9 / 20
第九章 遠征の誓いと王妃の限界
しおりを挟む
夜明け前、王宮の練兵場には、早朝のひんやりとした空気の中、鎧の擦れる音と兵士たちのざわめきが響いていた。
レオンハルト率いる魔物討伐隊が、いよいよ影の山脈へ向け出発するのだ。
彼の表情は、騎士団長や宰相アルベールとの最終確認をしながらも、どこか張り詰めていた。
「陛下、くれぐれもご無理なさらず。我々も、王宮の守りを固めておきます」
アルベールが、深々と頭を下げた。
「ああ。王宮の守りは頼んだぞ。特に、北棟の警備を厳重に。決して、油断するな」
レオンハルトの声には、セレフィリアへの深い気遣いが込められていた。彼の脳裏には、昨日見たセレフィリアの憔悴しきった横顔が焼き付いている。
彼女が今、どれほどの重圧に耐えているか、彼は痛いほどに理解していた。
「もし、何か異変があれば、すぐに知らせろ。どのような些細なことでもだ」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。
しかし、彼が直接セレフィリアに会いに行き、励ますことはできない。それが、彼に課された苦渋の選択だった。
「陛下、聖女マリア様がお見送りに」
騎士の一人が声を上げた。振り返ると、マリアが侍女たちを伴い、優雅な足取りで練兵場に現れた。彼女の白い聖衣が、朝日にきらめいている。
「レオンハルト様! どうかご無事で。わたくし、あなたの無事を心よりお祈りしておりますわ」
マリアは、レオンハルトに駆け寄り、その腕にそっと手を添えた。彼女の瞳には、心からの心配と、そして確かに愛情が宿っているように見えた。
レオンハルトは、マリアの目を見て、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、マリア。君の祈りは、きっと私を支えてくれるだろう」
その言葉は、兵士たちの士気を高め、マリアへの国民の信頼をより強固なものにするための、彼なりの役目だった。
しかし、その言葉一つ一つが、レオンハルト自身の心を締め付ける。彼は今、本当に愛する者への言葉ではなく、演じるための言葉を口にしているのだ。
「皆様! 陛下の勝利を、神に祈りましょう!」
マリアが高らかに声を上げると、練兵場に集まった兵士や見送りの者たちから、一斉に歓声と祈りの声が上がった。
レオンハルトは、その熱狂の中心で、遠く北棟の方向を一瞥した。そこに、彼の真の心が囚われていることを、誰にも悟られぬよう。
討伐隊の出発後、王宮は一時的に静まり返った。しかし、セレフィリアの孤独な戦いは、変わらず続いていた。
レオンハルトが出発したその日から、彼女の体に感じる倦怠感と、力の消耗はさらに加速していた。
「セレフィリア様、昨夜はあまりお休みにならなかったのでしょう? 目が、とてもお疲れのようですわ」
リーゼが、朝食を運んできた際に、心配そうに尋ねた。
「ええ……少し、寝付けなくて。でも、大丈夫」
セレフィリアは、無理に微笑んだ。だが、その声はか細く、唇は血の気を失っていた。
(陛下が、魔物の根源を叩いてくださるはず……それまで、私が持ちこたえなければ)
そう心に言い聞かせながらも、彼女は不安に駆られていた。レオンハルトが討伐隊を率いて出発したことは知っていた。
彼が自ら危険な最前線に向かったことに、胸の奥が締め付けられるような思いだった。
その日の午後、セレフィリアは北棟の自室で、聖なる器と向き合っていた。
瘴気の濃度はさらに高まり、結界の維持にこれまで以上の労力を必要としていた。彼女の額には汗が滲み、全身が震え始める。
「くっ……!」
セレフィリアは、思わずうめき声を漏らした。目の前が霞み、意識が遠のきそうになる。その時、微かな振動が、床から伝わってきた。
そして、王宮全体を覆う結界が、わずかに揺らぐのを感じ取った。
「これは……まさか……」
セレフィリアの目に、驚愕の色が浮かんだ。
結界の揺らぎは、外部からの強い衝撃を示している。それは、魔物たちが、これまでになく大胆な行動に出たことを意味していた。
その知らせは、王宮内に瞬く間に広まった。
「王都の結界に、亀裂が……!?」
「下級魔物が、市街地に侵入しただと!?」
