二番目でいい。それがあなたの隣にいられる唯一の方法だから

柴田はつみ

文字の大きさ
21 / 24

第21話「変わり始めた距離」

 新婚生活が始まって、二ヶ月が経った。
 季節は冬の深いところにあった。朝の空気が刃のように冷たくて、庭の木が枯れ枝をさらしていた。屋敷の暖炉はいつも燃えていて、部屋の中は温かかった。
 外は寒くて、中は温かい。
 そのままが、今のわたしの気持ちに似ていた。

 何かが変わっていた。

いや変わったというより、少し、薄皮が剥がれたような感じだった。
 いつも通りに見える。いつも通りに話して、いつも通りに仕事をして、いつも通りに朝食を食べる。
 でもわたしへの接し方が、少しずつ違ってきていた。

たとえば。
 朝食の席で、以前は向かい合って座っていたのに、最近は隣に座ることが増えた。
 廊下ですれ違うとき、以前は会釈だけだったのに、最近は必ず声をかけてくれるようになった。

 居間で同じ時間を過ごすとき、以前は少し離れた場所に座っていたのに、最近は自然とわたしの近くに来るようになった。
 どれも、小さなことだった。
 でもその小さなことが積み重なって、二人の間の空気が変わっていた。

 一番わかりやすく変わったのは、触れることだった。
 以前は滅多になかった。
 熱の夜に額に手を当てられたことや、庭で頭に手を置かれたこと。それくらいだった。

 でも最近は階段で手を貸してくれる。馬車の乗り降りで手を取ってくれる。肩が触れる距離で並んで歩く。
 一つ一つは些細なことだった。
 でもそのたびに、心臓が跳ねた。
 慣れないのが悔しかった。

 ある夜、居間で刺繍をしていると、クリスが隣に座った。
 向かいのソファが空いているのに、わざわざ隣に。
「……狭くないの?」
「狭くない」
 クリスが本を開いた。

 わたしも刺繍に視線を戻した。
 二人で、それぞれのことをしていた。
 肩が触れそうな距離で。
 しばらくして、侍女のエマが飲み物を運んできた。

 わたしとクリスが隣に座っているのを見て、盆を持ったまま少し固まった。
「……どうぞ」
 それだけ言って、急いで部屋を出て行った。
 廊下で小さく何か言った声が聞こえた気がしたけれど、聞こえないふりをした。

 その翌日、エマがわたしに言った。
「奥様、最近旦那様との距離が近くなりましたね」
「そうかしら」
「そうですよ」エマが目を輝かせた。「昨夜も隣に座っていらして、ジョエルさんと二人で」
「エマ」
「はい」

「あまり騒がないで」
「でも奥様、良いことじゃないですか」
 エマがにこにこしながら言った。
「旦那様は奥様のことが」
「エマ」
「はい」
「本当に、騒がないで」
 エマが唇を噛んで笑いを堪えた。
「わかりました。でも奥様、少しは期待してもいいと思いますよ」

 そう言って、エマは部屋を出て行った。
 わたしは鏡の前で、自分の頬が赤いのを確認した。
 少しは期待してもいいのだろうか。
 まだ怖かった。
 でも少しだけ、怖さが和らいでいた。

 その週の終わり、夕食の後でクリスが言った。
「明日、少し出かけないか」
「どこへ?」
「街に。お前に見せたい場所がある」
 わたしは少し驚いた。
 クリスから誘ってくれることは、あまりなかった。
「……二人で?」
「ああ」
「いいわ」と答えてから、また顔が熱くなった。

 クリスが短く頷いた。
 それだけだったのに。
 その夜、なかなか眠れなかった。

 翌朝、馬車で街に出た。
 冬の街は人が少なくて、でも賑やかだった。露店が並んでいて、焼き菓子の甘い匂いが漂っていた。
 クリスが馬車を降りて、わたしに手を差し出した。

 その手を取って降りると、クリスがそのまま手を離さなかった。
 わたしは少し驚いたけれど、何も言わなかった。
 言えなかった。
 手袋越しでも、温もりが伝わってきた。

 連れて行かれたのは、街の少し奥まった場所にある小さな本屋だった。
 古い建物で、扉を開けると本の匂いがした。
 天井まで棚が並んでいて、古い本が所狭しと並んでいた。
「ここは?」

