孤独な王妃

柴田はつみ

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第九章 遠征の誓いと王妃の限界

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夜明け前、王宮の練兵場には、早朝のひんやりとした空気の中、鎧の擦れる音と兵士たちのざわめきが響いていた。



レオンハルト率いる魔物討伐隊が、いよいよ影の山脈へ向け出発するのだ。



彼の表情は、騎士団長や宰相アルベールとの最終確認をしながらも、どこか張り詰めていた。




「陛下、くれぐれもご無理なさらず。我々も、王宮の守りを固めておきます」




アルベールが、深々と頭を下げた。




「ああ。王宮の守りは頼んだぞ。特に、北棟の警備を厳重に。決して、油断するな」




レオンハルトの声には、セレフィリアへの深い気遣いが込められていた。彼の脳裏には、昨日見たセレフィリアの憔悴しきった横顔が焼き付いている。



彼女が今、どれほどの重圧に耐えているか、彼は痛いほどに理解していた。





「もし、何か異変があれば、すぐに知らせろ。どのような些細なことでもだ」




その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているかのようだった。




しかし、彼が直接セレフィリアに会いに行き、励ますことはできない。それが、彼に課された苦渋の選択だった。




「陛下、聖女マリア様がお見送りに」



騎士の一人が声を上げた。振り返ると、マリアが侍女たちを伴い、優雅な足取りで練兵場に現れた。彼女の白い聖衣が、朝日にきらめいている。




「レオンハルト様! どうかご無事で。わたくし、あなたの無事を心よりお祈りしておりますわ」




マリアは、レオンハルトに駆け寄り、その腕にそっと手を添えた。彼女の瞳には、心からの心配と、そして確かに愛情が宿っているように見えた。




レオンハルトは、マリアの目を見て、柔らかく微笑んだ。




「ありがとう、マリア。君の祈りは、きっと私を支えてくれるだろう」




その言葉は、兵士たちの士気を高め、マリアへの国民の信頼をより強固なものにするための、彼なりの役目だった。



しかし、その言葉一つ一つが、レオンハルト自身の心を締め付ける。彼は今、本当に愛する者への言葉ではなく、演じるための言葉を口にしているのだ。





「皆様! 陛下の勝利を、神に祈りましょう!」




マリアが高らかに声を上げると、練兵場に集まった兵士や見送りの者たちから、一斉に歓声と祈りの声が上がった。




レオンハルトは、その熱狂の中心で、遠く北棟の方向を一瞥した。そこに、彼の真の心が囚われていることを、誰にも悟られぬよう。





討伐隊の出発後、王宮は一時的に静まり返った。しかし、セレフィリアの孤独な戦いは、変わらず続いていた。




レオンハルトが出発したその日から、彼女の体に感じる倦怠感と、力の消耗はさらに加速していた。





「セレフィリア様、昨夜はあまりお休みにならなかったのでしょう? 目が、とてもお疲れのようですわ」





リーゼが、朝食を運んできた際に、心配そうに尋ねた。





「ええ……少し、寝付けなくて。でも、大丈夫」





セレフィリアは、無理に微笑んだ。だが、その声はか細く、唇は血の気を失っていた。




(陛下が、魔物の根源を叩いてくださるはず……それまで、私が持ちこたえなければ)





そう心に言い聞かせながらも、彼女は不安に駆られていた。レオンハルトが討伐隊を率いて出発したことは知っていた。





彼が自ら危険な最前線に向かったことに、胸の奥が締め付けられるような思いだった。





その日の午後、セレフィリアは北棟の自室で、聖なる器と向き合っていた。




瘴気の濃度はさらに高まり、結界の維持にこれまで以上の労力を必要としていた。彼女の額には汗が滲み、全身が震え始める。





「くっ……!」




セレフィリアは、思わずうめき声を漏らした。目の前が霞み、意識が遠のきそうになる。その時、微かな振動が、床から伝わってきた。





そして、王宮全体を覆う結界が、わずかに揺らぐのを感じ取った。




「これは……まさか……」





セレフィリアの目に、驚愕の色が浮かんだ。




結界の揺らぎは、外部からの強い衝撃を示している。それは、魔物たちが、これまでになく大胆な行動に出たことを意味していた。






その知らせは、王宮内に瞬く間に広まった。




「王都の結界に、亀裂が……!?」




「下級魔物が、市街地に侵入しただと!?」




王宮の廊下は、混乱した衛兵や侍女たちの声で騒然としていた。
その頃、聖女マリアは、庭園で貴族たちと優雅なティータイムを過ごしていた。





魔物侵入の知らせを聞くと、彼女の顔から笑顔が消え失せた。




「なんですって!? 魔物が、この王都に……!」




マリアは、悲鳴に近い声を上げた。貴族たちは顔色を失い、マリアにすがるように問いかける。




「聖女様! どうか、お力をお貸しください! 私たちをお守りくださいまし!」




マリアは、戸惑いを隠せない様子で立ち尽くした。彼女の聖なる力は、人々の心を癒やすことには長けているが、物理的な防壁となったり、魔物を直接退けたりする類のものではないのだ。





「わたくしは……わたくしにできるのは、祈ることだけ……!」





マリアは、震える声でそう告げた。彼女の言葉に、貴族たちの顔に失望の色が広がる。





一方、北棟のセレフィリアの部屋では、彼女が全身の痛みに耐えながら、聖なる器にさらに強く力を注ぎ込んでいた。




結界の亀裂を修復しようと、枯渇しそうな力を振り絞る。





「セレフィリア様! もうやめてください! お体が……!」





リーゼが、泣きそうな声でセレフィリアの腕を取ろうとするが、彼女はそれを振り払った。





「私が……やらねば……この国が……!」





セレフィリアの視界は、すでに真っ白に染まり始めていた。しかし、彼女の心は、ただ国と民の安全を願う一心で満たされていた。



レオンハルトが遠くで戦っている今、この王都を守れるのは、自分しかいないのだと。




その小さな体が、国の命運を一身に背負い、静かに、しかし確実に限界を迎えようとしていた。




王宮に響く混乱のざわめきと、セレフィリアの必死な祈りが、虚しくすれ違う夜だった。
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