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第21話「変わり始めた距離」
新婚生活が始まって、二ヶ月が経った。
季節は冬の深いところにあった。朝の空気が刃のように冷たくて、庭の木が枯れ枝をさらしていた。屋敷の暖炉はいつも燃えていて、部屋の中は温かかった。
外は寒くて、中は温かい。
そのままが、今のわたしの気持ちに似ていた。
何かが変わっていた。
いや変わったというより、少し、薄皮が剥がれたような感じだった。
いつも通りに見える。いつも通りに話して、いつも通りに仕事をして、いつも通りに朝食を食べる。
でもわたしへの接し方が、少しずつ違ってきていた。
たとえば。
朝食の席で、以前は向かい合って座っていたのに、最近は隣に座ることが増えた。
廊下ですれ違うとき、以前は会釈だけだったのに、最近は必ず声をかけてくれるようになった。
居間で同じ時間を過ごすとき、以前は少し離れた場所に座っていたのに、最近は自然とわたしの近くに来るようになった。
どれも、小さなことだった。
でもその小さなことが積み重なって、二人の間の空気が変わっていた。
一番わかりやすく変わったのは、触れることだった。
以前は滅多になかった。
熱の夜に額に手を当てられたことや、庭で頭に手を置かれたこと。それくらいだった。
でも最近は階段で手を貸してくれる。馬車の乗り降りで手を取ってくれる。肩が触れる距離で並んで歩く。
一つ一つは些細なことだった。
でもそのたびに、心臓が跳ねた。
慣れないのが悔しかった。
ある夜、居間で刺繍をしていると、クリスが隣に座った。
向かいのソファが空いているのに、わざわざ隣に。
「……狭くないの?」
「狭くない」
クリスが本を開いた。
わたしも刺繍に視線を戻した。
二人で、それぞれのことをしていた。
肩が触れそうな距離で。
しばらくして、侍女のエマが飲み物を運んできた。
わたしとクリスが隣に座っているのを見て、盆を持ったまま少し固まった。
「……どうぞ」
それだけ言って、急いで部屋を出て行った。
廊下で小さく何か言った声が聞こえた気がしたけれど、聞こえないふりをした。
その翌日、エマがわたしに言った。
「奥様、最近旦那様との距離が近くなりましたね」
「そうかしら」
「そうですよ」エマが目を輝かせた。「昨夜も隣に座っていらして、ジョエルさんと二人で」
「エマ」
「はい」
「あまり騒がないで」
「でも奥様、良いことじゃないですか」
エマがにこにこしながら言った。
「旦那様は奥様のことが」
「エマ」
「はい」
「本当に、騒がないで」
エマが唇を噛んで笑いを堪えた。
「わかりました。でも奥様、少しは期待してもいいと思いますよ」
そう言って、エマは部屋を出て行った。
わたしは鏡の前で、自分の頬が赤いのを確認した。
少しは期待してもいいのだろうか。
まだ怖かった。
でも少しだけ、怖さが和らいでいた。
その週の終わり、夕食の後でクリスが言った。
「明日、少し出かけないか」
「どこへ?」
「街に。お前に見せたい場所がある」
わたしは少し驚いた。
クリスから誘ってくれることは、あまりなかった。
「……二人で?」
「ああ」
「いいわ」と答えてから、また顔が熱くなった。
クリスが短く頷いた。
それだけだったのに。
その夜、なかなか眠れなかった。
翌朝、馬車で街に出た。
冬の街は人が少なくて、でも賑やかだった。露店が並んでいて、焼き菓子の甘い匂いが漂っていた。
クリスが馬車を降りて、わたしに手を差し出した。
その手を取って降りると、クリスがそのまま手を離さなかった。
わたしは少し驚いたけれど、何も言わなかった。
言えなかった。
手袋越しでも、温もりが伝わってきた。
連れて行かれたのは、街の少し奥まった場所にある小さな本屋だった。
古い建物で、扉を開けると本の匂いがした。
天井まで棚が並んでいて、古い本が所狭しと並んでいた。
「ここは?」
「学生の頃から来ていた店だ」
クリスが言った。
「昔、お前が読みたいと言っていた本があると聞いて」
わたしは少し首を傾けた。
「わたしが?」
「ああ。だいぶ前の話だが覚えているか。十五の頃、三人で話していたとき、お前が読んでみたい本があると言った」