「学生の頃から来ていた店だ」
クリスが言った。
「昔、お前が読みたいと言っていた本があると聞いて」
 わたしは少し首を傾けた。
「わたしが?」
「ああ。だいぶ前の話だが覚えているか。十五の頃、三人で話していたとき、お前が読んでみたい本があると言った」

 十五の頃。
 記憶を辿ると、確かにそんな話をした気がした。
「……覚えているの? そんな昔のことを」
「覚えている」

 クリスが棚の一つに手を伸ばして、本を一冊取り出した。
 それをわたしに差し出した。
「これだろう」
 受け取って、表紙を見た。
 古い旅行記だった。

 見た瞬間、記憶が鮮明に蘇った。
 そうだ、この本だ。遠い国の話が読みたいと言ったのだ。

「……覚えていてくれたの」
「ずっと探していた」
クリスが静かに言った。
「なかなか見つからなくて」
 わたしは本を胸に抱えた。
 ずっと探していた。

 あの頃の何気ない会話を、クリスはずっと覚えていてくれた。
 わたしが忘れていたことを、彼は覚えていた。
 目の奥が熱くなった。
「……ありがとう」
 声が少し震えた。
 クリスがわたしを見た。
「泣くことじゃない」
「泣いていないわ」
「目が赤い」
「……本が嬉しかっただけよ」
 クリスが小さく息を吐いた。
 それから、また手を取った。

「行くか。もう一箇所、寄るところがある」
 わたしは頷いた。
 本を抱えたまま、クリスの手を握り返した。
 今日は、自分から握り返した。
 クリスが少し手に力を込めた。
 それだけで、十分だった。

 帰り道、馬車の中でわたしは本を膝の上に置いていた。
 クリスが窓の外を見ていた。
 夕暮れの光が橙色に広がっていた。
「クリス」
「なんだ」
「今日は、ありがとう」
「礼はいい」

「でも言いたいの」
わたしは少し笑った。
「ありがとう、クリス。すごく嬉しかった」
 クリスが窓から視線を戻した。
 わたしを見た。
 少しの間があって
 クリスが静かに微笑んだ。

「それは良かった」
 その言葉が、温かかった。
 その笑顔が、好きだった。
 今日だけは期待してもいいかもしれない、と思った。

屋敷に帰ってから、わたしは本を机の上に置いた。
表紙を撫でながら、今日のことを思い返した。

手を繋いで歩いた街の空気。
本を差し出してくれたクリスの手。
少し照れたような、でも嬉しそうな横顔。
信じていいのかな、と思った。

今日だけは、もう少し信じてみようと思った。
それだけで、夜が温かかった。

あなたにおすすめの小説

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

初恋の公爵様

柴田はつみ
恋愛
嫌いになろうとしたのに、十年分の愛に敵わなかった。 幼い頃から密かに慕っていた人が、政略結婚の相手だった。 エルウィン伯爵家の一人娘・セラフィーナには、幼少期から婚約者がいる。次期公爵・ルシアン・ヴァレンクール。無口だけれど自分の言葉だけには耳を傾けてくれる彼のことを、セラはずっと好きだった。 でも十年前の舞踏会の夜を境に、彼は別人になった。 理由もわからないまま氷のような態度をとり続けるルシアン。追い打ちをかけるように届く噂。「ヴァレンクール子息にまた新しいお相手が」 こんな結婚、幸せになれるはずがない。

我慢しないことにした結果

宝月 蓮
恋愛
メアリー、ワイアット、クレアは幼馴染。いつも三人で過ごすことが多い。しかしクレアがわがままを言うせいで、いつもメアリーは我慢を強いられていた。更に、メアリーはワイアットに好意を寄せていたが色々なことが重なりワイアットはわがままなクレアと婚約することになってしまう。失意の中、欲望に忠実なクレアの更なるわがままで追い詰められていくメアリー。そんなメアリーを救ったのは、兄達の友人であるアレクサンダー。アレクサンダーはメアリーに、もう我慢しなくて良い、思いの全てを吐き出してごらんと優しく包み込んでくれた。メアリーはそんなアレクサンダーに惹かれていく。 小説家になろう、カクヨムにも掲載しています。

