二番目でいい。それがあなたの隣にいられる唯一の方法だから

柴田はつみ

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第20話「届かない言葉」

 熱が下がってから、三日が経った。
 体はすっかり元に戻っていた。
 屋敷の仕事も再開して、いつもの日常が戻っていた。
 ただ一つだけ、元に戻らないものがあった。
 クリスとの空気が、少し変わっていた。

 変わった、というのは悪い意味ではない。
 クリスがわたしをよく見るようになった。
 食事の時間、廊下ですれ違うとき、居間で同じ時間を過ごすとき。視線を感じて振り返ると、クリスがこちらを見ていた。
 目が合うと、すぐに逸らされた。
 それが何度もあった。

 気のせいではないと思う。でも何を意味するのかがわからなかった。
 熱の夜に「好き」と言ってしまったから、気を遣っているのだろうか。
 それとも別の理由があるのだろうか。
 考えるたびに、胸がざわざわした。

 その夜の夕食は、二人きりだった。
 いつも通りのことだけれど、今夜はなぜかその事実が重く感じた。
 テーブルを挟んで向かい合って、スープを飲んだ。
 クリスが今日の仕事の話をした。領地の件で少し厄介なことがあったと言った。
 わたしは相槌を打ちながら聞いた。
 でも頭の片隅でずっと、別のことを考えていた。

 熱の夜のことを。
 言ってしまった言葉のことを。
 クリスが何と言ったかを。
「アリス」
「え?」
 名前を呼ばれて、はっとした。
「聞いていたか」
「ごめんなさい、少しぼんやりしていたわ」
 クリスが少し眉を寄せた。

「まだ体が本調子でないのか」
「違うの、そういうわけじゃなくて」
「なら、何を考えていた」
 真っ直ぐな問いだった。
 わたしは少し視線を外した。
「……なんでもないわ」
 クリスが何かを言いかけた。
 でも止まった。
 
 食後、居間に移った。
 クリスが書類を開いた。わたしは刺繍の続きをしようとしたけれど、針を持ったまま動けなかった。
 熱の夜に、針で指を刺した。
 そのときクリスが飛んできて、傍に座ってくれた。
 あの温もりを、まだ覚えている。
「クリス」

 気づいたら、呼んでいた。
 クリスが書類から顔を上げた。
「なんだ」
「一つ、聞いてもいいかしら」
「ああ」
 わたしは刺繍を膝の上に置いた。
 クリスを見た。
 クリスもわたしを見ていた。
「熱の夜にわたし、何か言ったかしら」
 静かな問いだった。

 我ながら、よく聞けたと思った。
 クリスが少し動きを止めた。
 書類をテーブルに置いた。
 そしてわたしをまっすぐ見た。
「言った」
 一言だった。

 わたしの心臓が、跳ね上がった。
「……覚えていないのか?」
「半分は、夢だったかもしれないわ」
 嘘だった。
 覚えていた。
 でも自分の口から確認するのが、怖かった。
「そうか」クリスが静かに言った。
 

 クリスが口を開いた。
「アリス、俺も一つ聞いていいか」
「ええ」
「お前はこの結婚を、どう思っている」
 予想していなかった問いだった。

 わたしはしばらく答えられなかった。
 この結婚を、どう思っているか。
 嬉しい、でも苦しい。好きな人の隣にいられるけれど、その人に本当に好きでいてもらえているかどうかわからない。
 そんなことを、正直に言えるわけがなかった。
「……幸せよ」
 やっと出てきた言葉は、そんなものだった。
「本当に?」
「ええ」
 クリスがわたしを見た。
 その目が、今夜はいつもより深かった。
「笑っているときの目じゃない」
 わたしは少し息を呑んだ。
「どういう意味?」

「お前が本当に嬉しいときは、目が細くなる」クリスが静かに言った。
「今はそうじゃない」
 そんなところまで、見ていたのか。
 胸の奥がじわりと痛んだ。
「……よく、見ているのね」
「ずっと見ていた」

 その言葉が、どこまでも真剣な声で言われたから、わたしは何も言えなくなった。

「アリス」
 クリスが立ち上がった。
 書類をテーブルに置いて、わたしの方へ歩いてきた。
 向かいのソファに座らず、わたしの隣に来た。
 ベッドの傍らに座ったあの夜と、同じように。
「俺は」

 言いかけた。
 わたしは息を止めた。
 来る、と思った。
 何かが来る、と思った。
 でも。
 クリスが口を閉じた。
 
 わたしの胸の中で、何かが音を立てて落ちた気がした。

「クリス」
 わたしは静かに呼んだ。
「なに」
「言いたいことがあるなら、言って」
 クリスがわたしを見た。
「言えない理由が、あるの?」

 問いかけながら、自分でも同じことだと思った。
 わたしだって言えない。
 言いたいことがあるのに、怖くて言えない。
 クリスもきっと同じなのだろうか。
「……ある」
 クリスが静かに答えた。
「どんな理由?」
「言って、お前に笑われたら」
 そこで止まった。

 でも今度は続きが聞こえた気がした。
 言って、お前に笑われたら。
 言って、受け入れてもらえなかったら。
 立っていられない。
 それはわたしと、同じだった。
 まったく同じ、臆病さだった。

「笑わないわ」
 わたしは静かに言った。
 クリスがわたしを見た。
「笑わないし受け入れないなんてこと、ないわ」

 言ってしまってから、顔が熱くなった。
 これでは、ほとんど答えを言っているようなものだった。
 クリスが黙っていた。
 わたしも黙っていた。

 暖炉が、ぱちりと音を立てた。
 クリスがゆっくりと息を吐いた。
「アリス」
「なに?」
「もう少し、時間をくれ」

 わたしは少しの間があって、頷いた。
「……わかったわ」
 クリスが静かに立ち上がった。
 書類を手に取って、書斎に戻ろうとした。
 扉の前で一度止まった。
 振り返らずに言った。
「お前が笑ってくれるとそれだけで、俺は十分だと思っていた時期があった」
 それだけ言って、扉が閉まった。

 一人残されたわたしは、しばらく動けなかった。
 暖炉の炎が揺れていた。
 クリスの言葉が、頭の中で繰り返された。
 お前が笑ってくれると、それだけで十分だと思っていた時期があった。
 思っていた、時期があった。
 今は違う、ということだろうか。

 今は、笑顔以上のものを求めている、ということだろうか。
 わからなかった。
 でも今夜のクリスは、いつもと違った。
 何かを言いかけていた。何かを伝えようとしていた。
 もう少し、時間をくれと言った。
 それはいつか、言ってくれるということだろうか。

その夜、眠れないまま天井を見つめた。
クリスの部屋の灯りが、廊下の隙間からずっと漏れていた。
あの人も眠れないのかもしれない、と思った。

同じように、言えない言葉を抱えて。
同じように、怖くて踏み出せなくて。
わたしたちは本当に、似た者同士だと思った。
だから余計に、もどかしかった。
あと少しだけ勇気があれば。
そう思いながら、夜が明けていった。

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