二番目でいい。それがあなたの隣にいられる唯一の方法だから

柴田はつみ

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最終話「隣にいる場所」

目が覚めたとき、空が明るかった。
 カーテンの隙間から、冬の朝の光が細く差し込んでいた。
 天井を見つめながら、わたしはしばらくそのままでいた。
 昨夜のことが、夢ではないかと思った。
 クリスが言ってくれた。
 愛している、と。
 わたしも言った。
 
 
 胸の奥に、昨夜の温もりがまだ残っていた。
 それが証拠だった。

 着替えを済ませて、廊下に出た。
 いつもと同じ廊下だった。
 同じ絨毯で、同じ壁で、同じ窓から同じ庭が見えた。
 でも何かが違った。
 世界の色が、少し変わった気がした。
 昨日まで少し灰色がかって見えていたものが、今日は鮮やかだった。
 大袈裟だと思う。
 でも本当にそう見えた。

食堂に向かうと、クリスがいた。
 いつも通り、先に席についていた。
 でも今日は新聞を読んでいなかった。
 ただ、コーヒーカップを手に持ったまま、窓の外を見ていた。
 わたしが入ると、すぐに気づいた。
 
 
「おはよう」
 クリスが言った。
 いつもと同じ言葉だった。
 でも声が、いつもより少し柔らかかった。
「おはようございます」
 席に着いた。
 いつもの向かいの席ではなく昨夜と同じように、隣の席に。
 
「隣でいいのか」
「ええ」
「そうか」
 それだけだった。
 でもクリスの耳が、ほんのわずかに赤くなった。

 朝食が運ばれてきた。
 スープと、パンと、果物。
 いつもと同じ朝食だった。
 でも今日は隣にクリスがいた。
 肩が触れるほど近くに。
 スープを一口飲んだ。
 温かかった。
 ベアトリスが丹精込めて作ってくれた、いつものスープだった。
 でも今日は、いつもより少し美味しく感じた。
「アリス」
「なに?」
「昨夜変なことを言わなかったか」
 わたしは少し吹き出しそうになった。
「変なこと?」
「……恥ずかしいことを言った気がして」
「どれのこと?」
「お前がいないと、俺が静かすぎるとか」
「変なことじゃないわ」
「でも」
「嬉しかったもの」

 クリスが視線をスープに落とした。
「……そうか」
 その横顔が、いつもより少しやわらかかった。
 こういう顔も、あるのか。
 いつも涼しげで、表情が読めないと思っていたのに。
 隣に来てみれば、こんな顔をしている。
 もっと早く、隣に来ればよかった。

 朝食が終わって、クリスが立ち上がった。
 今日も仕事があるのだろう。
 でも執務室に向かう前に、わたしに向き直った。
「アリス」
「なに?」
「昨夜言ったことは」
「ええ」
「本当のことだ。昨夜だけのことじゃない」
 わたしは少し笑った。
「知っているわ」
「念のため」
「念のためなんて言わなくていい」

「でも」
「クリス」
 わたしは立ち上がって、クリスを見た。
「わたしも、昨夜言ったことは本当よ。今日も、明日も、変わらないわ」
 クリスが少しの間、わたしを見た。
 それから静かに頷いた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」

 クリスが執務室に向かった。
 わたしは食堂に一人残されて、しばらく窓の外を眺めた。
 庭に冬の朝の光が当たっていた。
 枯れ木が風に揺れていた。
 寒そうだった。
 でもなぜか温かく見えた。

 エマが片付けに来た。
 わたしの顔を見て、少し止まった。
「奥様」
「なに?」
「……目が細くなっていますよ」
 わたしは思わず頬に手を当てた。
「そう?」
「ええ」エマが嬉しそうに言った。
「本当に嬉しいときの顔です」
 指摘されて、余計に顔が緩んだ。

「……そうかもしれないわ」
 エマがわたしを見て、目を潤ませた。
「良かった」
「エマ、泣かないで」
「だって」エマが目を拭いた。「ずっと、奥様にこういう顔をしてほしかったんですもの」
「ずっと?」

「エルランド家に来た日から、ずっとです」
 その言葉に、胸が温かくなった。
「ありがとう、エマ」
「これからも、ずっとこういう顔でいてくださいね」
「……努力するわ」

 昼前、庭に出た。
 冬の空気が冷たかった。
 古いベンチに座った。
 いつもの場所だった。
 一人でいる顔をしているとき、ここに来ていた。

 クリスはいつも気づいて、隣に来てくれた。
 今日は一人だった。
 でも不思議と、一人の気がしなかった。
 昨夜の温もりが、まだそばにある気がした。

 どのくらい座っていたか、足音がした。
 振り返ると、クリスが庭に出てきた。
「仕事は?」
「少し早く終わった」
 クリスが隣に座った。
 当然のように、隣に。
 肩が触れた。
「寒くないか」
「少し」
「なぜ外にいる」
「ここが好きだから」
 クリスが庭を見た。

「昔から、よくここにいたな」
「ええ。一人になりたいときに来ていたの」
「今も、一人になりたかったのか」
「違うわ」
 わたしはクリスを見た。
「今日はなんとなく、来たくなっただけ」
「そうか」
「クリスも来たくなったの?」
 少しの間があった。
「お前がいる気がしたから」
 その言葉が、胸の奥にじわりと落ちた。
「……どうしてわかったの?」
「窓から見えた」
「執務室から、この場所が見えるの?」
「ああ」
 わたしは少し笑った。