王宮の廊下は、混乱した衛兵や侍女たちの声で騒然としていた。
その頃、聖女マリアは、庭園で貴族たちと優雅なティータイムを過ごしていた。
魔物侵入の知らせを聞くと、彼女の顔から笑顔が消え失せた。
「なんですって!? 魔物が、この王都に……!」
マリアは、悲鳴に近い声を上げた。貴族たちは顔色を失い、マリアにすがるように問いかける。
「聖女様! どうか、お力をお貸しください! 私たちをお守りくださいまし!」
マリアは、戸惑いを隠せない様子で立ち尽くした。彼女の聖なる力は、人々の心を癒やすことには長けているが、物理的な防壁となったり、魔物を直接退けたりする類のものではないのだ。
「わたくしは……わたくしにできるのは、祈ることだけ……!」
マリアは、震える声でそう告げた。彼女の言葉に、貴族たちの顔に失望の色が広がる。
一方、北棟のセレフィリアの部屋では、彼女が全身の痛みに耐えながら、聖なる器にさらに強く力を注ぎ込んでいた。
結界の亀裂を修復しようと、枯渇しそうな力を振り絞る。
「セレフィリア様! もうやめてください! お体が……!」
リーゼが、泣きそうな声でセレフィリアの腕を取ろうとするが、彼女はそれを振り払った。
「私が……やらねば……この国が……!」
セレフィリアの視界は、すでに真っ白に染まり始めていた。しかし、彼女の心は、ただ国と民の安全を願う一心で満たされていた。
レオンハルトが遠くで戦っている今、この王都を守れるのは、自分しかいないのだと。
その小さな体が、国の命運を一身に背負い、静かに、しかし確実に限界を迎えようとしていた。
王宮に響く混乱のざわめきと、セレフィリアの必死な祈りが、虚しくすれ違う夜だった。
レオンハルト率いる魔物討伐隊が、いよいよ影の山脈へ向け出発するのだ。
彼の表情は、騎士団長や宰相アルベールとの最終確認をしながらも、どこか張り詰めていた。
「陛下、くれぐれもご無理なさらず。我々も、王宮の守りを固めておきます」
アルベールが、深々と頭を下げた。
「ああ。王宮の守りは頼んだぞ。特に、北棟の警備を厳重に。決して、油断するな」
レオンハルトの声には、セレフィリアへの深い気遣いが込められていた。彼の脳裏には、昨日見たセレフィリアの憔悴しきった横顔が焼き付いている。
彼女が今、どれほどの重圧に耐えているか、彼は痛いほどに理解していた。
「もし、何か異変があれば、すぐに知らせろ。どのような些細なことでもだ」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。
しかし、彼が直接セレフィリアに会いに行き、励ますことはできない。それが、彼に課された苦渋の選択だった。
「陛下、聖女マリア様がお見送りに」
騎士の一人が声を上げた。振り返ると、マリアが侍女たちを伴い、優雅な足取りで練兵場に現れた。彼女の白い聖衣が、朝日にきらめいている。
「レオンハルト様! どうかご無事で。わたくし、あなたの無事を心よりお祈りしておりますわ」
マリアは、レオンハルトに駆け寄り、その腕にそっと手を添えた。彼女の瞳には、心からの心配と、そして確かに愛情が宿っているように見えた。
レオンハルトは、マリアの目を見て、柔らかく微笑んだ。
「ありがとう、マリア。君の祈りは、きっと私を支えてくれるだろう」
その言葉は、兵士たちの士気を高め、マリアへの国民の信頼をより強固なものにするための、彼なりの役目だった。
しかし、その言葉一つ一つが、レオンハルト自身の心を締め付ける。彼は今、本当に愛する者への言葉ではなく、演じるための言葉を口にしているのだ。
「皆様! 陛下の勝利を、神に祈りましょう!」
マリアが高らかに声を上げると、練兵場に集まった兵士や見送りの者たちから、一斉に歓声と祈りの声が上がった。
レオンハルトは、その熱狂の中心で、遠く北棟の方向を一瞥した。そこに、彼の真の心が囚われていることを、誰にも悟られぬよう。
討伐隊の出発後、王宮は一時的に静まり返った。しかし、セレフィリアの孤独な戦いは、変わらず続いていた。
レオンハルトが出発したその日から、彼女の体に感じる倦怠感と、力の消耗はさらに加速していた。
