指輪を外した朝に

柴田はつみ

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第二十話「春を待ちながら」

リオンからの返事は、その日の夕方に届いた。
アリアは封を開けた。
読んだ。
お前のことが、好きだ。
いつからかわからない。
気づいた時にはもう、遅かった。

アリアは便箋を、胸に押し当てた。
目の奥が、熱くなった。
好きだ、と言ってくれた。
三年間一度も言われなかった言葉が。
今日、届いた。
涙が、一粒こぼれた。


しばらく、そのまま泣いた。
声も立てず、ただ静かに。
雪が残る庭が、窓の外で白く輝いていた。

翌朝、アリアは久しぶりにゆっくりと目が覚めた。
よく眠れた。
不思議なくらい、深く眠れた。
鏡の前に座った。

自分の顔を見た。
目が少し、赤かった。
しかし表情が、柔らかかった。
昨夜泣いたから、かもしれない。
正直になれたから、かもしれない。
どちらも正しい気がした。

「アリア様、おはようございます」
侍女が入ってきた。
「おはよう」
「今日はお顔の色が良いですね」
「そうかしら」

「ええ。なんというか」
侍女が少し、首を傾けた。
「晴れ晴れとした顔をされています」
アリアは鏡の中の自分を見た。
晴れ晴れと。
そうかもしれない。

朝食の席に、ソフィアがいた。
アリアの顔を見てすぐに、察したようだった。
「手紙が来たのね」
「ええ」
「リオン様から」
「はい」
ソフィアがコーヒーを一口飲んだ。
「どんな内容だったの」
「……好きだ、と」
ソフィアの手が、カップの上で止まった。

「初めて言ってくれました」
「そう」
ソフィアが静かに言った。
「泣いた?」
「……はい」
「良かったわ」
アリアは少し、驚いた。

「良かった、とは」
「泣けたということはちゃんと届いたということでしょう」
アリアは窓の外を見た。

雪が残る庭に、朝の光が差し込んでいた。
「お母様」
「なあに」
「私はどうすればいいでしょう」
「どうしたいの」

「……会いたい、と思っています」
口に出して初めて気づいた。
ああ、そうだ。
会いたいのだ。
手紙ではもう、足りない。

「会いに行けばいいじゃない」
ソフィアがあっさりと言った。
「そんな簡単に」
「簡単よ」
ソフィアが娘を見た。

「あなたが動けばいいだけ。難しく考えすぎよ、いつも」
アリアは少し、笑った。
「お母様はいつも、そうですね」
「そう?」
「簡単に言う」

「だって本当に簡単なのだもの」
ソフィアが立ち上がりながら言った。
「ただし」
「はい」
「会いに行く前にカイルに話しなさい」
アリアは頷いた。
「……わかりました」

午後、カイルが来た。
いつものように、温かいお茶を持って。
庭のベンチに並んで座った。
雪がまだ残っていたが、今日は風がなくて思ったより、寒くなかった。

「カイル」
「はい」
「話があります」
カイルが、静かにアリアを見た。
その目がすでに、わかっているような色をしていた。

「リオン様から、手紙が来ました」
「……そうですか」
「好きだと言ってくれました」
カイルが、前を向いた。
庭の枯れ木を、じっと見ていた。
「アリア様は」

「会いに行こうと思っています」
沈黙。
風のない庭が、しんと静まり返った。
「……そうですか」
カイルの声は穏やかだった。
震えていなかった。

「カイル」
「はい」
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
カイルが首を振った。
「俺は覚悟の上だったと言いました。それは本当です」

「わかっています。でも」
「アリア様」
カイルがアリアを見た。
穏やかで、真剣な目だった。
「一つだけ聞かせてください」
「ええ」

「リオン様のことが本当に好きですか」
アリアは、まっすぐにカイルを見た。
「……はい」
「怖さより大きいですか」
アリアは少し、考えた。
昨夜の涙を思い出した。

リオンの手紙を、胸に押し当てた時のことを。
「……大きくなってきています」
カイルが、ゆっくりと頷いた。
「ならば行ってください」
「カイル」

「俺はアリア様の幸せが、一番大事です。それは本当のことです」
カイルがお茶を一口飲んだ。

「リオン様が本当に変わったならアリア様を幸せにできる人なら俺は、それでいい」
「……ありがとう」
「ただし」
カイルが、少しいたずらっぽく笑った。

「もしリオン様がまた同じことをするなら」
「カイル」
「その時は俺が迎えに行きます」
アリアは笑った。
泣きそうになりながら、笑った。
「……覚えておきます」
「ええ。しっかり覚えておいてください」