「ずっと、見ていたの?」
「ときどき」
「いつから?」
 クリスが少し考えた。
「お前が嫁いできた頃から」
 いつもこのベンチにいるわたしを、執務室の窓から見ていた。
 その事実がどこまでも温かかった。

 二人で並んで、庭を眺めた。
 冬の空は高くて、青かった。
 風が吹いて、枯れ葉が舞った。
 鳥が一羽、木の枝に止まって、すぐに飛んでいった。
 何も言わなかった。
 でも何も言わなくていかった。
 ただ隣にいるだけで、十分だった。
 いや十分以上だった。
 この人の隣が、こんなにも温かいとは。
 知っていたようで、知らなかった。
 本当の意味で隣に来るまで、わからなかった。

「アリス」
 クリスが静かに呼んだ。
「なに?」
「一つ、聞いていいか」
「ええ」
「お前は今幸せか」
 その問いに、わたしは少し笑った。
 二十五話の夜、クリスに同じことを聞かれた。
 あのときは「わかりません」と答えた。
 でも今は。
「幸せよ」
 迷わずに言えた。
「本当に?」
「本当に」
 クリスが少し目を細めた。
「そうか」
「クリスは?」
 クリスが少しの間、空を見た。
 それから静かに言った。
「ああ。今は幸せだ」

 その言葉が、冬の空気に溶けていった。
 今は、と言った。
 今は幸せだ。
 その「今は」がこれから先も続いていくような気がした。
 今日だけでなく、明日も、明後日も。
 この人の隣で、ずっと。

 しばらくして、クリスが立ち上がった。
「寒い、中に入るか」
「そうね」
 わたしも立ち上がった。
 クリスが手を差し出した。
 その手を取った。
 昨夜より、自然に取れた。
 二人で石畳を歩いた。
 屋敷の入り口に向かって。
 手を繋いだまま。

 屋敷の中に入ると、温かい空気が包んできた。
 ジョエルが廊下で出迎えた。
 わたしたちの手を見て、一瞬止まった。
 それから深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
 その声が、少し震えていた。
 わたしはクリスと顔を見合わせた。
 クリスが小さく「余計なことを言うな」とジョエルに言った。
「何も申しておりません」ジョエルが顔を上げた。「ただよかったと思っているだけでございます」
 クリスが少し黙った。
「……ありがとう」
 ジョエルが深く頷いた。
 廊下の奥で、エマとベアトリスが顔を覗かせているのが見えた。
 二人とも、目が赤かった。

 夕食の後、居間で二人になった。
 暖炉の前に並んで座った。
 クリスが本を開いていた。
 わたしは刺繍をしていた。
 同じ景色だった。
 ずっと繰り返してきた、いつもの夜の景色。
 でも今夜は、何かが違った。
 同じ部屋で、それぞれのことをしている。
 でも同じ空気の中にいる。
 同じ温もりの中にいる。
 それだけのことが今夜は特別だった。
「アリス」
 クリスが本から顔を上げた。
「なに?」
「刺繍は、何を作っているんだ」
「ハンカチよ」
「誰の?」
「クリスの」
 クリスが少し止まった。
「……俺の?」
「ええ」
「なぜ」
「作りたかったから」
 クリスがわたしを見た。
「……いつから」
「ずっと前から。でもなかなか渡せなくて」
「なぜ」
「恥ずかしかったもの」
 クリスが少しの間、黙った。
「今は?」
「今は渡せる気がするわ」
 クリスが静かに頷いた。
「完成したら、もらう」
「ええ」

 また沈黙が落ちた。
 温かい沈黙だった。
 暖炉の炎が揺れていた。
 外で風が鳴っていた。
 クリスがまた本に目を落とした。
 わたしも刺繍の続きをした。
 針を動かしながら思った。
 幼い頃からずっと、この人の隣が好きだった。
 でもその隣は、いつも遠かった。
 届かなかった。
 なのに今はこんなに近い。
 肩が触れるほど近い場所に、この人がいる。
 遠回りをした。
 たくさん泣いた。
 たくさん怖かった。
 でもたどり着いた。
 この場所に。

夜が深まった頃、クリスが「もう休め」と言った。
わたしは刺繍を片付けて立ち上がった。
部屋を出る前に、クリスが「おやすみ」と言った。
わたしも「おやすみなさい」と返した。
それだけだった。
でも今夜の「おやすみ」は昨日までのものと、全然違った。
廊下を歩きながら、また目の奥が熱くなった。
情けないと思いながら、でも止められなかった。
部屋に入って、扉を閉めて。
窓の外の星を見た。
冬の星が、鋭く光っていた。
隣にいる場所が、やっとわかった。
ずっと探していた場所は、遠くにはなかった。
あの人の隣に、最初からあった。

今日こそが忘れられない日となった。




最後のページまで来てくださったのですね。
ありがとうございます。
この物語を書きながら、何度も思っていました。

アリスみたいに、言いたいことを飲み込んでしまう人が、どこかにいるかもしれないと。
クリスみたいに、伝えたいのに伝えられない人が、どこかにいるかもしれないと。
そんな誰かに、この物語が届いていたら
書いて良かったと思います。


どうか皆様も、大切な気持ちをちゃんと届けられますように。
ありがとうございました。

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