「セレフィリア様、昨夜はあまりお休みにならなかったのでしょう? 目が、とてもお疲れのようですわ」
リーゼが、朝食を運んできた際に、心配そうに尋ねた。
「ええ……少し、寝付けなくて。でも、大丈夫」
セレフィリアは、無理に微笑んだ。だが、その声はか細く、唇は血の気を失っていた。
(陛下が、魔物の根源を叩いてくださるはず……それまで、私が持ちこたえなければ)
そう心に言い聞かせながらも、彼女は不安に駆られていた。レオンハルトが討伐隊を率いて出発したことは知っていた。
彼が自ら危険な最前線に向かったことに、胸の奥が締め付けられるような思いだった。
その日の午後、セレフィリアは北棟の自室で、聖なる器と向き合っていた。
瘴気の濃度はさらに高まり、結界の維持にこれまで以上の労力を必要としていた。彼女の額には汗が滲み、全身が震え始める。
「くっ……!」
セレフィリアは、思わずうめき声を漏らした。目の前が霞み、意識が遠のきそうになる。その時、微かな振動が、床から伝わってきた。
そして、王宮全体を覆う結界が、わずかに揺らぐのを感じ取った。
「これは……まさか……」
セレフィリアの目に、驚愕の色が浮かんだ。
結界の揺らぎは、外部からの強い衝撃を示している。それは、魔物たちが、これまでになく大胆な行動に出たことを意味していた。
その知らせは、王宮内に瞬く間に広まった。
「王都の結界に、亀裂が……!?」
「下級魔物が、市街地に侵入しただと!?」
王宮の廊下は、混乱した衛兵や侍女たちの声で騒然としていた。
その頃、聖女マリアは、庭園で貴族たちと優雅なティータイムを過ごしていた。
魔物侵入の知らせを聞くと、彼女の顔から笑顔が消え失せた。
「なんですって!? 魔物が、この王都に……!」
マリアは、悲鳴に近い声を上げた。貴族たちは顔色を失い、マリアにすがるように問いかける。
「聖女様! どうか、お力をお貸しください! 私たちをお守りくださいまし!」
マリアは、戸惑いを隠せない様子で立ち尽くした。彼女の聖なる力は、人々の心を癒やすことには長けているが、物理的な防壁となったり、魔物を直接退けたりする類のものではないのだ。
「わたくしは……わたくしにできるのは、祈ることだけ……!」
マリアは、震える声でそう告げた。彼女の言葉に、貴族たちの顔に失望の色が広がる。
一方、北棟のセレフィリアの部屋では、彼女が全身の痛みに耐えながら、聖なる器にさらに強く力を注ぎ込んでいた。
結界の亀裂を修復しようと、枯渇しそうな力を振り絞る。
「セレフィリア様! もうやめてください! お体が……!」
リーゼが、泣きそうな声でセレフィリアの腕を取ろうとするが、彼女はそれを振り払った。
「私が……やらねば……この国が……!」
セレフィリアの視界は、すでに真っ白に染まり始めていた。しかし、彼女の心は、ただ国と民の安全を願う一心で満たされていた。
レオンハルトが遠くで戦っている今、この王都を守れるのは、自分しかいないのだと。
その小さな体が、国の命運を一身に背負い、静かに、しかし確実に限界を迎えようとしていた。
王宮に響く混乱のざわめきと、セレフィリアの必死な祈りが、虚しくすれ違う夜だった。
110
あなたにおすすめの小説
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
転移先で日本語を読めるというだけで最強の男に囚われました
桜あずみ
恋愛
異世界に転移して2年。
言葉も話せなかったこの国で、必死に努力して、やっとこの世界に馴染んできた。
しかし、ただ一つ、抜けなかった癖がある。
──ふとした瞬間に、日本語でメモを取ってしまうこと。
その一行が、彼の目に留まった。
「この文字を書いたのは、あなたですか?」
美しく、完璧で、どこか現実離れした男。
日本語という未知の文字に強い関心を示した彼は、やがて、少しずつ距離を詰めてくる。
最初はただの好奇心だと思っていた。
けれど、気づけば私は彼の手の中にいた。
彼の正体も、本当の目的も知らないまま。すべてを知ったときには、もう逃げられなかった。
毎日19時に更新予定です。
【本編完結】王子の寝た子を起こしたら、夢見る少女では居られなくなりました!