二人で、しばらく笑った。
温かい笑い声が、冬の庭に広がった。
それから静かになった。
「カイル」
「はい」
「あなたは本当に、良い人ね」

「褒めても何も出ませんよ」
「本当のことよ」
カイルが、空を見上げた。
灰色の冬の空がどこか、明るく見えた。
「アリア様が幸せになれば俺も、前を向けます」

「前を向いて、どこへ行くの」
「さあ」
カイルが笑った。
「でもどこかへ、行けそうな気がしています」

アリアはカイルを見た。
幼馴染の横顔が今日は、少し、大人びて見えた。
「カイル」
「なんですか」
「あなたにも素敵な人が現れるといいね」

「……ありがとうございます」
「本当のことよ」
「わかっています」
二人で、また空を見た。

灰色の空の端に—かすかに、青が見えた。
冬の終わりの、青だ。
「アリア様」
「なあに」
「いつ会いに行くつもりですか」
「……春になったら、と思っています」
「春」
「冬の間にもう少し、考えて。春になったら動こうと」
カイルが頷いた。

「良い選択だと思います」
「そう?」
「ええ。焦らなくていい。ただ」
「ただ?」
カイルがアリアを見た。
「春になったらちゃんと、動いてください」
「動きます」
「約束ですよ」
「約束します」

二人で、指切りをした。
子供の頃に、何度もしたように。
小指を絡めて約束した。
アリアの胸の中で、何かが静かに、決まった気がした。

その夜、アリアはリオンへの手紙を書いた。

リオン様
あなたの手紙を読んで、泣きました。
好きだと言ってくれてありがとうございます。
三年間、言ってほしかった言葉でした。
私も好きです。
ずっと、好きでした。
春になったら会いに行きます。
それまで待っていてください。
白い花と一緒に。
アリア

書き終えた。
読み返した。
今までで一番、短くて、一番、正直な手紙だった。
封をした。
机の上に置いた。
明日送ろう。
窓の外を見た。
雪が、また降り始めていた。
しかし今夜の雪は以前の雪と、違って見えた。

冷たくなかった。
白くて、静かで、春を待っているような雪だった。
春になったら会いに行く。
それまではこの冬を、ちゃんと生きよう。
アリアは布団に入った。
目を閉じた。

胸の奥に小さな炎が、確かに灯っていた。
消えない、温かい炎が。
春は必ず来る。
冬がどんなに長くても。
雪がどんなに積もっても。
必ず春は来る。

アリアは静かに、目を閉じたまま微笑んだ。
仮面ではない。
完璧でもない。
ただ本当の、自分の顔で。
雪が降り続ける夜に春を待ちながら。

翌朝、リオンに手紙が届いた。
封を開けた。
読んだ。
春になったら会いに行きます。
それまで待っていてください。
リオンは便箋を置いた。
窓の外を見た。
雪が降っていた。

しかし今日の雪は白くて、明るかった。
「ハインツ」
執務室の扉を開けて、呼んだ。
ハインツがすぐに来た。
「はい、旦那様」
「庭の白い花を」
「はい」
「枯れないよう、気をつけてくれ」
ハインツが深く、一礼した。
その目が、かすかに潤んでいた。
「かしこまりました」
「春まで持たせてくれ」
「必ず」
足音が遠ざかっていく。
リオンは窓辺の白い花を見た。
小さくて、白くて、静かに咲いている花を。
春まで咲いていてくれ。

アリアが来る、その日まで。
雪が降り続けていた。
しかし窓の外の景色が今日は、どこか温かく見えた。
春を待つ冬の景色が。
白く、静かに輝いていた。

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