十五の頃。
記憶を辿ると、確かにそんな話をした気がした。
「……覚えているの? そんな昔のことを」
「覚えている」
クリスが棚の一つに手を伸ばして、本を一冊取り出した。
それをわたしに差し出した。
「これだろう」
受け取って、表紙を見た。
古い旅行記だった。
見た瞬間、記憶が鮮明に蘇った。
そうだ、この本だ。遠い国の話が読みたいと言ったのだ。
「……覚えていてくれたの」
「ずっと探していた」
クリスが静かに言った。
「なかなか見つからなくて」
わたしは本を胸に抱えた。
ずっと探していた。
あの頃の何気ない会話を、クリスはずっと覚えていてくれた。
わたしが忘れていたことを、彼は覚えていた。
目の奥が熱くなった。
「……ありがとう」
声が少し震えた。
クリスがわたしを見た。
「泣くことじゃない」
「泣いていないわ」
「目が赤い」
「……本が嬉しかっただけよ」
クリスが小さく息を吐いた。
それから、また手を取った。
「行くか。もう一箇所、寄るところがある」
わたしは頷いた。
本を抱えたまま、クリスの手を握り返した。
今日は、自分から握り返した。
クリスが少し手に力を込めた。
それだけで、十分だった。
帰り道、馬車の中でわたしは本を膝の上に置いていた。
クリスが窓の外を見ていた。
夕暮れの光が橙色に広がっていた。
「クリス」
「なんだ」
「今日は、ありがとう」
「礼はいい」
「でも言いたいの」
わたしは少し笑った。
「ありがとう、クリス。すごく嬉しかった」
クリスが窓から視線を戻した。
わたしを見た。
少しの間があって
クリスが静かに微笑んだ。
「それは良かった」
その言葉が、温かかった。
その笑顔が、好きだった。
今日だけは期待してもいいかもしれない、と思った。
屋敷に帰ってから、わたしは本を机の上に置いた。
表紙を撫でながら、今日のことを思い返した。
手を繋いで歩いた街の空気。
本を差し出してくれたクリスの手。
少し照れたような、でも嬉しそうな横顔。
信じていいのかな、と思った。
今日だけは、もう少し信じてみようと思った。
それだけで、夜が温かかった。
季節は冬の深いところにあった。朝の空気が刃のように冷たくて、庭の木が枯れ枝をさらしていた。屋敷の暖炉はいつも燃えていて、部屋の中は温かかった。
外は寒くて、中は温かい。
そのままが、今のわたしの気持ちに似ていた。
何かが変わっていた。
いや変わったというより、少し、薄皮が剥がれたような感じだった。
いつも通りに見える。いつも通りに話して、いつも通りに仕事をして、いつも通りに朝食を食べる。
でもわたしへの接し方が、少しずつ違ってきていた。
たとえば。
朝食の席で、以前は向かい合って座っていたのに、最近は隣に座ることが増えた。
廊下ですれ違うとき、以前は会釈だけだったのに、最近は必ず声をかけてくれるようになった。
居間で同じ時間を過ごすとき、以前は少し離れた場所に座っていたのに、最近は自然とわたしの近くに来るようになった。
どれも、小さなことだった。
でもその小さなことが積み重なって、二人の間の空気が変わっていた。
一番わかりやすく変わったのは、触れることだった。
以前は滅多になかった。
熱の夜に額に手を当てられたことや、庭で頭に手を置かれたこと。それくらいだった。
でも最近は階段で手を貸してくれる。馬車の乗り降りで手を取ってくれる。肩が触れる距離で並んで歩く。
一つ一つは些細なことだった。
でもそのたびに、心臓が跳ねた。
慣れないのが悔しかった。
ある夜、居間で刺繍をしていると、クリスが隣に座った。
向かいのソファが空いているのに、わざわざ隣に。
「……狭くないの?」
「狭くない」
クリスが本を開いた。
わたしも刺繍に視線を戻した。
二人で、それぞれのことをしていた。
肩が触れそうな距離で。
しばらくして、侍女のエマが飲み物を運んできた。
わたしとクリスが隣に座っているのを見て、盆を持ったまま少し固まった。
「……どうぞ」
それだけ言って、急いで部屋を出て行った。
廊下で小さく何か言った声が聞こえた気がしたけれど、聞こえないふりをした。
その翌日、エマがわたしに言った。
「奥様、最近旦那様との距離が近くなりましたね」