こさか りね
恋愛
私、フェアリエル・クリーヴランドは、ひょんな事から前世を思い出した。
そして、気付いたのだ。婚約者が私の事を良く思っていないという事に・・・。
婚約者の態度は前世を思い出した私には、とても耐え難いものだった。
・・・だったら、婚約解消すれば良くない?
それに、前世の私の夢は『のんびりと田舎暮らしがしたい!』と常々思っていたのだ。
結婚しないで済むのなら、それに越したことはない。
「ウィルフォード様、覚悟する事ね!婚約やめます。って言わせてみせるわ!!」
これは、婚約解消をする為に奮闘する少女と、本当は好きなのに、好きと気付いていない王子との攻防戦だ。
そして、覚醒した王子によって、嫌でも成長しなくてはいけなくなるヒロインのコメディ要素強めな恋愛サクセスストーリーが始まる。
※序盤は恋愛要素が少なめです。王子が覚醒してからになりますので、気長にお読みいただければ嬉しいです。
※本編完結しました。
虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました
たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。
可愛らしい人
はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」
離婚寸前で人生をやり直したら、冷徹だったはずの夫が私を溺愛し始めています
腐ったバナナ
恋愛
侯爵夫人セシルは、冷徹な夫アークライトとの愛のない契約結婚に疲れ果て、離婚を決意した矢先に孤独な死を迎えた。
「もしやり直せるなら、二度と愛のない人生は選ばない」
そう願って目覚めると、そこは結婚直前の18歳の自分だった!
今世こそ平穏な人生を歩もうとするセシルだったが、なぜか夫の「感情の色」が見えるようになった。
冷徹だと思っていた夫の無表情の下に、深い孤独と不器用で一途な愛が隠されていたことを知る。
彼の愛をすべて誤解していたと気づいたセシルは、今度こそ彼の愛を掴むと決意。積極的に寄り添い、感情をぶつけると――
狂おしいほど愛しています、なのでよそへと嫁ぐことに致します
ちより
恋愛
侯爵令嬢のカレンは分別のあるレディだ。頭の中では初恋のエル様のことでいっぱいになりながらも、一切そんな素振りは見せない徹底ぶりだ。
愛するエル様、神々しくも真面目で思いやりあふれるエル様、その残り香だけで胸いっぱいですわ。
頭の中は常にエル様一筋のカレンだが、家同士が決めた結婚で、公爵家に嫁ぐことになる。愛のない形だけの結婚と思っているのは自分だけで、実は誰よりも公爵様から愛されていることに気づかない。
公爵様からの溺愛に、不器用な恋心が反応したら大変で……両思いに慣れません。
変人令息は悪女を憎む
くきの助
恋愛
「ブリジット=バールトン。あなたを愛する事はない。」
ああ、ようやく言えた。
目の前の彼女は14歳にしてこれが二度目の結婚。
こんなあどけない顔をしてとんでもない悪女なのだ。
私もそのことを知った時には腹も立ったものだが、こちらにも利がある結婚だと割り切ることにした。
「当初話した通り2年間の契約婚だ。離婚後は十分な慰謝料も払おう。ただ、白い結婚などと主張されてはこちらも面倒だ。一晩だけ付き合ってもらうよ。」
初夜だというのに腹立たしい気持ちだ。
私だって悪女と知る前は契約なんて結ぶ気はなかった。
政略といえど大事にしようと思っていたんだ。
なのになぜこんな事になったのか。
それは半年ほど前に遡る。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる