、時間が経つのがいつもより遅く感じた。
屋敷の仕事をこなしながら、頭の片隅でずっと夕食の後のことを考えていた。
エマが「奥様、今日はどこかそわそわしていらっしゃいますね」と言った。
「そんなことないわ」
「頬が赤いですよ」
「暖炉が近いからよ」
エマがくすくすと笑った。
否定できなかったのが、悔しかった。
夕食は、いつもより少し和やかだった。
昨夜の空気はもうなかった。クリスはいつもより少しだけ多く話した。今日仕事で面白いことがあったと言って、珍しく少し笑った。
その笑顔を見て、わたしは胸が温かくなった。
やはりこの人の笑顔が好きだと思った。
少ないから、余計に大切に思う。
夕食が終わって、クリスが「行くか」と言った。
連れて行かれたのは、屋敷の西側にある小さな部屋だった。
普段あまり使われていない部屋で、暖炉があって、窓が大きくて、外の庭が見渡せた。
夜の庭に、灯りが点っていた。
「ここは?」
「昔から、考えたいときに使っていた部屋だ」
クリスがわたしに椅子を勧めて、自分も向かいに座った。
暖炉に火が入っていた。ジョエルが準備してくれていたのだろう。
二つのカップに温かい飲み物が注がれていた。
窓の外で、風が木を揺らしていた。
クリスが少しの間、暖炉の炎を見ていた。
「アリス」
「なに?」
「昨夜、俺が言ったこと」
「ええ」
「お前を、困らせたか」
わたしは少し考えた。
「困らせた、というより驚いたわ」
「そうか」
「クリスが、ああいうことを言うと思っていなかったから」
「ああいうこと?」
「感情的なこと、かしら」わたしは少し言葉を選んだ。「いつも落ち着いているから」
クリスが炎を見たまま言った。
「お前のことになると、落ち着かなくなることがある」
わたしは息を呑んだ。
「……そうなの?」
「ああ」
クリスがわたしを見た。
まっすぐな目だった。
「昨夜のことは、俺が大人気なかった。でも気になったのは本当だ」
「どういう意味で、気になったの」
今度は、聞いた。
怖かったけれど、聞いた。
クリスが少しの間黙った。
やがて口を開いた。
「それは……」
そこで暖炉の薪が一つ、音を立てて崩れた。
パチ、と乾いた音が部屋に響いた。
クリスが視線を炎に移した。
「……今夜は、これだけにしておく」
また、止まった。
わたしは少し唇を噛んだ。
今夜も聞けなかった。
でもこれだけにしておく、ということは。
いつか、続きを話してくれるということだろうか。
「わかったわ」
わたしはカップを持って、温かい飲み物を一口飲んだ。
ハーブの香りがした。
二人で暖炉の炎を眺めた。
昨夜とは全然違う、穏やかな沈黙だった。
帰り際、クリスが廊下でわたしに言った。
「おやすみ、アリス」
名前を呼んで、おやすみを言ってくれた。
それだけのことなのに、今夜はやけに胸に響いた。
「おやすみなさい、クリス」
わたしも名前を呼んで、答えた。
それぞれの部屋に戻って、扉が閉まった。
今夜は、眠れそうだった。
あなたにおすすめの小説
守るために婚約者を手放した王太子は、彼女がもう戻らないことを後から知る
あめとおと
恋愛
王太子である彼と、公爵令嬢である彼女は、誰もが認める婚約者同士。
人前では距離を保ちながらも、二人は確かに想い合っていた。
――あの日、“聖女”が現れるまでは。
国と民に求められる存在である聖女。
彼女を拒めば、王太子としての立場は揺らぐ。
そして何より、大切な婚約者を巻き込んでしまう。
だから彼は選んだ。
彼女を守るために、距離を取ることを。
冷たく振る舞い、関係を曖昧にし、あえて突き放す。
それが最善だと信じていた。
だが彼女は、すべてを理解していた。
だからこそ何も言わず、
ただ静かに――婚約解消を申し出た。
「それが殿下のご判断であれば、従います」
彼女は最後まで優しく微笑んでいた。
そして、すべてが終わった後で彼は気づく。
守られていたのは、自分の方だったのだと。
もう遅い。
彼女は今も穏やかに微笑んでいる。