【完結】他の人が好きな人を好きになる姉に愛する夫を奪われてしまいました。

山葵
恋愛
私の愛する旦那様。私は貴方と結婚して幸せでした。 姉は「協力するよ!」と言いながら友達や私の好きな人に近づき「彼、私の事を好きだって!私も話しているうちに好きになっちゃったかも♡」と言うのです。 そんな姉が離縁され実家に戻ってきました。

手放したくない理由

もちもちほっぺ
恋愛
公爵令嬢エリスと王太子アドリアンの婚約は、互いに「務め」として受け入れたものだった。貴族として、国のために結ばれる。 しかし、王太子が何かと幼馴染のレイナを優先し、社交界でも「王太子妃にふさわしいのは彼女では?」と囁かれる中、エリスは淡々と「それならば、私は不要では?」と考える。そして、自ら婚約解消を申し出る。 話し合いの場で、王妃が「辛い思いをさせてしまってごめんなさいね」と声をかけるが、エリスは本当にまったく辛くなかったため、きょとんとする。その様子を見た周囲は困惑し、 「……王太子への愛は芽生えていなかったのですか?」 と問うが、エリスは「愛?」と首を傾げる。 同時に、婚約解消に動揺したアドリアンにも、側近たちが「殿下はレイナ嬢に恋をしていたのでは?」と問いかける。しかし、彼もまた「恋……?」と首を傾げる。 大人たちは、その光景を見て、教育の偏りを大いに後悔することになる。

【完結】婚約者は私を大切にしてくれるけれど、好きでは無かったみたい。

まりぃべる
恋愛
伯爵家の娘、クラーラ。彼女の婚約者は、いつも優しくエスコートしてくれる。そして蕩けるような甘い言葉をくれる。 少しだけ疑問に思う部分もあるけれど、彼が不器用なだけなのだと思っていた。 そんな甘い言葉に騙されて、きっと幸せな結婚生活が送れると思ったのに、それは偽りだった……。 そんな人と結婚生活を送りたくないと両親に相談すると、それに向けて動いてくれる。 人生を変える人にも出会い、学院生活を送りながら新しい一歩を踏み出していくお話。 ☆※感想頂いたからからのご指摘により、この一文を追加します。 王道(?)の、世間にありふれたお話とは多分一味違います。 王道のお話がいい方は、引っ掛かるご様子ですので、申し訳ありませんが引き返して下さいませ。 ☆現実にも似たような名前、言い回し、言葉、表現などがあると思いますが、作者の世界観の為、現実世界とは少し異なります。 作者の、緩い世界観だと思って頂けると幸いです。 ☆以前投稿した作品の中に出てくる子がチラッと出てきます。分かる人は少ないと思いますが、万が一分かって下さった方がいましたら嬉しいです。(全く物語には響きませんので、読んでいなくても全く問題ありません。) ☆完結してますので、随時更新していきます。番外編も含めて全35話です。 ★感想いただきまして、さすがにちょっと可哀想かなと最後の35話、文を少し付けたしました。私めの表現の力不足でした…それでも読んで下さいまして嬉しいです。

【完結】少年の懺悔、少女の願い

干野ワニ
恋愛
伯爵家の嫡男に生まれたフェルナンには、ロズリーヌという幼い頃からの『親友』がいた。「気取ったご令嬢なんかと結婚するくらいならロズがいい」というフェルナンの希望で、二人は一年後に婚約することになったのだが……伯爵夫人となるべく王都での行儀見習いを終えた『親友』は、すっかり別人の『ご令嬢』となっていた。 そんな彼女に置いて行かれたと感じたフェルナンは、思わず「奔放な義妹の方が良い」などと言ってしまい―― なぜあの時、本当の気持ちを伝えておかなかったのか。 後悔しても、もう遅いのだ。 ※本編が全7話で悲恋、後日談が全2話でハッピーエンド予定です。 ※長編のスピンオフですが、単体で読めます。

二度目の恋

豆狸
恋愛
私の子がいなくなって半年と少し。 王都へ行っていた夫が、久しぶりに伯爵領へと戻ってきました。 満面の笑みを浮かべた彼の後ろには、ヴィエイラ侯爵令息の未亡人が赤毛の子どもを抱いて立っています。彼女は、彼がずっと想ってきた女性です。 ※上記でわかる通り子どもに関するセンシティブな内容があります。