「そうかしら」
「そうですよ」エマが目を輝かせた。「昨夜も隣に座っていらして、ジョエルさんと二人で」
「エマ」
「はい」
「あまり騒がないで」
「でも奥様、良いことじゃないですか」
エマがにこにこしながら言った。
「旦那様は奥様のことが」
「エマ」
「はい」
「本当に、騒がないで」
エマが唇を噛んで笑いを堪えた。
「わかりました。でも奥様、少しは期待してもいいと思いますよ」
そう言って、エマは部屋を出て行った。
わたしは鏡の前で、自分の頬が赤いのを確認した。
少しは期待してもいいのだろうか。
まだ怖かった。
でも少しだけ、怖さが和らいでいた。
その週の終わり、夕食の後でクリスが言った。
「明日、少し出かけないか」
「どこへ?」
「街に。お前に見せたい場所がある」
わたしは少し驚いた。
クリスから誘ってくれることは、あまりなかった。
「……二人で?」
「ああ」
「いいわ」と答えてから、また顔が熱くなった。
クリスが短く頷いた。
それだけだったのに。
その夜、なかなか眠れなかった。
翌朝、馬車で街に出た。
冬の街は人が少なくて、でも賑やかだった。露店が並んでいて、焼き菓子の甘い匂いが漂っていた。
クリスが馬車を降りて、わたしに手を差し出した。
その手を取って降りると、クリスがそのまま手を離さなかった。
わたしは少し驚いたけれど、何も言わなかった。
言えなかった。
手袋越しでも、温もりが伝わってきた。
連れて行かれたのは、街の少し奥まった場所にある小さな本屋だった。
古い建物で、扉を開けると本の匂いがした。
天井まで棚が並んでいて、古い本が所狭しと並んでいた。
「ここは?」
「学生の頃から来ていた店だ」
クリスが言った。
「昔、お前が読みたいと言っていた本があると聞いて」
わたしは少し首を傾けた。
「わたしが?」
「ああ。だいぶ前の話だが覚えているか。十五の頃、三人で話していたとき、お前が読んでみたい本があると言った」
十五の頃。
記憶を辿ると、確かにそんな話をした気がした。
「……覚えているの? そんな昔のことを」
「覚えている」
クリスが棚の一つに手を伸ばして、本を一冊取り出した。
それをわたしに差し出した。
「これだろう」
受け取って、表紙を見た。
古い旅行記だった。
見た瞬間、記憶が鮮明に蘇った。
そうだ、この本だ。遠い国の話が読みたいと言ったのだ。
「……覚えていてくれたの」
「ずっと探していた」
クリスが静かに言った。
「なかなか見つからなくて」
わたしは本を胸に抱えた。
ずっと探していた。
あの頃の何気ない会話を、クリスはずっと覚えていてくれた。
わたしが忘れていたことを、彼は覚えていた。
目の奥が熱くなった。
「……ありがとう」
声が少し震えた。
クリスがわたしを見た。
「泣くことじゃない」
「泣いていないわ」
「目が赤い」
「……本が嬉しかっただけよ」
クリスが小さく息を吐いた。
それから、また手を取った。
「行くか。もう一箇所、寄るところがある」
わたしは頷いた。
本を抱えたまま、クリスの手を握り返した。
今日は、自分から握り返した。
クリスが少し手に力を込めた。
それだけで、十分だった。
帰り道、馬車の中でわたしは本を膝の上に置いていた。
クリスが窓の外を見ていた。
夕暮れの光が橙色に広がっていた。
「クリス」
「なんだ」
「今日は、ありがとう」
「礼はいい」
「でも言いたいの」
わたしは少し笑った。
「ありがとう、クリス。すごく嬉しかった」
クリスが窓から視線を戻した。
わたしを見た。
少しの間があって
クリスが静かに微笑んだ。
「それは良かった」
その言葉が、温かかった。
その笑顔が、好きだった。
今日だけは期待してもいいかもしれない、と思った。
屋敷に帰ってから、わたしは本を机の上に置いた。
表紙を撫でながら、今日のことを思い返した。
手を繋いで歩いた街の空気。
本を差し出してくれたクリスの手。
少し照れたような、でも嬉しそうな横顔。
信じていいのかな、と思った。
今日だけは、もう少し信じてみようと思った。
それだけで、夜が温かかった。
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