――その微笑みが、自分に向けられることは、二度とない。
知らない結婚
鈴木葵
恋愛
親が決めた相手と11歳の時に結婚した伯爵令嬢、エマ。しかし16歳になっても、いまだに一度も夫に会った事がない。よほど妻に興味がないのか、例えそうだとしても社交界へデビューする日にはエスコートしてくれるはずだと思った。けれど他の女性をエスコートするからと断られてしまう。それに耐えかねて夫の領地まで会いに行けば、宿屋の軒先で女の人と揉めている夫とばったり出会ってしまい……。
離縁書を渡した翌日、旦那様が記憶を失いました
なつめ
恋愛
愛のない政略結婚。
冷えきった夫婦関係の末、ようやく離縁を決意した翌日。
夫が事故で記憶を失い、なぜか“妻を愛していた頃”まで戻ってしまった。
これまで一度も向けられなかった優しい眼差し。
触れられたことのない熱。
欲しかったものが、もう手放そうとした瞬間にだけ差し出される。
けれど彼が思い出していないのは、ただの結婚生活ではない。
彼が彼女を憎むようになった、決定的な誤解と陰謀の四年間でもあった。
これは、遅すぎた初恋のやり直しではない。
壊れた夫婦が、過去ではなく“今の自分の意思”でもう一度愛を選び直す物語。
指輪を外した朝に
柴田はつみ
恋愛
侯爵夫人アリアは、完璧な妻だった。
社交界では優雅に微笑み、屋敷では使用人に慕われ、夫のためにすべてを整えた。
ただひとつ夫リオンの心だけが、手に入らなかった。
彼が愛していたのは、幼い頃からの想い人。
再会した公爵令嬢セレスティアの前では、あの「氷の侯爵」が、はじめて笑った。
(彼が笑う顔を、私はまだ知らない)
アリアは気づかれないように廊下を引き返し、翌朝もいつもどおり微笑んだ。
それを、三年間続けた。
君を幸せにする、そんな言葉を信じた私が馬鹿だった
白羽天使
恋愛
学園生活も残りわずかとなったある日、アリスは婚約者のフロイドに中庭へと呼び出される。そこで彼が告げたのは、「君に愛はないんだ」という残酷な一言だった。幼いころから将来を約束されていた二人。家同士の結びつきの中で育まれたその関係は、アリスにとって大切な生きる希望だった。フロイドもまた、「君を幸せにする」と繰り返し口にしてくれていたはずだったのに――。
『愛されぬ身代わり妻ですが、真実はもう、あの小箱の中に置いてきました』
まさき
恋愛
「サインはいただきました。あとは私が、この屋敷を出るだけです」
五年間の結婚生活。
イリス・フェルナが演じ続けたのは、婚約直前に出奔した異母姉・クローヴィアの「身代わり」という役だった。
辺境大公ヴァルクが愛していたのは、幼い頃に魔物の群れから自分を救ってくれた少女——それがクローヴィアだと信じていた彼は、顔の似た妹イリスを娶りながらも、一度たりとて彼女を「イリス」と呼ぶことはなかった。
冷淡な視線、クローヴィアと比べられる日々。
屋敷にはいまも姉の肖像画が飾られ、食卓には姉の好物が並んだ。
「君はどこまでいっても、クローヴィアにはなれない」
その言葉を最後に、イリスは静かに離縁状を書き、小さな箱をひとつ棚に残して、夜明け前に屋敷を去った。
翌朝、箱を開けたヴァルクが見つけたのは——
幼い頃、命の恩人の少女に預けたはずの護符と、
少女の手で綴られた、あまりにも小さな真実の手記だった。
――「雪の森で貴方を抱きしめていたのは、お姉様ではなく、私でした」
真実を知り、はじめて「イリス」という名を叫びながら彼女を追うヴァルク。
だが、すべてを置いて「自分」を取り戻したイリスは、もう二度と、誰かの身代わりとして微笑む妻には戻らない。
これは、名前を奪われた女が自由を掴み、愚かな夫が真実の愛を失うまでの——静かで鮮やかな再生の物語。
貴方なんて大嫌い
ララ愛
恋愛
婚約をして5年目でそろそろ結婚の準備の予定だったのに貴方は最近どこかの令嬢と
いつも一緒で私の存在はなんだろう・・・2人はむつまじく愛し合っているとみんなが言っている
それなら私はもういいです・・・貴方なんて大嫌い